薄暗い裏路地に、凄惨な女性の姿があった。
フランネルのシャツにスカートはそのままに、腹部を裂かれて内臓が路上に
垂れさがっているのだ。
両腕は広げた形で手の平に直接太い釘を打ち込まれ、立ったような恰好にな
っている。
小雨の粒が、彼女の身体は柔らかく弾いていた。
狭い頭上の空からは、それでも一条の光が差している。
彼女は誰にも発見されることなく、すでに息絶えていた。
釘打ち事件と呼ばれる一連の犯行だった。
悠真(ゆいま)は本部から細い身体を路上にふらりと出した。
黒いスーツに黒いシャツ、引き締まった痩身の二十九歳。表情はどこかとぼ
けたようなぼんやりとしたものだ。
日差しが強い空には、巨大な人工衛星が浮かんでいる。
彼は少々眉をひそめつつ、路肩に停めたシボレーに乗り込んだ。
シートにおさまると、車のクーラーを入れる。
スーツの内側に手をいれて、先程、本部の幹部からもらった封筒の中身を確
認した。
ぱらぱらとめくると十五万円。
悠真は軽く嘆息した。
思ったより少なかったのだ。
今月は何もしていないで小遣いをせびったので、こんなものかもしれない。
悠真が身を寄せている伊瑠(いる)コミュニティとは、東京の端で勢力を持
つコミュニティだった。
主な収入源は、ネットワーク人工衛星燈霞(とうか)との違法リンク・チッ
プの製造・販売である。
伊瑠コミュニティのリンク・チップは高性能で市場を独占しているといって
よかった。
もう二通の封筒はA4サイズ。
秘書から二十万握らせてくすねさせたものだ。
一通の中身に入れているのは、悠真の行動を記録文書。
もう一通は、湖守(こがみ)という悠真の直接の上司という立場の人間に関
するここ一か月の行動記録である。
伊瑠コミュニティは珍しく内部統制に厳しく、表面で活動している構成員は
一々動きを把握されている。
表面上のアリバイ作りのためともいえた。ローカルな紙媒体の方が、信用が
置けるのだ。
悠真は湖守から立場上、彼の記録は消されていると言われていたが、しっか
りと残っている。
おかげで、こうして記録を消すハメになっていた。
大体、悠真は湖守を信じていない。
彼はコミュニティの表の代表だ。友情と義務感は申し分ない位なのだが、異
様なほどに猜疑心が強い。
悠真はそれは彼の心の弱さ故かと考えていた。
彼の記録をチェックしようとした途端、携帯通信機の着信が鳴った。
「悠真、ちょっと本部に顔を出してくれ」
湖守本人だった。
封筒をシートの下に隠して、シボレーから出る。
見上げれば、幾ら都市中心部の外れにあるとはいえ、まるで違法建築の鏡の
ような塔と呼べるコミュニティ本部だ。
ガラクタが積みあがっているかのような無秩序さがあり、汚れ放題。
むしろそのおかげで逆に威厳と異様さが滲み出ている。
悠真は三階の湖守の執務室に入った。
灰色のスーツに、灰色の髪をなでつけた長身中肉の男が、机のソファにもた
れている。
四十六歳で悠真より年上だ。
電子タバコをふかし、眉間に皺を寄せてはいたが、悠真を見ると途端に人懐
っこそうな表情を浮かべる。
「帰るところだったのにすまんな。急用だ」
出た言葉は簡潔だった。
「やっと仕事か? ようやく俺もまともな飯が食べれるみたいだけどな。いい
加減、給料制にしてくれないか?」
湖守は軽く笑った。
悠真をお抱えにするなど、双方にとって不利益しかないことをお互い理解し
ているのだ。
書類を差し出す。
「住所はそこに書いてある通り。名前は生駒祥無(いこましょうぶ)。東久瑠
(とうくる)コミュニティの者じゃないが、先日接触があった。どこからもっ
