「で」
夏南子は問いかける。午後、朱夏は茶を買いに出かけて留守である。緑茶が美味しい店があるから、と夏南子が送り出したのだ。
「あんた何を落ち込んでいるの?」
「何って」
「朱夏ちゃんが誰かと付き合ってるぐらいじゃああんたがそういう態度に出る訳ないじゃない」
「何でもない」
「あんたね、あたしを誰だと思ってるの? あたしに嘘はきかないのよ」
近付くと、いきなりぎゅっと鼻をつまむ。痛いな、と彼は慌てて手を払う。
「気にかかるんだよ」
「何が」
「朱夏のその『相手』」
「おにーちゃんはいっちょ前に妬きもちですか?」
「そういうことじゃないんだ」
さすがに軽口では済まないのが、彼女にも判る。
「
「え」
「安岐。あの安岐と同じ字なんだ」
「……え?」
さすがに夏南子の表情も変わった。
「何それ…… 東風、それって、あの子? あの安岐だ、ってあんた言いたい訳?」
「知らないよ。とにかくそういう名の奴と、あれは三日前に出会ったてことは事実」
「そりゃあまあ…… あの時の、あの子だったら、今もう……」
夏南子は指を折って数える。二十歳くらいになっている筈である。
ライヴハウスで彼女を見つけてそういう関係になっても全然おかしくない年齢である。
「それであんた、落ち込んでいたって訳?」
「落ち込んでいた、というか、いまいち訳が判らない、っていう感じなんだが…」
夏南子はふう、と息をつく。さすがにこんな事態は予想していなかった。
どうしたものやら。
*
「何だ?」
朱夏は訊ねた。丸テーブルに置いたクラフト紙袋は、彼女の見覚えのない店名が印刷されている。
約束はしていなかった。なのにお茶屋を捜して「SK」の地下街へ出かけたら、また出会ってしまった。
「何でお前、居るんだ」
「そっちこそ……」
道ばたで、そんな間抜けな会話をしてしまった。
「何買ったの?」
彼女の抱えている袋を見て安岐は訊ねる。
「緑茶。東風が買っておいでって言った」
「へえ…… 朱夏は気に入ったんだ?」
「うん」
朱夏は素直にうなづく。
「東風は何で買わないのかは言わなかったけど」
「嫌いなのかな?」
「判らない。でも、私に、人間は答えたくない質問は答えない権利がある、って言っていた」
あれ、と安岐は思う。同じ論法を兄も使っていた。似た考え方をする奴もいるな、と彼は不思議に思う。
「お前は一人か?」
「うんまあ。一応今日する仕事は終わったし」
それは本当である。会合は終わっていた。ただ、津島と待ち合わせをしているだけである。
「よ」
わ、と安岐は肩をびくんとさせた。
「背後から近寄るなって言ってるだろーに!」
「背後霊と呼んでくれ、ふふふふふ」
その津島だった。何やら髪の色が朝より薄くなっていた。
「お前美容院行ってたのか?」
「うん。似合う?」
「びよういん?」
朱夏が不思議そうに訊ねる。その彼女に気付いた津島は、
「例の?」
「うん」
ふーん、と津島は意味ありげにうなづく。
「何だよ」
「ううんいいのいいの。邪魔者は退散いたしましょ。ごゆっくり~」
歌うように言うと、津島はひらひらと手を振り、人混みの中に消えて行った。立ち尽くしているのも何だったので、安岐は近くの店に彼女を誘った。
紅茶専門店と銘打ってはいたが、朱夏の知っているそれとはややおもむきが異なっていた。
朱夏が東風に連れられていく紅茶の店は、たいてい小綺麗でこぢんまりとしていて、照明も明るく、薄くて清潔で弾いたらいい音がしそうなティーカップを使うような店である。
だがこの店ときたら、やや薄暗いし、小さなテーブルが無造作に置かれているし、壁にはごてごてと紙が止められている。
入ってすぐのショーケースには、決して綺麗にまとまってはいないが、確実に濃い味であることが判りそうなシンプルなケーキが並べられている。
「あら安岐ちゃん、最近顔見せなかったと思ったら」
口調は女のウェイターは、彼の姿を認めるといきなり声を掛けた。
「あら~つまんない、女連れじゃない。いつものあの可愛い子はどーしたの?」
「津島? 今日はご遠慮」
「何だ~ つまんな~い」
「あんたいつかそれで身ぃ滅ぼすよ」
「あんたの知ったこっちゃないわよ~」
それでもちゃんとメニューを渡してくれる。
「何にする?」
「何でも」
実際それは朱夏にとっては見慣れないもの茶の名前ばかりだった。じゃ、と安岐は適当に同じものを二つ注文する。
そして当初の言葉になってしまう訳だが。
「CD」
安岐は端的に答えた。
「誰の?」
「名前しか知らないけれど。BB。知ってる? 聴いたことある?」
朱夏は首を横に振る。安岐はかさかさ、と袋を開けてみせる。アルバムのタイトル名とバンド名が朱夏の目にも飛び込む。
「名前だけは。東風が前言ってた気がするが」
また東風か。安岐は軽くひっかかるものを感じる。
「そう言えば、あの店の名もBBだな」
「え?」
「BLACK-BELT」
「何あんた、BBがこの都市の出だって知らないのーっ!?」
すっとんきょうな声がするので振り向くと、先程のウェイターが器用に使用済みのカップやグラスをたくさん掴んだまま目をむいていた。