気がついた時には、二人は砂利の上に転がっていた。
「安岐大丈夫か?」
いつの間に腕の中から這い出たのか、朱夏が顔をのぞき込んでいた。満月近い月は明るく、彼女の表情まで見える。少し遠くには、常夜灯も、白緑の光を辺りに投げている。
安岐はまだやや痛む左腕をかばいながら身体を起こした。
「ここは何処だ? 安岐…… 私はここは知らない」
「何処って……」
彼にもすぐには判らなかった。だが、辺りを見渡す視線が、上方に向かった時、彼はそこが何処だか判った。
「朱夏、ここはお城だ」
「お城? 安岐が来ようと言ったところか?」
そ、と彼はうなづく。HALは知っていて出してくれたのか。
常夜灯によって下から光が当てられた、白い壁を持つ城を見上げたら、さすがに目覚めたばかりの彼は、頭がぐらりとするのを感じた。
「本当に大丈夫か安岐? 何かまだ元気がない」
そう言って朱夏は安岐のやや長めの前髪を持ち上げる。
「大丈夫」
近付いたを幸い、と彼は軽く彼女の唇にキスする。ほんの少し、朱夏が目を瞬かせたような気がした。
「ちょうどここに来たことだし、デートの続きしよう」
朱夏は黙ってうなづいた。
服のほこりを二人ともぱたぱたと払うと、とりあえずそこが「お城の公園」の何処なのか、確かめるべく歩き出した。
しばらく歩くと、冷たい光に照らし出された城の全体のアウトラインが姿を現した。
「あれ、こんな色だったっけ、屋根」
「そうではないのか?」
「うん。何かずっと黒だと思いこんでた」
「忘れていただけではないのか?」
「そうかもな」
城の屋根は、薄い青緑だった。それを言い表すべき色の名前があるはずだが、それも彼は思い出せない。何となくもどかしい。
「やっぱり元気がない」
「そんなことないよ」
「そんなことある。私は安岐が元気ないと心地よくない。さっきからお前ずっとその調子だ」
「うん。確かに元気ないな」
「何が気にかかる? さっきの奴と話していた時もそうだった。安岐は何か気にかかっているのか?」
「気にはかかっているね」
「私には判らない。でも奴と会話していたせいで安岐が元気がなくなったということは判る。奴の言うことが安岐にどういう気持ちの変化をもたらしたんだ?」
うん、と彼はうなづく。
「彼が言った内容は判るだろう?」
「都市を元にもどし私の『音』を消す、ということか?」
そう、と彼は再びうなづく。
「その話自体はいいんだ」
「私もそれはいいと思う」
「だけど彼が、仕組んでいたことと、何か大切なことを黙っていることが何となく」
「気にいらない? でもどうしてそこで安岐は…… えーと、怒るんだ?」
「怒ってる?」
「怒ってる。だって、それは誰がそうしても、そういう可能性はあるんだ。安岐は空間をどうのという力は持たない。私も持たない。持たない奴が大がかりな計画に参加すれば、駒の一つになるのは仕方がないじゃないか?」
「それは判るんだ。それは仕方ない」
「じゃあどうして安岐は怒っている? それとも困っている?」
「困って?」
「だって私の知ってる安岐なら、それを利用しようって考えるだろう? ただだまされるだけじゃないじゃないか」
「朱夏はそういう俺を見たことあるの?」
いいや、と彼女は首を振る。
「無い。でもそういうことをしてきた、といろいろ話したのは安岐だぞ。私は全部覚えている。私の記憶回路を疑うのか?」
彼は思わず目を細める。
「そういう訳じゃあないんだ」
「じゃどういう訳だ?」
「たぶん彼が、朱夏に似ていたからだよ」
「私に?」
そう、と彼は言うと彼女を引き寄せた。
「でも私と奴は別物だぞ」
「そりゃそうさ。でもそういうことじゃないんだ。何処とも知れないけれど似てる彼が、いつも俺に何か思わせぶりなことを言う…… 何か特別だ、と思っていたのかもしれない」
「奴が好きだったのか?」
がっくり、と彼女を抱きしめる力が抜ける。