てきたのか、燈霞の情報を東久瑠に売るらしい。ウチより金をはずんでくれる
からだそうだ」
「なるほどね。でもよ、これ殺して良い訳?」
何の感情も無く、悠真は聞く。
彼は伊瑠コミュニティの消し屋だった。いわゆる暗殺者である。
「捕まえて連れてこい。それだけだ」
書類には、今、湖守が言った内容と同じことと、加えて数か所の住所、まだ
少年と言っていい容貌の写真、十七歳という年齢が書かれていた。
悠真はベランダを開けると、ジッポライターで紙の束を燃やした。
全てはすでに記憶した。
ただ、こうして燃やしても、裏では伊瑠に記録が残っているだろうことは察
している。今までもそうだったのだ。
だから一々、湖守の秘書に金を渡さなければならないのだ。
灰を風に飛ばすと、悠真は振り返った。
「……湖守さんよ。今日の昼は何食べた?」
「あ? 牛丼だよ? どうかしたか?」
「いや。大したもの食べてないなって思ってね」
記録通りだが、本当かどうか。
「余計なお世話だよ」
湖守は無邪気な笑みを見せてたが、もう感心がないと言わんばかりに悠真は
背をむける。
「おい、ちょっと待て。飯代だよ」
サイフを出し、中から十万円の束を五つ抜いて差し出す。
悠真は黙って受け取ると、さっさと本部から姿を消した。
悠真は夕闇が降りた頃、三か所あった祥無の借りているアパートのうち、二
つの部屋に侵入して、誰もいないことを確認する。
灯油を少々まき散らし、小型の遠隔発火層装置を置くと、外の車の中なから
着火した。
途端に黒い煙が建物から漏れて、近所が騒ぎ出す。
シボレーは発進して、のこった最後のアパートに向かった。
住所の近くまで来たとき、異変に気付いた。
交差点の信号が全て消えているのだ。
辺りは暗いく、異様に静かだった。
答えは一つしかない。
東久瑠の技師が戦闘を行わせる準備を施したのだ。
一瞬、自分がターゲットかと思ったが、道の路地裏で、銃声が何発か響いて
いる。
相手が東久瑠だ。覗いてみて損はない。悠真は車をそちらに向けた。
ところどころにライトを照らした車が捨ててある。
すぐに燈霞アクセスし、脳の感覚を鋭敏化させる。
悠真は電子攪乱弾の詰まったマガジンを拳銃にセットすると、車を乗り捨て
て路上を走りだした。
少年と少女と言っていい年頃の影が数人のスーツ姿の男に追われ、お互い時
折ノズル・フラッシュが瞬くとともに発砲している。
東久瑠狩りに恰好のシチュエーションである。湖守に報告したなら報酬もの
だろう。
悠真は追っている男たちに狙いをつけ、引き金を引く。
一人が頸部に弾丸を受けて即死する。
すぐに次の標的。弾丸は肩甲骨を貫いて心臓に達する。
燈霞による能力強化だけではない。元々の実力があってのピンポイント射撃
だ。
また、頭部に悠真の一発の銃撃を受けて男が倒れる。
悠真の切れるような動作は素早く淡々としていて、まるで感情がないかのよ
うだ。
まだまだ追手の気配は消えない。
悲鳴が上がる。
甲高いく、追手のものではない。
祥無と思われる少年が、弾かれたように路上に転んだのだ。
声を上げたのは少女だった。
悠真は冷静に男たちを撃ち殺しながら、祥無の傍に駆け寄った。
血だまりに倒れた祥無は、頭部に弾丸を受けていた。
悠真は舌打ちした。
「逃げるぞ」
彼は少女の腕をつかみ、走りかけた。だが、その足の袖を引っ張られて動き
が止まった。
「……ちょっと、僕を置いて行かれちゃ困りますよ」
祥無だった。
頭を撃たれたというのに、ゆっくりと立ち上がろうとしている。すぐにこの
青年が何者なのかを、悠真は察した。
