「課長のヤツいきなり残業なんて」
足早に歩きながら、つい悪態をついてしまう。今日は金曜日。定時で上がって今夜から彼氏と二人、のんびりと
遅れることをLINEで連絡し、彼から了承の返信も来ている。可愛らしいスタンプで「りょ」の返信だが、本心ではどこまで許してくれているかは分からない。
なぜなら、彼女からの予定変更はこれが最初ではないのだから。
就職し、この街で一人暮らしを始めて三年目。ようやくできた理想の彼氏だ。ここで逃すわけにはいかない。少しでも早く帰って、フォローしておくに限る。今からでも会うのに支障はない。明日は二人とも休日だし、なにより夜は長い。
――ガサッ。
その音が聞こえたのは、真弓が公園の森を抜ける遊歩道に入ったときだった。
思わず体が震えた。外から見ても分かるほど、大きく驚いている。
「……なによ」
足を止めて辺りを見回す。だが、真弓の目には市中の公園にしては多い木の群れに、なんらおかしな点は見い出せなかった。
人間とはおかしなもので、一度気になると妙に神経質になってしまう。今まで近道をすることしか頭になかった彼女の心に、初めて不用心だったという後悔が浮かんでいた。
この公園は比較的大きな部類に属する。真弓の住むアパートに帰るには、この公園を横切って別の道に出たほうが、信号も踏みきりもなく早くつくのだ。朝の通勤で必ず通うルートだった。
だがいまは夜だ。規模が大きな公園は夜になると別の顔を見せる。あまり通りたくない場所だった。事実、真弓は今まで、暗くなってからこの公園の中を通ったことはなかった。
いまから引き返していつもの道を通ろうかとも思う。しかしそれでは、家に帰りつくのに十分以上の差がついてしまう。今夜の真弓にとって、時間は一秒でも惜しいのだ。
真弓は意を決して歩き始めた。公園の美観を損なわないようにと備え付けられた街灯の光ではあまりにも心細い。それが、林に毛がはえた程度とはいえ森の中となればなおさらだった。
何も考えないようにして無心で真弓は歩き続けた。走りこそしないものの、その歩みは競歩選手のように早い。
そんな真弓の強がりも、次に「ガサッ」という音を聞いたときにあっさりと崩れてしまった。
途端に足が止まる。恐怖が体を支配しはじめたのだ。
「な、なによ……」
先程と同じ言葉を呟く。しかし言葉は同じでも声の震えが違った。
現在、この公園に浮浪者はいないはずだった。半年前に少年グループが浮浪者狩りをやって、警察に捕まったばかりだ。
それ以来、警察の巡回もあってか、少年たちが溜ることもなければ浮浪者がねぐらを求めてこの公園に姿を見せることもなかった。
少なくとも、思い当たるような危険はいまの公園にはないはずだ。
「……そういえば、連続失踪事件ってこの近くじゃなかったけっけ」
呟いて、真弓はしまったと思った。思い出さなくてもいいことを思い出してしまったからだ。この公園に入る前ならまだしも、こんな状態でそんなことを思い出してたらいたずらに恐怖心を煽るだけだ。
だが、もう遅い。よけいな妄想だけが真弓の頭の中で繰り広げられる。
若い女性だけが謎の失踪をとげる事件。マスコミは家族のことを考えて「失踪」の二文字にとどめているが、ほとんどの人間は「殺人」事件だと思っている。理由は単純。女性が失踪した場所に、大量の血が流れたと覚しき血痕があったからだ。ただ遺体が見つかっていないだけだと。
ネットが発達した現在、警察やマスコミがどんなに隠そうとしても誰かが事件現場の写真を撮ってネットに上げる。あるいはマスコミから漏れる。野外で起こった事件なら尚更だ。
最初の女性が失踪してから一ヶ月。輸血でも受けてなければ、生きているはずがない。
真弓は想像力など小学校の卒業と同時に忘れて来たはずだが、なぜか今は取り戻していた。何が起こったかのかはっきりしない分、恐怖は増した。
「そうだ通話!」
恐怖に支配された頭で、真弓はそれでもなんとか気を紛らわせる方法を思いつく。電話をすればいいのだ。誰かに電話をして、話しながら帰ればいいのだ。相手は誰でもいい。けどちょうどいいことに、真弓がどうしても電話をかけたい相手が一人だけいた。
彼女はバッグからスマートフォンを慌てて取り出した。LINEを開いて彼氏とのトークルームを見る。最後にあるのは会社を出るときに真弓から送ったメッセージ。それに既読はついていない。
忙しくてまだ見ていないのか、敢えて無視しているのか。それを見て真弓はため息をつく。既読スルーされていないだけましかもしれない。
そして右上の通話アイコンを押そうとした時、目の前に人影が現れた。
「ひっ!」
突然のことに、真弓は驚いてスマートフォンを落した。
暗がりに立つ人影は随分と大きなものに思えた。それに細部が少々変だ。
真弓は後ずさった。根をはやしたように動かない足をむりやり引きずって、ゆっくりと。それに合わせるように人影が進んで来る。
頼りない街灯の明かりが人影の姿を浮き彫りにした。
二メートル近くある筋骨隆々の体躯は、腕が妙に長く足は逆に短い。シルエットはゴリラに近いが、体に毛はなく青白い肌をしていた。体にのっている頭は体の割に小さく、頭部には一本の角が見える。
「いやぁぁぁぁ!」
悲鳴が、真弓の口をついて出た。腰が抜けて地面に座りこむ。動くこともできず、目の前に現れた化物をただただ見つめる。助けを求めることなど、理性を失いかけた真弓には考えられないことだった。
真弓は麻痺しかけた思考の片隅で、目の前の化物を〈鬼〉と認識した。彼女の知っているかぎり、頭に角の生えた人型の動物は確認されていない。いるとすればそれは〈鬼〉と呼ばれている架空の生き物だけだ。
そこまでが真弓にとっては限界だった。現実にあり得ないものを認識してしまった真弓の本能は、人間に備わる防衛機構のうちの一つを働かせた。本能が危険に遭遇したときにとる選択肢は三つ。
一つ目は対象への攻撃。二つ目は対象からの逃亡。そのどちらも叶わないとと分かったとき、本能は三つ目の選択肢を選ぶ。
すなわち意識を閉じ込め気絶する、という選択肢を。
真弓の体から力が抜けた。座りこんだ姿勢から、そのまま仰向けに倒れる。
〈鬼〉はそんな真弓の様子を意に介したふうもなく、ゆっくりと近づいていく。
気絶したことは真弓にとって逃げる手段を完全に失ったということにおいては不運だった。だが、これから自分の身に起こることを知らないですむという点においては幸運かもしれなかった。
大きな〈鬼〉の手が、真弓に伸びた。