「そうですか、じゃあ引き続き復旧作業にかかって下さい」
ややくすんだ黄色い上下の作業着を着た男は、ていねいな口調でそう命令した。向こう側で何やら反論する声がいる。一応の言い分は聞いてやる。だが聞くだけである。
「無理? 原因が判らないから? だったら原因を調べて下さいよ」
通信機の向こう側でため息が聞こえたような気がした。心が痛まない訳ではないが、そこに彼は追い打ちをかける。
「仕事でしょ?」
そう言った時、扉の開く音がした。
通信の会話を聞きつけたのか何なのか、隣の部屋で作業をしていたらしい同僚が顔を出した。
「何、
「そのようだわ」
通信機に向かって命令を下す黄色い作業着の男は、
初対面の相手には彼は必ず驚かれる。高い身長、なのに童顔に高い声。だがその内容に甘さはない。
何と言っても、彼はこの都市で最も権力を持つ公安部、そのたった三人しかいない公安長官の一人なのだ。
芳紫は肩をすくめながら通信機のスイッチを切った。
「原因不明の停電だってさ。なぁ藍地あいち、俺、これってすんごい久しぶりの気もするけど」
「ああ、確かに久しぶりだよなあ」
「『SK』真っ暗だって。電波塔の方から今連絡が来た」
「電波塔の方は大丈夫? 放送は? FM局の方は?」
「ああ、それは大丈夫。予備電源を向こうは常備しているし。何か使う用事あったんか?」
「いや、今の所ないけどさ。かくしてこの街に音楽の途絶えることはありません、か」
藍地はやや皮肉げに笑った。
「俺コーヒー呑むけど、お前要る?」
「うん」
芳紫はちら、と藍地に視線を走らす。相棒は、ひどく疲れているように見えた。
もともと自分の身なりに気をつかう男だったはずである。それがもうずっと、それどころではないかのようだった。かつては毎朝きちんと整えられた髪も、今では寝癖がついていない日の方が珍しい。
執務室の脇に取り付けられた小さなキッチンにはいつもコーヒーがかかっている。利用者は、飲めればいいというレベルの者ばかりだったので、こまめな手入れとは無縁である。実際彼の目の前にあるコーヒーメーカーの中身は、今もやや煮詰まっていた。
コーヒーメーカーの電源を切ると、彼は冷蔵庫から1リットルの牛乳パックを出し、昔ながらの、ただ四角い角砂糖を入れた壷と一緒にトレイの上に乗せた。
この執務室には女手がない。当初はあった時もあったが、うっとうしいと誰かが言ったせいで、ほとんどこの類のことは自分でやるようになっていた。
「ほいコーヒー。好きなだけ入れて」
「ん」
カウチの前のテーブルの上に、空のマグカップを置く。サンキュ、とため息まじりに藍地は答えた。
実際、藍地は本当に疲れているようだった。
彼はひどく重そうにコーヒーポットを取り上げる。そしてやや煮詰まったコーヒーをカップに半分ばかり入れると、牛乳を同じくらいの量だけ入れた。砂糖は入れない。
「原因不明事件」
カフェオレになってしまったコーヒーが、それでもやや苦いのに彼は顔をしかめた。
「結構ばかばかしいよな、この単語」
「それを言っちゃあ、おしまいよ」
「あんたいつの時代の奴だよ! ところで
ほとんど一気呑みした一杯目のコーヒーが無くなってしまったので、二杯目を入れながら藍地は訊ねる。
「
ふーん、と藍地はうなづいた。
芳紫はそう答えてから、言わなくても良かったかな、と軽く後悔した。だが何を言おうかわざわざそこで考え込むことはなかった。相手の方が先に切り出してきたのだ。
「あのさ芳ちゃん、花がさ」
「花?」
「こないださ、奴の車に白い花がこぼれてたんだ。ぽろぽろ。何だったかな、綺麗な。俺、花は好きだけどさ……本当、ぽろぽろ。シートの上にさ」
「うん」
それがいつのことだか、芳紫は判らない程鈍感ではない。
「また花を飛ばしに行ったんだ、HAL」
「うん。抜けちまったからって朱明の奴が運んできたけどさ…… どうして奴は、判るんだろうな」
「何でだろうな」
答えを求められていないことくらいは判る。
「俺にはさっぱり判らないのに」
「うん」
「本当さっぱり判らないのにさ。判らないよ。自分の身体を苗床にしてその上で花が咲けばいいなんて考える奴のこと」
「藍地?」
「わかんねーんだよ……」
何かあったのだ、と芳紫は思った。おそらくそれは自分はまだ聞かされていないことで、これからきっと聞かされることなのだ。
そしてそれは決して良い知らせではないだろう。
「お前、疲れてるんだよ」
芳紫は藍地の横に回って、ぽんぽんと肩を叩く。この一つ年下のもと後輩は、昔からそうだった。疲れた時にはろくなことは考えない。
「ああそうだよな、俺疲れてるんだ。たぶん。どうすればいい? 芳ちゃん? 俺は」
「とにかく休みなよ」
ぽんぽん。
「そうだな、俺とりあえず休まなくちゃ」
「そうだよ、眠らなきゃ」
肩を叩くリズムと、その軽い声につられるかのように、藍地の身体はいつのまにか前のめりになっていった。
自分の子供の様な声も、童顔も時々は便利だな、と芳紫は何となく思う。
本人にそういう気はなくとも、相手は油断するのだ、とここにいない同僚に言われたことがある。喜んでいいのか何なのか。
ま、いいか。
彼は本格的な眠りにつきはじめた友人の体勢を変えさせると、あまり物の入っていない棚から毛布を取り出し、ふわりとその上に掛けた。
そして煮詰まったコーヒーの残りを自分のカップに入れ、再び通信機の前に掛けると、ヘッドフォンをかけた。
あの音は結構耳障りだからな。
おそらくこの夜じゅう、部下からの通信は入ってくるだろう。見つかるはずもない原因を捜すために。
やれやれ、と芳紫は肩をすくめた。