「おまえは死んだふりしていろ。後でアパートで会うぞ」
言われた祥無はうなづいて、また路上に寝ころんだ。おそらく東久瑠の連中
だろうが、どこまでわいて出てくるか知れたものではないのだった。
悠真は少女を連れて停めてあったシボレーまで戻り、急いで発車させた。
車を走らせている間、少女は気分が沈んだように沈黙していた。
ベレー帽に白いシャツ、サスペンダー付きのスカートと言った恰好で、おそ
らく十二、三歳ぐらいか。
「……湖守のやつ、イマジロイド捕まえて何やろうとしてたんだか……」
つい、口にでる。
それほど忌々しかったのだ。ろくな情報も出さず、自己の便宜のみを図ろう
とする態度が。
「……オレのせいだ……」
少女はか細い声で呟き、嗚咽した。
隣で声を出さずに泣きだした彼女に、悠真は内心困りながらもどうすること
もできず、ただハンドルを握っていた。
二人はアパートの一室に入った。
必要な物だけで、無駄なものはゴミぐらいしかない部屋だった。
家電一式にベッド、それだけである。
ただ、薄汚れて埃が溜まっている。
少女はベッドに座り、泣き続けていた。
悠真はどうしたものかと、思案気に様子を見ながら、床に座った。
「……いつまで泣いてる。名前は?」
「……うっせぇ、泣きたいんだからしょうがねぇだろう!? 深羽(みう)
だ!」
まくし立てるように一気に深羽は言葉を吐いた。
怒鳴ってきた割には、素直なものだった。
一向に感情を抑える様子がなく、大声を上げる深羽に悠真はどうしたものか
と考え始めた。
ドアがノックされてから開いた。
少年が現れたのだ。
柔らかそうな頭髪に真っ白な肌。白いTシャツにカーゴハーフパンツ。耳は
ピアスだらけで、首から鳩尾までチェーンが伸びてアメジストのクロスをぶら
下げている。
だがその姿は血糊がべったりと染め上げていた。
「……待ってたよ。直してきたか?」
「そんな暇はありませんでした。後ほどで。とりあえず、半径ニ十キロ圏内に
敵意ある反応はありません」
イマジロイド。ネットワークに特化された人型生体機械だ。
「あー、まぁそれなら説明してもらおうか?」
祥無は無言で深羽の隣にすわり、その小さな身体を抱きしめてやった。
深羽の鳴き声が嗚咽に変わり、ゆっくりと彼女の感情が収まってゆく。
と思ったとたん、深羽はいきなり祥無の頬を殴った。
「てめぇ、驚かせてんじゃねぇよ、馬鹿野郎!」
祥無は顔をふきながら、苦笑いする。
深羽は不機嫌そうに頬をふっくらませて、膝を抱え押し黙った。
これは、大変なものだ。
悠真は祥無に同情する。
いくらイマジロイドと言っても、大人すぎる態度なのだ。
理由無く老成する子供はいない。
祥無は電子タバコの煙を吐いた悠真に視線を向けた。
「……知っての通り、人工知能衛星燈霞は、人のHPS能力を拡大して、サイ
バー・スペースに変わるフラクタル・スペースというものを造り上げました。
燈霞の進化はそこから飛躍的に上がったのです。僕は燈霞内で造られた意識
で、イマジロイドの体を借りている存在です。そして深羽は燈霞内で生成され
た人間です」
「……生成された人間、だと?」
燈霞は地球の人間に補助機能を付与するためだけの存在としてあるはずだっ
た。
正直、悠真は燈霞に詳しくはない。彼が得意なのは殺しに関することで、あ
とはさっぱりな青年だった。
意思が出現しているのは可能性としてあるのは想像できる。だが、今燈霞内
はどうなっているのか? 人体生成など突飛すぎる。もはや、本来の機能を超
えているだ。
この少年は妄想でも持っているのだろうか?
