それに「朱夏」という名をつけたのは夏南子だった。
彼と長いつきあいの夏南子が、一週間も店を休んでいる東風の所へ「見舞い」へ行ったら、そこでは友人とも愛人とも知れない男が、少女のレプリカントをチューニングしているところだった。
「仕事さぼって何やってると思えばまた仕事?」
「見舞い」らしく果物をクラフト紙の袋に詰めて抱えてきた彼女は、部屋に入るなりそう言った。
「いや、仕事じゃない」
「じゃあ何よ」
「道楽」
「じじい」
すかさず答えた夏南子に、じじいとは何だ、と東風は言い返す。だが無論彼女は馬耳東風、持ってきた果物の中から一つ二つ取り出すと、キッチンで皮をむきはじめた。
「道楽で女の子作っちゃうなんて、あんた最近趣味変わった?」
毎週来てはこの男と寝ている彼女は言う。
「違ーう! 拾ったから」
「拾った…… あんたねえ、拾うなら猫か犬程度にしときなさいよ。こんなに大きくちゃもらい手もないわよ」
切ったのは桃だった。パステルカラーのガラスの器に、皮をつるりとむかれ、いくつかの破片に分けられた桃がてんこ盛りになっている。
彼女はその破片の一つにフォークを突き立て、手の離せない東風の口に押し込んだ。驚いたが桃である。すぐに口の中でふしゅん、と崩れる。それを飲み込んでから、彼は一応の反論を試みる。
「別にもらい手を捜すとかとういう気はないよ。だから道楽って言っただろ?」
「ふーん、じゃあ一緒に住むんだ」
「あれ、妬いてる?」
「誰が。それにあんたが欲情するような体型でもないでしょうに?」
トランジスタ・グラマーは胸を突き出す。自慢するだけのことはある。
「―――ちゃんの代わり?」
彼女は東風の妹の名を持ち出す。答えない彼に彼女は図星でしょ、と追い打ちをかける。
「別にいいけど。でも一度拾ったんならちゃんと面倒は見るのよ」
「へいへい」
「で、名前なんていうの?」
「名前?」
彼はそれを失念していた。
「それにまだ髪型とか決めてないでしょ。そういうのあたし決めんの好きよ」
人の悪い笑みを彼女は浮かべる。
「お前の趣味を入れさせろって?」
「当然でしょ」
そして彼女はその新入りの「彼女」に「朱夏」とつけた。
傷ついた顔を多少治し、ウェーヴのついた長かった髪を切ってストレートにして。
拾った性別不詳のレプリカントは東風の妹分になった。
夏南子が言ったことは当たっている。東風は、何となくこの拾った華奢な体型のレプリカントに妹を見たのだ。
「外」に居る筈の、今ではもう、この都市に閉じこめられた時の自分や夏南子を追い越しているはずの。
だけど彼の記憶の中では変わらないままの。
歪んでいるな、と彼は思う。少なくとも、「自分を破壊する訳にはいかない」と真っ直ぐに答えたあのレプリカントよりずっと、と。
*
「でも変だな」
朱夏は首をかしげる。そして手を伸ばして、ぺたん、と東風の頬に触れる。
「別に東風に触っていてもそういうことはないのに」
ははは、と彼は力無く笑った。
「そりゃそうだ」
「何で」
「そういうことは自分で考えるんだよ、朱夏」
「東風はいつもそうだな。そういうことは絶対私に言わない。安岐は判らないことは判らないって言ったぞ」
「あき?」
「その昨日の、彼だ」
こういう字だ、と彼女は紅茶でテーブルに書く。その字を目で追っていくうちに、冗談であってほしい、と彼はカップの取っ手を握りしめた。
*
「誰かと寝るというのは面白いものだったんだな」
朱夏が帰り際に言ったのをふと思い出してしまって、安岐はぷっと吹き出してしまった。
「どうした安岐?」
「あ、何でもありません。ええ」
冷や汗が出そうになるのを安岐は必死でくい止めていた。
お前今日変だぞ、とつぶやくと、壱岐は仕事の説明を始めた。
だがどうしても安岐の頭の中の情景は、気がつくと昨晩から今朝の情景に移ってしまう。
印象的、という言葉の意味が理解できたような気がした。あまりにも心に焼き付く出来事というのは、記憶の中ででも極彩色に彩られるのだ。
その時見た情景の一つ一つの色が、ひどく鮮やかに思い出せるのだ。
すり硝子ごしの光が無性に綺麗だというのに初めて気付いた気がする。そんなこと思う余裕も今までなかった。女と寝たのが初めてだったという訳でもない。むしろ初めての時のことはもう雑多な記憶に紛れてしまった。
なのに。
「―――で安岐、そこはお前が担当しろ」
「はい?」
またか、と言いたげに壱岐は手を組んでため息をつく。
「あのなあ。今日お前、本当におかしいぞ。病気か何かか? だったら仕事から外すぞ。使いでのない奴など必要ないからな」
「いや、違います、大丈夫です。ちゃんと聞いてます」
慌てて付け足す。嘘である。聞いてはいなかった。
だが彼はとっさに横の津島が取っていたメモを見る。それでだいたいのことは把握できる。
津島は派手な外見の割には几帳面な奴なので、仕事の順序をその場できちんと書き取っておくという習慣があった。もっともそんなメモが何処かで目に触れたら困るので、集合と会議の後、実行の段になる頃には頭に叩き込んで、そのメモは下水に消えるのだが。
「OK、では今呼ばれた奴は四時にSKの地下のいつもの場所へ集合」
安岐は反射的に時計を見る。時計の針は二時半を指していた。がたがた、と椅子から立ち上がる音があたりに広がる。手帳を閉じた津島がにやにや笑いを浮かべながら、安岐をつつく。
「何だよ」
「昨日の、どーだったの」
しまった、と安岐は思った。今の今まで、あのライヴが津島に頼まれて行ったものだということを全く忘れていたのだ。