海は深く、海は冷たく、海は私を許さない。
何度も波に打たれ、まるで私の存在を知らぬような加減さで、幾度と冷たく私を嬲る。その海の態度がかえって私に心地よく、冬の海だというのに、何者にも代えがたいような、どんな極楽にも例えられないような暖かさに思えて、一そう震えた涙を溶かした。
全身の力が入らなくなっていき、ついに、温度という物を忘れかける。
体は自由がきかず、腕も足も頭も心臓も、まるで息をしていないような平穏に包まれ、存在を認知できないほど、私はその海に溶け込んでいく。その先にある深淵に身を寄せて、その先にある影に身を隠して、その先にある本当の極楽へと、私は希望を胸に抱いて、静かに沈んでいく。
空のように明るかった海面が渋々と薄暗くなっていくと、水に舞う埃のような物が小さな星空に思えて感激した。綺麗だなあと途切れるように思い浮かべて、ただ、段々と暗さが増していき、黙々と体が溶けていく浮遊感が存外たまらなくて、私はまた満足感に包まれていく。
海面が空のように煌びやかで、燃え立つような激しい波が、海面の危うい光を薄い湯葉のように躍らせ、それに反射する埃が静寂に動く情景というのは、どんなプラネタリウムに出向いても、中々見られないような景色に感じて、見えるその世界を、私は朧気に、薄眼で眺めて、何か懐かしい物に激しく焦がれた。
ついに、満点の星空が見えていたあの空からは、そんな光が一片も漏れ出さなくなり、無意味に開けていた両目が、静かに落ちていき、じきに暗闇という両手が、私で遊ぶように、私の目を覆った。
「だーれだ」と言われたあの時を思い出す。
その記憶は正しく、私にとってのいい思い出で、溶けだすようにして薄れて逝った私という個体の中で、他の記憶と比較できないほどはっきりとした輪郭を持った、思い出であった。それが今この時に彷彿とした事が、何だか面白おかしくて、水中で薄ら笑いを浮かべてしまい、そこでついに、思考のしがらみからの脱却を確信した。ついに幸せになったんだと思えた。
もう嫌な事を思い出さない。もう嫌いな人を想わない。もう誰も私を否定しない。もう誰も、ここにはいない。ずっと私は、誰もいない世界に行ってみたかった。静かな街路樹を見上げていたかった。静かな時計塔の上から、静寂の世界を見回したかった。誰もいない住宅街を歩きたかった。誰もいない運動場で寝転びたかった。誰もいない森で昼寝をしたかった。誰かがいる苦しさを抱きたくなかった。
歯の奥に挟まった小さな苦み。そんなものに、振り回された生涯だった。
海は深く、海は冷たく、海は私を許さない。
手の平にはもう、誰もいなかった。