「……で、燈霞出身のおまえらは、地上に何しに来たんだ?」
祥無は人懐こいと言っても良い微笑みを見せた。
「逃げてきたんです。燈霞のチップを独占している伊瑠コミュニティよりも、
そこに入りたいと思っている東久瑠コミュニティのほうが保護してもらえるか
とおもったのですが、失敗でしたね。超高度人工知能が聞いてあきれるザマで
した」
悠真は嫌な予感がして視線を外し、電子タバコの煙を吐いた。
「まー、色々大変だったんだな……」
「それで、僕は自分で何とかしますので、悠真さんに頼みがあります。深羽を
守ってください」
淡々とした口調で言われたが、悠真も無表情でそっぽを向き電子タバコを咥
えたままだった。
「何、黙ったままなんだよ、オイ!」
急に深羽が声を上げる。
悠真は目だけを少女にやった。
「別に……面倒は嫌だなぁと思って」
悠真は遠慮無く思ったことを口にした。
「お願いします、悠真さん。我々は誰かに頼らなければならないのですが、誰
も助けてはくれないのです」
欠伸がでた。
「探せばいるだろう?」
「探しましたよ?」
「いただろう?」
「ええ、ここに」
ニッコリと笑顔で言われる。
「他人と関わるなんてゴメン被る」
「あなたが適材なんですよ」
祥無は畳みかける。
悠真は面倒くさげに無言になった。
間接照明が一つ照らされた空間は広く、部屋半分が水槽になっていた。
その正面近くには、皮の回転椅子とウィスキーの瓶やグラスなどが置かれた
小さなテーブル。
哉藻(かなも)はグラスを傾けながら、青白くゆったりと揺れる水槽の中身
を眺めていた。アルコールの酔いのせいか、薄ぼんやりとした表情だ。
黒い髪に切れ長の目、細い身体付をしていて、ワイシャツにスラックス、皮
のブーツを吐いている。
容貌は鋭さに暗さ、そして皮肉めいた雰囲気がある。
水槽の中身には、深海のクラゲを思わせる光体が大小幾つも漂っていた。
哉藻はテーブルの上にある浸透圧注射にアンプルを入れた。
首筋に一度打つ。
すると、辺り中から様々な人の陽気な囁き声が聞こえてきた。
皆、楽し気に談笑したりふざけあったりと、なかなか賑やかになる。
「……あいかわらず、オモチャが好きね」
今度ははっきりとした言葉だった。
いつの間にか、二十二歳の哉藻と同じぐらいの女性が椅子の隣に立ってい
た。
「……ここは立ち入り禁止と言ってあったが?」
哉藻はたいした驚きも見せずに、低くゆっくりとした口調でいう。
「そうらしいね。私は知らないけど」
女性は悪びれない。
セミロングの髪にタンクトップと、ロングコート。ミニスカートをから伸び
た脚はタイツで覆っていた。
「いつまでもこんなオモチャで遊んでいるから、燈霞の子らに逃げられるの
よ」
「まったく関係もなければ、これはオモチャでもない」
詩衣(しい)は鼻で笑った。
相変らずの屁理屈小僧だとでも言わんばかりに。
「まぁ、ウチの会社のものに比べたら少しはマシかしら?」
まとめて小馬鹿にする。
特に何か考えがあるわけではない。これが詩衣という人物なのだ。
「会社ね」
今度は哉藻が嗤う番だった。
詩衣はリクナルという中小企業といったところの社員だ。
もっとも、特殊な形態を取っている今の日本の会社の中では特に変わってい
ると言っていい。
「そういえば、今日ウチで発見したのは、ザトウクジラの姿をしたデバイス
で、約三百人ほどの身体に影響を与えるものだったわ。残念ながら取り逃がし
たけれども、興味深いから追うことにした」
「影響って、どんな分野だよ?」
