家に帰宅した。

 彼女を部屋へ上がらせ、今まで使ってこなかったコップを出し、そこにお茶を注いでから、それをお盆に乗せて、彼女が座るちゃぶ台にこつんと置いた。すると彼女はそれを両手で添えるように取り上げると、二口ほど飲んでから、そこにまたコップを置いた。


 彼女は黒く厳粛な雰囲気を纏った中学制服を着ていた。バイト終わりはいつもこの姿であるから特筆する部分でもないのだけども、しかし、自分の家に女子中学生がいるということに何か違和感というか、きっと例えづらい居心地の悪さがあって、それに精神を持っていかれながら、私は彼女の眼前に正座し両手を膝に置いた。すると彼女は私の目を見つめて、口をゆっくりと開いた。


「ご、ごめんなさい。こんな時間にお家にお邪魔してしまって」

「別に大丈夫だよ。一人暮らしだからね。まあ、中学生がこんな時間に一人暮らしの一般男性の家に上がるのは、ご近所からすると心配事だろうけどね」


 なんていうと、彼女は落ち着きなく周囲に目移りさせながら、なにかワナワナとした仕草を見せてしまってから、「日を改めればよかったですかね」と絞り出すように言った。どうやら気を遣わせているようだった。


「それは気にしないでいいよ」

「わ、分かりました」


 そう言って、ごくんと固唾を呑む音が彼女からしてから、謎の視線を私に向けてきて一言。


「先輩の過去は、誰にも言いません」


 と震えた声でそう言った。

 どうやら何か勘違いをされているようだ。まあ、何も話していなかったから、彼女からしたらそう思えるのも無理はない。


「別に大々的に言わなければいいよ。少なくとも店長は知っているからね」

「え、そうだったんです?」

「本当は隠す必要ないからね。それに、別に特段『隠したい事情』って訳でもなかったんだ。ただ明るみに話してしまうと、他のバイトの人たちをびっくりさせてしまうから」


 元を正してしまえば、前科者である事を隠した方がいいと進言してくれたのは店長でした。私は別に自分を偽ってバイトをする予定はなかったので、面接では可能な限り赤裸々にお話をしましたが、その時、店長が言ったのです「君を雇うのは別に構わないけど、罪を犯してしまった事はあまり口外しないほうがいいね。如何せんうちは中高生が多いから、変な噂とか流されて予想できないトラブルが起こってしまうかもしれない。自分を守るためにも、店の為にも、よろしくね」

 それは優しさもありつつ、合理的な考えだと思いました。私もお店に迷惑をかけたいわけではないですし。だから、それを何となく守ってきたのです。


「……そうだったんですね」

「それで」


 私は彼女の杞憂から本題へ移すために、そう切り出した。


「両親を殺してほしいって、どういう事なの?」


 告げると、彼女はカチンという効果音がなったように固まってしまい、そして伏目した。


「……」


 彼女は言葉を選んでいる様でした。

 そんな彼女を見かねて、私は言います。


「僕はもう人は殺さない」


 そういうと、彼女は反応しました。


「人を殺したのは後悔している。いい事は何もないんだ。だから、理由があっても、殺しはしてはいけない。それにやってしまったら、もう戻れなくなる」

「……分かっています」


 弱い言い方だった。


「でも、私は、許せないんです」


 それに私は「ほう」と興味深そうな顔を作って神妙に彼女を見る。彼女は相変わらず伏し目のまま、何かをゆっくりと吐き出そうと息を整えていた。そうして途端に重い口が開かれると、彼女は深刻そうに伏目のまま、それを吐き出した。

 その言葉には短く揺れた感情が籠っていた。


「……あの人たちは、私を全く愛していません。私をずっと邪魔者のように扱ってきます。お金も自分の為にしか使わないし、私を召使か何かだと思って家で働かせるんです。洗濯も食器洗いもゴミ捨ても片付けも、ずっと私の仕事なんです。生まれてから私は子供としてみられていないんですよ。……私は、あの人たちの道具なんです」


 彼女は歯嚙みして悔しがった。重々しいオーラを出しながら、漆黒をさらけ出すように矢継ぎ早に。


「私には夢があった。私には好きな人がいた。私には大好きな物があった。私には大事な存在があった。それを、全部親に壊された。いつもは片付けない癖に、私の事となると一気に働いていく、失望させ失墜させ、私の周りを親の権限で勝手にいっつも破壊していくんです! 私だって趣味がある。好きな物もある。好きな人も出来る。美味しいご飯を食べたい。だのに、あの人でなしは、私の召使にするために全てを奪うんです。奪って、そして私は親ですよって顔をしていっつも、いっつも!」


 彼女は相当追い詰められていた。きっと全てを赤裸々に語っている訳ではないのだろうが、それでも、その悔しさと辛さは私の骨の髄に響いて来た。彼女の苦しそうな言い方が、彼女の苦しそうな仕草が、滴り落ちる小さい涙が、全てを表現していた。


「――――」


 彼女は人殺しの才能がある。

 ふと、私は謎の理屈が飛び出して、それをすぐかき消した。


「だから、殺したいんです」


 その時、やっと彼女は私を見た。その瞳の奥には、あの漆黒が渦巻いていた。憎悪と赫怒と哀傷が回って、ドス黒い物が蔓延っていた。

 彼女の瞳は虚ろだった。彼女の表情は、生きていた。


「僕は殺しはしない。教えもしない」


 きっぱりと言い放ちました。すると、彼女はわっとちゃぶ台の上に両手をついて、涙で歪んだ顔面を私に向けてきます。それに、私は絶句します。


「私は、生きたい」


 ギロリと、涙の奥から鋭い視線が迸って、私の思考に突き刺さりました。その眼光に恐怖を覚えると、彼女はそう強く言います。しかし、私は殺しをしたくありません。せっかく「ごめんなさい」の旅を終えると言うのに……。

『しね』

 ……。

『お前は死ななければならない』

 ……いたい?

