「あ~まだ耳がわんわんしてる」
「性能の悪い耳だな」
「そんなねえ、身体を部品の様に言うもんじゃないよ」
終演後、彼らはライヴハウスB・Bの正面にある地下鉄の階段を降りていた。
「だいたいお前何処までついてくる気だ?」
「送ってくよ。女の子一人で帰すのには忍びない」
「その必要はない。私は一人でも道には迷わない」
「そういう意味じゃなくって」
「じゃどういう意味だと言うんだ?」
んー、と彼はやや困った顔になる。考えようによっては、自分自身が送り狼になりかねないのだ。
先刻から止まらないのは耳鳴りだけではない。飛び跳ねるような心臓の鼓動もだった。
これはまずい、と彼は思った。
女の子と何かれしたことが全くない訳ではないが、こうも心臓の調子を狂わされるのは初めてだったのである。
「とーにーかーくー、普通はそうなの。知り合いの女の子が夜の街一人で帰ると言ったら、送りたいってのが男でしょ」
「そういうものなのか」
ふーん、と彼女は感心する。
「ではそうすればいいさ。家は『KY』だ」
「結構面倒だな」
「別に面倒ならそうしなけりゃいいさ。だがたかが『SK』で乗り換えるだけだろう?」
「まあそうだけどね」
「I2」の前から走っている地下鉄はH線という。これが一番古く、市民の昔からの足となっている。
その線上にある「SK」は、M線につながっていて、それが彼女の言う「KY」という地区につながっている。
「私が頼んだ訳ではない。お前がしたいのだろう?」
「まあそうだ」
確かにそうである。
だが、かと言ってじゃあさよなら、と言ってしまったら、何かそこで全てのつながりが消えてしまうような気がするのだ。
「判った。言ったからにはそうする。『KY』だよね」
「『KY』だ」
*
「さっき耳がわんわんすると言っていたが、あれはどういう意味だ?」
「SK」方面へ行くH線に乗り込んですぐに、彼女はそう訊ねた。
「え?」
「言ってたではないか。どういう意味だ?」
「ああ、あれね」
何も特に意味があってそう言った訳ではなかったので、今の今まで安岐は忘れていたのだ。
「だから、さっきのバンド、結構凄い音だったじゃない。だから、耳の中にまだその音が残っているように感じられるんだよ」
「すると、それはずっと残っているものなのか?」
「いや? そんなことはないけど。だいたい今はもう大丈夫だし」
「そうか。じゃあ音が残っているということはないんだな」
「いや、そりゃ記憶にある歌とか音とかは、思い出したい時にぱっと思い出すことはあるよ」
「そういうものか? じゃあそういう時の音だの歌だのは、いつも同じか?」
どうしてそういうことを聞くのだろう、と安岐は思った。
夏の地下鉄は、基本的にエアコンを効かせない。窓は全開である。かなりうるさい。すると会話には大声が必要となる。したがって乗客は自然と無言になる。
だがこの二人にはそれはさほど関係ないようだった。怒鳴り合いのように会話は続いていた。
「いつもってことはないだろ。だって記憶違いってことはあるし」
「別に聴きたくもない時に流れてくるってのはないのか?」
「そういうのは…… 少なくとも俺は無いけど」
「そうか」
彼女はやや気むずかしそうな表情になる。
「何かあるの?」
彼女は答えなかった。答えたくないという様ではない。どう言っていいのか迷っているように安岐には見えた。
そうこうしているうちに地下鉄は「SK」に着いた。
あれ、と安岐は長い乗り換え通路を歩きながら思う。ぞろぞろと歩いてくる人の足どりがどうにも重そうなのだ。
何となく嫌な予感がした。
そしてそういう時の予感とは的中するものである。乗り換えのホームには、銀の車体に青紫のラインが入ったM線が止まっていた。
ちょうど良かったのかな、と彼は一瞬思ったが、その期待はすぐに裏切られた。扉は全て閉まっていた。
柱にはついさっき貼られたような紙があった。そして、げ、とそれを見た途端安岐はうめいた。
「『M線停電事故により復旧の見通し立たず』つまりM線は動かないってことか?」
「そのようだね」
朱夏の無表情な声に、何てこったい、と安岐はつぶやいた。
「困ったな…… タクシーで帰る程今日は持ち合わせがない」
「着払いにしてもらえば?」
「そうすればいいのは判るのだが、そうしていいのか聞いたことがないし」
「家族のひとだろう?」
「家族? と言っていいのだろうか?」
何やらいろいろあるようなので、安岐もそれ以上は追求しなかった。その代わりに出たのは次の言葉だった。
「だったらウチ寄ってく?」
「お前の家か?」
「うん。俺のとこは『SK』の駅の近くだから」
そこまで言ってから、慌てて、別に変なことはしないから、と彼は付け足した。すると朱夏は大真面目な顔をして言う。
「変なことをする可能性があったのか?」
「ないとは言わないけど……」
何だかよく判らない、と言いたげに彼女は首をかしげる。ああ駄目かな、と安岐は自分の言い方のタイミングの悪さに内心ため息をつく。
だが。
「お前の部屋には電話があるか?」
「ああ」
「じゃ行く」
朱夏はあっさりと答えた。
「いいの?」
「構わない」
その単純さは嬉しくもあるが…… 同時に彼にはやや心配にも思えた。