「フラクタル・スペースをかなり歪ませるものね。簡易ドラッグと変わらない
ものかな」
「造ったのは?」
「それは捕まえてみないとわからない」
「楽しそうで何より」
哉藻はグラスを傾ける。
彼の周りでは嬌声があちらこちらで沸いている。
「社長が本気で怒ってるのよね。今回の件」
隣の女性に目を上げた。
彼女は、うっすらと笑みを浮かべながら、水槽を眺めていた。
「失敗は失敗で、いくら怒っても事実は変えられない。伝えて置け」
「開きなおり?」
嘲笑してくる。
「ついでに、癇癪起こしたって子供じゃないんだから思うようになると勘違い
しないようとも付け加えてな」
「私をイジメる気?」
あくまで嗤ったままだ。
「社長をイジメるの好きだろう、おまえ?」
「あら、酷いことを」
クスクスとしつつ返事が帰ってくるが、否定はしていない。
「で、お仲間は動いてるのか?」
「そうね。ちゃんとあなた方に協力するように伝えているわ」
「ありがたいね」
詩衣の周りに陽気な子供たちがまとわりついてい騒いでいるのだが、哉藻し
か見ることができないので気付いていない。
「まぁ、あまり寿命縮めないことね」
テーブルの上の注射器にちらりと目をやる。
「素人みないなこというもんだな」
嗤う。
詩衣はそれには答えず、身をひるがえし、黙って部屋から出て行った。
ワイワイとする子供たちに囲まれたまま、哉藻は再びぼんやりと水槽を眺め
る。
できるだろうか。
期待と不安。
その二つが一緒になった時、哉藻を一番興奮させる。いわば生きる意味とま
で言ってよかった。
造れるだろう。
魂という、架空の存在とされていたものを。
いや、また失敗か。
ぼんやりとした意識のなかで恍惚感に包まれていった。
「ちょっと進行が早いですねぇ」
主治医が血液検査と身体のスキャンの結果を机の脇に置きながら、悠真に言
った。
悠真は聞いているようで聞いていなかった。
「あなたの燈霞病は、本来なら今すぐに入院させて手術するべきところまでき
ているのですがね」
もう付き合いのかなり長い主治は感情を混めない淡々とした口調だった。
「で、治る見込みのないままの入院生活かい? さっさとクスリ出しといてく
れ」
「頑固だなぁ」
「やることがあるんでね」
悠真は要は済んだとばかりに診察室を出た。
何だこれはと、悠真は絶句する。
病院の帰り、祥無の指示で生活用品などを買い物に出た道順をたどっていた
途中だった。
シボレーではなく歩きだ。
彼は警戒している時はあえて車に乗らない。
ただスーパーへ行くだけだったが、人がいるところに変わらない。
夕方が過ぎ、夜のとばりでスーパーが閉店する寸前に入れる時間だ。
大通りを避けてはいうが、すぐに出れるルートだった。
街灯のほとんどない薄暗い古めの建物が連なっている住宅地を縫うように移
動していると、たまに人とすれ違うが時間のせいかすれ違う人もほとんどいな
い。
ただ各家からは夕飯の匂いが鼻をくすぐる。
言われた通りに進んでゆくと、路地の片隅に眼が自然といった。
車庫の中だが当の車は無い。奥に人の気配を感じ、伺うように入り口に立
つ。
感覚を燈霞に繋げて鋭敏化させる
目が暗さになれると、それは姿を現わした。
両腕を広げて身体をたらしている。手の平に野太い釘が打ち込まれた髪の長
い女性だった。
まだ体温を感じた。
黒いシャツに綿のズボンを履いている。その腹部は切り開かれて、足元の血
だまりの中に内臓が落ちていた。
すでに息絶えているが、この惨状はなんだ?
