白蛇は意志ある者のように壁を
エバは
力を使い果たしたようにぐったりとしたエバは、数瞬後、ゆっくり煙草を吸いつけ、満足気に煙を吐き出した。
ステファノには、大蛇が舌なめずりしたように見えた。
「エバさん……」
タバコを吸い切ったエバは、煙管を木の
熱くなった鉄皿を暫く冷やしてから、悠々と道具を仕舞い、エバは木の上から姿を消した。
遠眼鏡を下ろし、茫然としている所へマルチェルがやって来た。
「現れたようですね、ステファノ。む? どうかしましたか?」
肩を落としたステファノの様子を見とがめて、マルチェルが尋ねた。
「何でもありません。いえ、実は……」
珍しくステファノは口ごもった。
「何があった? 落ちついて話してみなさい」
マルチェルは答えを急がず、側の椅子に腰かけてステファノを見守った。
「実は、刺客の女に会ったことがあります」
「本当ですか? あの女は何者ですか?」
マルチェルも別の場所から監視していたのであろう。刺客を「あの女」と呼んだ。
「名前はエバ。魔術師崩れの傭兵だと言っていました。主に護衛の仕事をしていると」
「護衛……ですか。わかりました。驚いたでしょうが、我々の役目はジュリアーノ殿下の守護です。気をしっかり持つのですよ」
知り人が罪に手を染めていた衝撃。若いステファノがそれを受け止めるには少しの時間が必要だった。
マルチェルはあえて深追いせず、ステファノが自ら立ち直るのを待つことにした。
「正体が知れた以上、焦る必要はありません。落ちついたら似顔絵を持って来てください」
そう言うと、マルチェルは書斎を後にした。
残されたステファノは文机に広げられた紙に向かったが、ペンを執る気力を見出せずにいた。自分の画が、指し示す指がエバを処刑台に送ることになる。
それを想像せずにはいられなかった。
「ステファノ、入るわよ」
その時、プリシラがトレイを持って書斎にやって来た。
「マルチェルさんが、何か持って行って上げなさいって……。どうしたの、その顔?」
「プリシラ……」
ステファノは危うく崩れ掛けた心を何とか立て直した。自分の役目は何であったか?
「大丈夫? あんまり根を詰めないでね。紅茶を入れたから、置いて行くわね」
深い事情を聞かされていないプリシラは、ステファノを気遣う言葉だけを残して去った。
文机に置かれたティーセット。カップからは紅茶の柔らかい香りが漂っている。
うっすらと立ち上る湯気は気まぐれに体をくねらせたかと思うと、すぐに消えてゆく。一瞬だけの妖精。
震えていた心が静まった。
ステファノは紅茶を口に入れ味わいながら、館の人々を思う。
ネルソン、マルチェル、ソフィア。
アラン、ネロ、ジョナサン、ケントク、エリス。
ジュリアーノ王子。プリシラ。
勇気があった。覚悟があった。決意があった。
怒りがあった。怯えがあった。優しさがあった。
掛け替えのない命があった。
「――俺は俺のできることをしよう。大切な人を守るために」
ペンを執ると、ステファノは画を描いた。
エバの顔を描いた。エバの立ち姿を描いた。
銀色の髪を下ろした姿を描いた。微笑む顔を描いた。
遠くを見る物憂げな表情を描いた。
そこにいるのは樹上で毒蛇を操る暗殺者ではなく、夢多き少年に昔語りをする旅人の姿であった。
ステファノがほのかに憧れたエバという名の女性であった。
絵姿のインクが渇いた。ステファノの心のどこかで、何かがかさりと音を立てた。