35.闇へ消える地下鉄

「朱夏は外へ出なくてはならない、と思うんだよな」


 抱きしめたまま、つぶやくように安岐は訊ねる。


「……? ああ」

「今日も…… 今も変わらない?」

「今日どころではない。ずっとだ。私は作られた時からずっとそう思っていたはずなんだ。ただずっと、思い出せなかった、それだけなんだ」

「出て、それで、どうする?」

「BBを探す」

「BBを探したら?」

「FEWに会う」

「そして?」

「判らない」


 明確な答だった。


「そこまでがはっきりしている。とにかくそれが『命令』だ。気付いたら必ず果たさなくてはならない『命令』だ。だけどそれ以上のことは判らない。私はBBに、FEWに何をしたいのか、どうしなくてはならないのか、そこまでは判らない。だけどとにかくそこまでは」

「そうだな」


 そこまですれば、きっと次の手が見えるのだろう。それとも、そこまでしなくては、次の手が見えないようになっているのか。そう組まれているのか。

 そう考えて、彼は何か引っかかるのを感じた。


 組まれている?


「どうした安岐」


 訊ねられて、安岐は我に返る。


「行くなら行こう。もう夜だ。行ける所へ、行こう」


 「SK」界隈をぶらつくのはいつものことなので、それ以外の所がいい、と朱夏は主張した。


「じゃ何処がいい?」

「安岐は『でーと』で何処に行ったことがある?」


 彼は思わず答えに詰まる。そう言えば、あまりそういう「デート」はしたことがない自分に気付く。学校時代は自分の身を守るのに精一杯だったし、卒業後は生きるのに精一杯だった。

 だから付き合う女の子も、仕事がらみで出会った年上の女性や、玄人のおねーさんや、「SK」で行きずりの子と一晩過ごす程度になってしまっている。

 とりあえず「SK」以外のところにしよう、と彼は朱夏の手を引っ張った。地下鉄の駅に降りると、黒地に赤や黄や青の線が入った路線図を眺める。


「安岐はM線の、『SK』より向こうに行ったことがあるか?」

「『SK』より向こう?」

「私は行ったことがないんだ」

「ここより向こう側、か」


 その「向こう側」に何かそれらしい所があったかな、と彼は思い返す。

 一つ二つ路線の駅名をたどる。「MP」、という字が目に入る。M公園の意味を持つその文字に目が引き寄せられた。


「そーだね朱夏…… お城でも見ようか」

「お城?」

「昔からこの都市にある城…… まあ今あるのは、わりあい最近作り直したものらしいけど」


 そう言えば、自分も子供の頃に行ったきりなのだ、ということに彼は気付く。どんな形をしていたのかいまいち思い出せない。

 それも、行ったのは、まだこの都市が閉じる前だった。こうなってからのそのあたりには足を踏み入れることはなかった。


「じゃあそこに行こう」


 切符を買って、改札を通る。

 M線は入り口からやや離れたところにあるから、もしかしたら、目的地まで歩いても大して距離的には変わらないのではないか、と彼は考える。

 だが別に歩くのは悪いものではない。壱岐の影響もあったが、隣に誰かが居る時には、歩くのは決してつまらないものではない。

 ホームに着くと、既に銀色の列車が待っていた。いいタイミングだ、と安岐はつぶやくと、朱夏の手を引いて車内に飛び乗った。


「ずいぶん空いているな」


 そう言えばそうだ、と彼は言われてみて初めて気がつく。そして静かに車体が動き出す。


「安岐、何か静かだな」

「人がいないからね」

「いやそうじゃなくて、発車のアナウンスが私は聞こえなかったんだが? 安岐聞こえたか?」

「え?」


 言われてみれば、そうだった。発車のアナウンスも、発車の電子音も耳にしていない。静かだった。


「朱夏、他に変だと思うことはない?」

「変?」

「いつもと違うこと」


 彼女は辺りをゆっくり見渡す。無表情のまま、彼女は口を開いた。


「風が吹かない」

「?」

「見てみろ。窓が開いているのに、風が吹き込んでいない」

「え?」

「いつもなら、車内広告が少し動くのに、今全然動いてないじゃないか」

「まさか」


 ほら、と朱夏は吊り広告を指す。確かにそれはぴったりと止まったままだった。安岐はぞわり、と背中に悪寒が走るのを感じた。

 おそるおそる窓の方へ視線を投げる。彼は違和感に気付く。


 壁が無い。


 地下鉄は地下を走っている訳だから、必ずと言っていい程、すぐ横に壁がある筈なのだ。車内の明かりを反射して、コンクリートの壁がしらじらと見える筈なのだ。

 少なくともM線はそうである。なのに今、そこには何もない。反射するもののない光はただ出ていくだけで、戻らない。外には、ただ黒々とした空間が広がっているように見えた。

 安岐は慌てて他の車両に駆け寄る。重い扉を開けた向こうの車両には、誰もいなかった。


「どうした安岐!」

「朱夏、この地下鉄は変だ! 止まったらすぐに降りよう!」

「変って」

「何かわからん。だけどこれはおかしい!」


 そのうちに、がたん、という音とともに、身体が前のめりになるを感じる。

 列車が減速しているのだ。何処かへ止まる、と彼は出口のそばに朱夏をひっぱる。

 いつもならそこで聞こえるはずのアナウンスもない。減速が続き、やがて列車の動きは止まった。

 ぷしゅ、と音を立てて扉が開く。


「何処だ、ここは……」

「降りるのか? 安岐」

「乗っていても始まらない」


 確かにそうだった。列車はなかなか扉を閉じない。

 まるで彼らが出るを見計らっているかのようだった。危険かもしれない。安岐は思う。だが、じっとしているのも嫌だった。


「出よう」


 ああ、と朱夏はうなづく。どうやらホームに着いた訳ではないらしい。いつも見える所には地面が無かった。もう少し下なのだろう、と暗い所に慣れてきた目で安岐は確かめる。

 よ、と彼は飛び降りた。そして朱夏に手を差し出す。彼女は黙って飛び降りると、安岐にぎゅっとしがみついた。ああそう言えば、彼女は暗闇が好きではなかったっけ。彼は思い出す。

 その時ぷしゅ、と背中に音を聞いた。扉が閉まる。彼は慌てて朱夏を引っ張り、その場から離れた。列車が動き出したのだ。確かに彼らが出るのを待っていたかのようだった。

 銀の車体に青紫のラインの入ったM線の車体が、ゆっくりとその場から離れていく。よく見ると、連結が少ない。三両しかない。そしてその短い列車は、やがて見ている彼らの右に抜けていき、闇の中へ消えていった。

 ぎゅ、と腕を掴む力の強さに彼は我に返った。


「安岐これからどうするんだ」

「とにかく動くよ。朱夏、大丈夫?」

「お前がここに居るから大丈夫だ」


 そう言われるのは嬉しいが、現在の状況を考えると、手放しで喜ぶことができないのが惜しかった。

 全くの暗闇という訳ではない。だが全く見覚えのない所であることは事実だった。

 次第に慣れてくる目は、そこが何処かの屋内であることを認める。安岐は朱夏の肩を抱きよせ、そこから一歩を踏み出した。

 しばらく歩いていると、目の前に扉が現れた。

 それはなかなか唐突だったので、彼は驚くより前にまたか、と思ってしまった。 

 鉄らしい。重くて冷たい感触のノブを掴み、彼はぐっと回してみる。

 ぎぃ…… と長い間使われていなかったらしい蝶番の音が響く。開けた瞬間、静かな光がこぼれ出してきた。