どこかのコミュニティの犯行らしき形跡はない。彼らなら、意味を持たせた
殺人を犯すだろう。
悠真でもそうしている。いわば処刑としてのアピールだが、これは残虐さし
か感じない。
ここは一応、伊瑠コミュニティの保護下にある。おかげで治安は良いはずだ
った。
異常事態と言っていい。
ただの殺人事件とは思えない。
治安要員の仕事が増える事になるなと冷静に考えつつ、報告のために携帯通
信機をポケットから出そうとした時だ。
眼前の死体の姿はゆっくりとぼやけてゆき、いきなり真っ黒な影が悠真をす
り抜けて行った。
振り返ると、入口から明らかに若い男とわかる人物が、足音も立てずに走っ
て消えていった。
慌てて車庫から出て追い駆けようとしたが、燈霞で強化した感覚でも捕える
こともできなかった。
まさにかき消えたのだ。
悠真は舌打ちすることしかできなかった。
携帯端末機に意識をリンクさせて、事態の報告と調査をコミュニティ構成員
に命じつつ、路上を歩きだした。
スーパーから大きな袋を二個、両腕に持ちアパートに戻る。
悠真は事件のことを二人には伝えず、食べ物や食器を袋から取り出していっ
た。
衣類や家電家具は通販ですでに注文を終えている。
アパートの部屋はすっかりと人の住める空間になっていた。
「暇だぞ」
「もう夜だ」
深羽の不満に、悠真は即答する。
「うるさいな! 暇ったら暇なんだよ!」
ちらりと祥無に目をやるが、彼は肩をすくめただけだった。
悠真はふと思いついて、口元をかすかに歪ませた。
「……ちょっと出かけるか」
「よし! 決定だ!」
飛び上がらんばかりの深羽は、早速玄関に向かった。
「行ってらっしゃい」
「おまえは来ないのか、祥無?」
彼はニッコリと笑った。
「ええ。嫌な予感がするので」
「失礼なやつだな」
悠真は笑って返した。
燈霞を使った警戒は怠らない。
悠真はシボレーの助手席に深羽を乗せ、高速道路を飛ばしていた。
深羽は終始興奮しっぱなしという様子だ。
他の車を追い越せば歓声をあげ、追い上げてくる相手には軽い敵意をもって
悠真を煽る。
運転技術もそこらの走り屋には負けない悠真は、あっという間に目的のゲー
トをくぐって高速道路を降りた。
街灯が並ぶ風景は田園畑と、ところどころに家が建っている田舎そのものだ
ったった。
「おお、何もない! すげーーー!!」
何がだろうか。
あえて言わずに、シボレーを進ませると、やがて巨大な山の裾野に到着し
た。
提灯が大量に吊るされて、どこから湧いてきているのか、大勢の人々が集ま
っている。
屋台が並び、なかなかに賑やかだ。
車を停めて外にでた悠真に、目を輝かせた深羽が近づいてきた。
「何これ!? みんな何やってるの?」
「あー、お祭りだなぁ」
山の裾根には、大きな鳥居があり、そこから上に向かって長い階段が続いて
いた。
そのわきに永遠とぼんやりとした明かりの提灯が吊るされているのがわか
る。
「ちょ、面白そーなんばっかりじゃねぇかよ!」
屋台の列を覗き、深羽は興奮している。
「とりあえず、何が良い?」
意外にも気前がいい悠真だった。
「あれ!」
深羽が指差したのは、綿菓子だった。
買ってやると、手で一部をぶつしたり、口に入れたりと遊んでいたが、満足
したのだろう。満面の笑みを見せてくる。
「美味しい!」
「手がべたべただろう?」
「あー、それなら……」
彼女は遠慮なく金魚すくいの水槽に両手を入れて洗い出した。
店主が、金魚を手づかみで追っているとでも勘違いしたのか、快活に笑って
いる。
「嬢ちゃん、やってみるかい?」
深羽は悠真に振り返り見上げた。
電子タバコを咥えた悠真は、黙ってうなづく。
飛び上がって喜んだ深羽は、最中とお椀を手に構えると早速しゃがんで、真