「あのねえ朱夏」
「そうじゃないのか?」
「だから彼は男でしょ」
「あの身体は、男じゃないぞ」
「はいはい、レプリカには基本的には…… でしょ」
「じゃなくて、
「何だって」
「思い出した。私はもともとあれと同じなんだ。前に言ったろう? 私は壊れそうだったから、東風は私の
安岐は何となく複雑な気分だった。だがそう付け足す朱夏の言葉には何となく元気がない。
「気になるか?」
「気にならないと言えば嘘だけど」
彼よりは充分に小柄な彼女は、抱きしめられると彼を見上げる形になる。それは出会ってから何度となく彼が見た角度である。だが、常夜灯の光の中のせいだろうか? 何となくいつもと違って見えた。
視線が不安定だった。いつもなら何の迷いもなく真っ直ぐ安岐を見据える視線が、揺れ動いている。
「そういうことで、安岐が私を好きでない、ということになったら、私は」
何と言うのだろう、と彼女は語彙を捜しているようだった。視線はあちらを向きこちらを向き、一向に落ち着こうとしない。
「心地よくない――― 違う。面白くない――― じゃない。何て言うんだろう?」
「腹立たしい?」
「違う。もっと痛い」
「痛い?」
「胸が痛い」
「胸が?」
「本当だ安岐、本当に、痛いんだ、嘘じゃない。私は嘘はつけない。隠すことはできても嘘はつけない。胸が、痛いんだ」
「俺が、朱夏のこと好きじゃなくなると?」
「それを仮定すると」
「朱夏は、俺に好きで居てもらいたい?」
彼女はうなづく。
「本当に?」
「本当だ。お前が私を好きだという時の、そういう時の声とか目線とかを見てると、あの不快な音がヴォリュームを落とすんだ。他の誰にもそんなことはなかった。お前だけなんだ」
声も、いつもとは違っていた。言葉づかいは同じでも、その言葉の乗る音は、いつもよりもやや高かった。うわずっていた。
「じゃあ朱夏は、俺がいないと寂しい?」
「判らない。その言葉の感覚的な意味は教えてもらっていない」
「いないとつまらない?」
「心地が悪い」
「俺に会いたい?」
「会いたい」
「そういうことだよ」
「それが、寂しい?」
うん、と彼はうなづいて、手に力を込めた。
引っかかっていない訳ではない。あのHALと、基本的に同じものと言われれば、引っかからない訳がない。
だが今はそれもどうでもよかった。作りかえられる前がどうであれ、彼女は今「朱夏」であり、この手の中で、自分がいないと寂しいと言っているのだ。
HALは決して闇など恐がりはしないだろう。
どのくらいそうしていただろう。やがて彼女のつやつやした短い髪を撫でながら、安岐は訊ねた。
「朱夏、やっぱり外へ出たい?」
「出たい。『命令』を入れたのが奴だったとしても、それが都市を元に戻す計画の一つであったとしても――― そうしなくては、私はずっとそこで立ち止まっている気がする」
「立ち止まって?」
「私の一部はずっと奴に握られたままということではないか。それは良くない――― えーと、嬉しくない――― じゃなくて」
言いたいことは判る。
「だから、これは都市がどうとか、じゃなくて、私の問題なんだ。奴が何を企んでいようと、それが私の、奴に握られている部分を自由にできるなら」
「そのために、BBのFEWを探しに行きたい?」
「ああ。でも安岐が付き合う必要はないぞ」
「どうして?」
少しばかり彼は驚く。
「だってこれは私の問題だ。確かに安岐が居たら私は…… えーと、嬉しいが」
「俺が居ると、嬉しい?」
「使い方、間違っていないか?居ないと寂しい、の逆を捜したんだが」
「正しいよ」
「良かった」
「だから俺も行く」
「安岐」
「HALが何を考えているのかは知らないけれど、俺は朱夏のためになら動けるよ。だから一緒に行こう」
ごめん津島。
左腕の痛みはまだ残っている。
だけど俺はそうしたいんだ。
安岐は内心つぶやく。