その日は、朝から猫がやってきた。
猫は預言者ムハンマドが愛した動物だという逸話が伝わっているので、中東には犬よりも猫が多い。白と黒のぶち猫は、治安部隊の誰かが飼っているのか、崩れかけたビルの一室にある新選組小隊の部屋にふらりとすがたを見せた。
「お、猫じゃん」
着替え中の平助が言った。
新選組は朝一で中隊長に呼びつけられている。治安維持のパトロールが現在の主な任務だが、猫と遊ぶくらいの時間はあった。
平助は、するりと入ってきたぶち猫に近寄って、
「よーしよし。お前見かけない顔だなー、どこから来たんだー、よしよ痛い痛い痛い」
と、爪を立てられて赤くなった腕をなでた。
「うへっへへへ」
左之助が指までさして笑った。
「てめえ笑いやがったな」
「馬鹿野郎、猫ってなあこう抱くもんだ」
左之助は、澄ました顔で毛づくろいを始めている猫に近寄ってゆき、
「おーしおし。おれが来たからにはもう安心だぜー、お前どこの仔だ痛っ」
と、引っかかれた手の甲をなでた。
「ふん」
砂漠迷彩服に着替え、G3ライフルを肩にかけた土方が鼻を鳴らした。馬鹿ばかりだ、とでも言わんばかりの表情。
「置いていくぞ」
そう言われて、平助と左之助は急いで着替え始める。
土方と同じく準備を済ませた沖田が、ふと、ぶち猫に近づいて手を差しだした。
ぶち猫は沖田の手のひらをじっと見つめ、やがて喉を鳴らしてすり寄ってきた。そのまま元気に沖田の体をよじ登り、すっぽりと腕に抱かれて落ち着いた。
「可愛いものですねえ」
沖田は無邪気によろこんだ。
「なぜ……」
平助が、がっくりと肩を落とす。
ところがぶち猫ときたら、どうしても沖田のそばを離れたくないらしい。降ろしてやっても、すぐに体をよじ登って腕のなかにおさまってしまう。
沖田は困ってしまい、
「トシさん、こいつ連れていってもいいですか」
と相談した。
「好きにしろ」
土方は言い捨てて、さっさと行ってしまった。
軍隊生活でおなじ釜の飯を食っていれば、直属の上官のカミナリが落ちるかどうかは、だいたいわかるようになる。
治安維持部隊の本部となった比較的崩れていないビルの中隊長室に入った瞬間、隊士たちは不穏な空気を感じた。
『沖田っ!』
案の定、中隊長が叱責した。
ふーっ、と猫のほうが返事をして、沖田の腕から飛び出てソファの下に隠れてしまった。
『戦勝したからといって
「す、すみません」
謝りながらも、微笑を絶やさない。不遜な態度にもみえるが、この青年の場合は不思議と許せてしまう雰囲気があった。
「あの、猫は……」
『どこかの小隊が飼ってるんだろう。ほっとけば出てくる』
そう言って、中隊長は隊士たちの任務を割り振っていく。土方たち五名はアメリア小隊とパトロール交代、山南たち五名は西地区の歩哨と交代――。
『そういえば』
ひととおり指示し終えたあとで、中隊長が訊いた。
『お前ら、ミューの居場所を知っているか?』
「ハディナ南の基地にいると聞きましたが」
代表して土方がこたえた。
ミューは危険すぎる前線基地を離れ、いまは後方のウルミスタン義勇軍基地でフォトグラファーの仕事をしていると聞いていた。
『そうか……』
「中隊長?」
『いや、なんでもない』
一瞬物憂げな目をした中隊長は、首を振っていつもの無表情に戻った。
「ミューになにかあったんですか?」
土方は重ねて問うが、中隊長はきっぱりと、
『なんでもない。お前ら日本人の顔を見ていたら、あいつのことを思い出しただけだ』
と否定して、さっさと隊士たちを追い払った。
一人になった部屋で中隊長はため息をつき、しばらくタブレットで
やがて席を立って、ソファの下をのぞきこんだ。
ぶち猫の茶色い瞳と、中隊長の青い瞳の視線が合わさった。
『おいでおいでー。よしよし。人よりも先に猫が戻ってきたなー。お利口だなー。よしよ痛い痛い痛い』