「朱夏は外へ出なくてはならない、と思うんだよな」
抱きしめたまま、つぶやくように安岐は訊ねる。
「……? ああ」
「今日も…… 今も変わらない?」
「今日どころではない。ずっとだ。私は作られた時からずっとそう思っていたはずなんだ。ただずっと、思い出せなかった、それだけなんだ」
「出て、それで、どうする?」
「BBを探す」
「BBを探したら?」
「FEWに会う」
「そして?」
「判らない」
明確な答だった。
「そこまでがはっきりしている。とにかくそれが『命令』だ。気付いたら必ず果たさなくてはならない『命令』だ。だけどそれ以上のことは判らない。私はBBに、FEWに何をしたいのか、どうしなくてはならないのか、そこまでは判らない。だけどとにかくそこまでは」
「そうだな」
そこまですれば、きっと次の手が見えるのだろう。それとも、そこまでしなくては、次の手が見えないようになっているのか。そう組まれているのか。
そう考えて、彼は何か引っかかるのを感じた。
組まれている?
「どうした安岐」
訊ねられて、安岐は我に返る。
「行くなら行こう。もう夜だ。行ける所へ、行こう」
「SK」界隈をぶらつくのはいつものことなので、それ以外の所がいい、と朱夏は主張した。
「じゃ何処がいい?」
「安岐は『でーと』で何処に行ったことがある?」
彼は思わず答えに詰まる。そう言えば、あまりそういう「デート」はしたことがない自分に気付く。学校時代は自分の身を守るのに精一杯だったし、卒業後は生きるのに精一杯だった。
だから付き合う女の子も、仕事がらみで出会った年上の女性や、玄人のおねーさんや、「SK」で行きずりの子と一晩過ごす程度になってしまっている。
とりあえず「SK」以外のところにしよう、と彼は朱夏の手を引っ張った。地下鉄の駅に降りると、黒地に赤や黄や青の線が入った路線図を眺める。
「安岐はM線の、『SK』より向こうに行ったことがあるか?」
「『SK』より向こう?」
「私は行ったことがないんだ」
「ここより向こう側、か」
その「向こう側」に何かそれらしい所があったかな、と彼は思い返す。
一つ二つ路線の駅名をたどる。「MP」、という字が目に入る。M公園の意味を持つその文字に目が引き寄せられた。
「そーだね朱夏…… お城でも見ようか」
「お城?」
「昔からこの都市にある城…… まあ今あるのは、わりあい最近作り直したものらしいけど」
そう言えば、自分も子供の頃に行ったきりなのだ、ということに彼は気付く。どんな形をしていたのかいまいち思い出せない。
それも、行ったのは、まだこの都市が閉じる前だった。こうなってからのそのあたりには足を踏み入れることはなかった。
「じゃあそこに行こう」
切符を買って、改札を通る。
M線は入り口からやや離れたところにあるから、もしかしたら、目的地まで歩いても大して距離的には変わらないのではないか、と彼は考える。
だが別に歩くのは悪いものではない。壱岐の影響もあったが、隣に誰かが居る時には、歩くのは決してつまらないものではない。
ホームに着くと、既に銀色の列車が待っていた。いいタイミングだ、と安岐はつぶやくと、朱夏の手を引いて車内に飛び乗った。
「ずいぶん空いているな」
そう言えばそうだ、と彼は言われてみて初めて気がつく。そして静かに車体が動き出す。
「安岐、何か静かだな」
「人がいないからね」
「いやそうじゃなくて、発車のアナウンスが私は聞こえなかったんだが? 安岐聞こえたか?」
「え?」
言われてみれば、そうだった。発車のアナウンスも、発車の電子音も耳にしていない。静かだった。
「朱夏、他に変だと思うことはない?」
「変?」
「いつもと違うこと」
彼女は辺りをゆっくり見渡す。無表情のまま、彼女は口を開いた。
「風が吹かない」
「?」
「見てみろ。窓が開いているのに、風が吹き込んでいない」
「え?」
「いつもなら、車内広告が少し動くのに、今全然動いてないじゃないか」
「まさか」
ほら、と朱夏は吊り広告を指す。確かにそれはぴったりと止まったままだった。安岐はぞわり、と背中に悪寒が走るのを感じた。
おそるおそる窓の方へ視線を投げる。彼は違和感に気付く。
壁が無い。
地下鉄は地下を走っている訳だから、必ずと言っていい程、すぐ横に壁がある筈なのだ。車内の明かりを反射して、コンクリートの壁がしらじらと見える筈なのだ。
少なくともM線はそうである。なのに今、そこには何もない。反射するもののない光はただ出ていくだけで、戻らない。外には、ただ黒々とした空間が広がっているように見えた。
安岐は慌てて他の車両に駆け寄る。重い扉を開けた向こうの車両には、誰もいなかった。
「どうした安岐!」
「朱夏、この地下鉄は変だ! 止まったらすぐに降りよう!」
「変って」
「何かわからん。だけどこれはおかしい!」
そのうちに、がたん、という音とともに、身体が前のめりになるを感じる。
列車が減速しているのだ。何処かへ止まる、と彼は出口のそばに朱夏をひっぱる。
いつもならそこで聞こえるはずのアナウンスもない。減速が続き、やがて列車の動きは止まった。
ぷしゅ、と音を立てて扉が開く。
「何処だ、ここは……」
「降りるのか? 安岐」
「乗っていても始まらない」
確かにそうだった。列車はなかなか扉を閉じない。
まるで彼らが出るを見計らっているかのようだった。危険かもしれない。安岐は思う。だが、じっとしているのも嫌だった。
「出よう」
ああ、と朱夏はうなづく。どうやらホームに着いた訳ではないらしい。いつも見える所には地面が無かった。もう少し下なのだろう、と暗い所に慣れてきた目で安岐は確かめる。
よ、と彼は飛び降りた。そして朱夏に手を差し出す。彼女は黙って飛び降りると、安岐にぎゅっとしがみついた。ああそう言えば、彼女は暗闇が好きではなかったっけ。彼は思い出す。
その時ぷしゅ、と背中に音を聞いた。扉が閉まる。彼は慌てて朱夏を引っ張り、その場から離れた。列車が動き出したのだ。確かに彼らが出るのを待っていたかのようだった。
銀の車体に青紫のラインの入ったM線の車体が、ゆっくりとその場から離れていく。よく見ると、連結が少ない。三両しかない。そしてその短い列車は、やがて見ている彼らの右に抜けていき、闇の中へ消えていった。
ぎゅ、と腕を掴む力の強さに彼は我に返った。
「安岐これからどうするんだ」
「とにかく動くよ。朱夏、大丈夫?」
「お前がここに居るから大丈夫だ」
そう言われるのは嬉しいが、現在の状況を考えると、手放しで喜ぶことができないのが惜しかった。
全くの暗闇という訳ではない。だが全く見覚えのない所であることは事実だった。
次第に慣れてくる目は、そこが何処かの屋内であることを認める。安岐は朱夏の肩を抱きよせ、そこから一歩を踏み出した。
しばらく歩いていると、目の前に扉が現れた。
それはなかなか唐突だったので、彼は驚くより前にまたか、と思ってしまった。
鉄らしい。重くて冷たい感触のノブを掴み、彼はぐっと回してみる。
ぎぃ…… と長い間使われていなかったらしい蝶番の音が響く。開けた瞬間、静かな光がこぼれ出してきた。