 途端、私は胸を抑えて苦しみ出しました。

 脳内にあった映像が復元されていき、全身の感覚が消失し、腹の下から冷たい液体が喉を通過して、頭痛が、下手なヴァイオリンのように劈いてしまいました。視界が歪み、体が震え、知らない感触が腕に伝播し、掌を思わず左手で触ります。触って触って、ヌルっとしていないことをずっと確認していました。ずっと、確認していました。

右手にあの生暖かさがある気がしたのです。それが恐ろしくて、ついには、私は気を失いました。







 目を覚ますと朝になっていました。

 何やら視界外で騒がしくしていて、片手で目を擦りながら起き上がると、そこには女が洗い物をしていました。


「きみは」


 そう言うと、彼女は振り返りました。バ先の女の子でした。

 本来なら後輩と呼ぶところなのかもしれませんがそれは違います。先輩先輩と言われていますが、実際は彼女の方が先輩です。しかし、私に幾度もお客の対応で救われ、その末、何故か彼女の方が歴が長いと言うのに、私の事を先輩だと呼び始めた。それが由来です。

 ですので厳密にいうと後輩ではないのです。私が先輩と呼ぶべきなのです。ところで。


「何をしてるの?」


 私はそう聞くと、彼女は平然そうに言います。


「自分の分はもう食べたので、ご飯食べちゃってください。私はこれから学校です」


 なんて言葉に驚いていると、ちゃぶ台の上には定番すぎるオムライスが乗っていました。それに不安心を抱いていると、彼女はよし、とお皿洗いを終えて。


「倒れちゃったのは先輩ですからね」


 言われて思い出します。そう言えば、私は話の途中で気絶したのでした。

 何故気絶したのかははっきり覚えていませんが、何かとんでもない体験が想起された気がしました。彼女の鋭い眼光に、見覚えでもあったのでしょうか。

 まあいいでしょう。


「家に居たのか? 朝まで」

「帰る気にならなくて、それと先輩が心配でもありましたし」


 どうやらまた気を遣わせてしまったようです。


「家は大丈夫なの?」

「手伝ってくれないのに、親の心配をしてくれるんですね」


 なんて嫌味を言われて狼狽える。しかし、そこは私も譲れない。


「手伝えない。それは今も変わらないよ」


 というと、彼女は荷物を纏めるのを止めずに、私に背中を向けながら。


「もういいですよ。知ってます知ってます。先輩がそういう事をしないのも、分かりましたから」

「……本当?」

「ええ、いい人ですもん先輩。別にどうして人殺しに対してトラウマがあるのか知りませんけど、無理強いは元々性に合いません。だって、親としてるの変わらないですし」


 彼女はなんて平気そうにつぶやく。私はそんな彼女をみて、何故か疑問を抱いた点を追求した。


「トラウマ?」

「自覚無いんです? 寝てる間、ずっとうなされていましたよ。寝言で、殺してやる。しね。とか言ってて、隣で寝た私の夢見が悪かったです。とにかくいいんです。先輩には先輩の事情があって人を殺した。そういう点では私の願いも違いはないと思いますが、だからといって自分の凶行を正当化していいわけでは、ありませんし」


 そう言われてはっとした。私はどうやら、夢であの日の出来事を思い出していたようだ。とすると、もしかしたら、私が忘れているあの日の記憶は、やはりとんでもないトラウマであって、だからこそ、自己防衛のために記憶を失っているのかもしれない。未だに全ては思い出せないが、それでも着実と何かは思い出してきている。

 『ヤスヒコ』という名前、そして、『代わり』という単語だ。。

 まだ全ては分からない。あまりにパズルのピースが足りない。しかし、ピースが揃ってきていて、そして記憶の変化により悪夢を見た。昨日の気絶が起こった。それは、一歩進んでいるという証拠なのではないか。もしかしたら、彼女の親殺しを手伝う事で、私は全てを思い出せるのかもしれない。彼女のあの眼光を見たとき、体が震えていた。彼女の殺意が、私の過去の殺意を呼び覚ますのかもしれない。彼女とのやり取りが、何か大きな成果を生み出しそうな気がする。

 だが、私は大人として、子供の戯言にノらないほうがいいのだ。

 自分勝手な判断をしてはいけない。あくまで冷静に、理性で考えるのだ。殺しはダメだ。人を殺してしまうのは、結局、人を人ではない何かに昇華させる行為であるのだ。その先にあるのは破滅か自壊、はたまた、


「……」


 おい。


 それは、ダメだ。それ以上思っちゃいけない。それは、それは、人じゃない。


「先輩?」

「……あっ、ああ?」

「そろそろ行きますね。あ、今日はここに帰ってきてもいいですか」

「どうして?」

「家に帰りたくないんです。どうせ帰ったら、殴られるか犯されるか」

「え? 犯される?」

「ええ」


 彼女はそう平然と言って、玄関を出た。

 その時初めて知った衝撃的な真実でにわかに絶句し、そうして私は彼女の境遇を更に察してしまった。犯される。それは、性的交渉を指し想像通りの意味を含んでいるのならば……。

彼女は家で、一体どういう扱いを受けているのだろうか?






その先にあるのは破滅か自壊、はたまた、精神の快楽である。