剣そのもので金魚を狙う。
「うりゃーーーー!!」
勢いよく下からすくい上げた最中は根元から折れて、しぶきだけが上がっ
た。
次も同じ失敗を繰り返す。
「くっそーー……」
結局、五回やって五回とも、変わらない結果となった。
「おまえは学習というものを知らんのか」
「何だよ、面白かったからいいじゃねぇかよ」
なかなか達観した意見である。深羽は上機嫌だった。
「じゃあ、まぁ行くぞ。迷子になるなよ?」
「どこに?」
「もっと良いところ」
言ってのんびり進みだすと、深羽は悠真の手を小さな手の平で握ってくる。
屋台の列も過ぎ、人影も少なくなると山が眼前にそびえて立っていた。
鳥居をくぐり階段を昇りだすと、早速、深羽が根を上げる。
「これずっと行くの!? 死んじゃうでしょ、さすがに!!」
「あー、はいはい。おんぶしてやるから」
「ガキ扱いすんじゃねぇよ!」
「じゃあ、黙ってろ」
「……連れてくって言った責任は取れ」
言って、深羽は悠真の背中にしぶしぶという風に乗っかった。
細く小柄な身体は軽い。
とはいえ、目的地まではかなりの段数がある。
息も切れて、半ばよれよれの状態になりながらも、悠真は小一時間かけてや
っと昇り切った。
汗だくだ。
急に視界が開けた。
山腹だが平らな場所で、草花が土の間のところどころに生えている。
深羽を降ろすと、その場に座り込んで電子タバコを咥えた。
「何ここ、すげぇ!」
奥には澄んだ池があり、その壁には脇の岸壁に流れる水と鳥居の小さな社が
おかれている。
涼し気な清涼感で辺りの空気は満ち、夜空から星々と燈霞の輝きが、水面を
照らして神々しくすらあった。
「あー、言っとくが絶対に池に近づくなよ、俺が行くまで。絶対だ」
深羽はちらりと振り返って、脚を止める。
意外と素直だった。
悠真はのんびりとした目で風景を眺めながら、電子タバコで疲労を取りつ
つ、覚醒物質を身体に充満させて煙を吐く。
体調が戻ったことを確認すると、悠真は電子タバコを咥えたまま立ち上がり
深羽のそばまで来た。
「ここはなぁ、一般的にパワースポットって言われているところなんだがな。
別名、御隠れ様って呼ばれてる」
「うん、そんな感じする! 隠れ里っポイ」
「まぁ、ちょっと一緒に池まで近づいてみるか」
口調のそのままに、ゆっくりとした足取りで進みだす。
深羽も横についてくる。
あと十メートル近い場所まで来た時、急に池が異変を起こし始めた。
水底のいたるところから泡が吹き出し、それはどんどんと巨大なものになっ
てゆく。
まるで池が沸騰しているかのようだった。
次の瞬間、水が吹き上がり、渦を作った塊になって、二人に向かって来た。
深羽は驚いて、思わず悠真の後ろに隠れた。
だが、渦は悠真の目の前にある見えない壁にぶつかり、四散する。
「……なるほどね。これは面白いな」
「何が!? 何が!? な・に・が!?」
深羽は安全とわかると激怒して悠真のスーツを思い切り引っ張るが、彼はび
くともしなかった。
悠真が口を開こうとした瞬間、別のものに目を奪われて一瞬茫然とする。
深羽も見上げた。
夜空に、巨大なザトウクジラ一匹とマッコウクジラが二匹、池の上空を回遊
していたのだ。
「クジラって、空を飛ぶんだな……」
悠真は呆れ気味な言葉を吐いた。
クジラたちは明らかに池から何かを吸収している様子だった。
そして、それぞれの視線が、二人を捕える。
優し気なモノでも、心癒えるモノでもない。
逆だ。
敵意と殺意がありありと見えた。
「これは面倒くさいなぁ。深羽、すこしだけ離れていろ」
悠真は燈霞と脳をリンクさせた。感覚が異様に鋭敏になる。
彼はクジラたちの様子をうかがいつつ、電子タバコの煙を吐きだした。