杏花は五日間の事前雅学を終え、残り二日のうち一日は瑞雲と不凍航路内を散歩したり、書房で読書したりするなどして過ごすことに。
その間も、瑞雲は時折悲しそうな瞳で杏花を見つめることがある。
何を患っているのか全て話した方がいいのか、と、杏花も悩みながら、でも言うことが出来ずにいる。
「気になる?」
瑞雲は頷いた。
「でも、まだ瑞雲とは友達だし……。私の病を背負って欲しくない」
「私では背負う資格がないのか」
「資格とか、そういう話ではなくて……」
「それなら……」
瑞雲は不凍航路で一番広い中庭に出て、中央にある東屋の中へ杏花の手を取り入り、椅子に座るよう促した。
「瑞雲は座らないの?」
瑞雲は杏花の足元に跪き、再びその手を取った。
「私は杏花を諦めない。例え共に生きていくことが難しい病だとしても」
瑞雲は微笑み、手を握った。
「杏花が、私のことを諦めないでいてくれたように」
胸が苦しくなった。
瑞雲が言っているのは、おそらく、父親を亡くした直後に全く言葉を話せなくなった時のことだろう。
それは瑞雲が十歳の時だった。
突然のことでどうすることも出来ず、琅雲が助けを求めて星辰薬舗を訪ねてきたのだ。
杏花の両親も「この症状は、お父上を亡くされたことによる精神的負担です。瑞雲が再び『声を出して伝えたい』と思わない限り、治らないでしょう。精神を安定させる薬を処方することは出来ますが、それでは根本的な解決にはなりません。おそらく、我々の言葉も、意味をなさない音に聞こえているはずです」と、事実を伝えるしかなかった。
それでも、杏花は諦めなかった。
「声が出ないなら、紙に書いて。お話しよう」と。
杏花は返事がなくても、ずっと手紙を送り続けた。
その日あった楽しいこと、少し悲しかったこと、一緒に見たかった景色のこと。
二十通程送ったあと、瑞雲から返事が来た。
手紙には「杏花の声が聞きたい」とだけ書いてあった。
杏花はそれを琅雲に手紙を書き、伝えた。
すぐに琅雲は瑞雲を連れて扶桑にやって来ることに。
杏花はどうすればたくさん声を聴かせられるか考え、本を音読することにした。
瑞雲達が扶桑にとどまれるのは三日間。
杏花は早速集めた本から瑞雲に選んでもらい、読み始めた。
難しい文字には事前に母が振り仮名を振ってくれている。
朝から夕方まで、ずっと読み続けた。
でも、本は二日目で尽きてしまった。
最終日、杏花は少し恥ずかしかったが、蓬莱に住んでいたときに覚えた歌を歌うことにした。
母が寝る時に歌ってくれる歌。父が食器を洗っている時に口ずさむ歌。杏花が泣いている時に、兄が歌ってくれた歌。
その全てが蓬莱語だから、瑞雲には内容がわからなかったかもしれない。
でも、大秦国の歌を歌ってしまうと、瑞雲は父親や、遥か幼い頃に亡くなってしまった母親のことを思い出してしまうだろう。
覚えている歌の最後の曲を歌ったあと、瑞雲は「最初に歌ってくれた歌を、もう一度聞きたい」と声に出して杏花に伝えてくれた。
それを聞き、杏花は家族や琅雲が驚いて駆け寄って来るほどに泣いてしまった。
「瑞雲が、今、お話し、して、くれた」と。
「あの時、兄上の声すら流れる川の音のようにうまく聞き取れなかったのに、杏花の声だけが聞こえた。読んでくれた本の内容も、歌ってくれた蓬莱の歌も、全部覚えている」
杏花の視界が波打つようにぼやけていく。
「私が成人したら、杏花を迎えに行きたい」
心が、後押しする。
頬へ零れ落ちた涙を拭い、杏花は口を開いた。
「全部話す。私も、自分のことを、瑞雲と過ごす未来を、諦めないことにする」
杏花は瑞雲を椅子に座らせ、自分の病状を噛み砕いて話し始めた。
「私の身体は、生成される霊力の半分を使ってその機能を保っている。もしその調和が崩れると、私は息をすることすら困難になる。それに、霊力の暴走によって意識が朦朧とするほどの熱が出て、手足の感覚が鈍くなる。淀んだ血液を排出するために吐血することも。意識を保っている間に、仙力を霊力に変換して調和を取り戻さないと、危険な状態に」
杏花は左手の周囲に仙力の風を纏わせた。
それは左手を守るように巡り、まるで翡翠色の繭のようにも見える。
「私は仙力の扱いが兄弟の中でも一番下手だった。だから、今でも、この命のために修練が欠かせない」
瑞雲は杏花の手を握り、真剣に言葉を受け取っている。
「私は医仙の娘だから、法霊武林の人達のように他人から霊力をもらうことが出来ない。それは相手から『奪う』ことに等しいから。医仙は与えることしか出来ない。でも、たった一つ、医仙でも受け取れる力がある。それは神力。でも、そんなもの簡単には手に入らないし、現実的ではない。だから私は、父と母が開発した薬と、自分の力を信じるしかない」
杏花の顔が曇る。
瑞雲は次に語られることを静かに待った。
「そんな状況に心は疲労していき、一昨年、心が二つに割れてしまった。心は身体とは違い、二度と元に戻ることはない。私は身体も精神も病に罹患しているんだ」
瑞雲は杏花を見つめ、口を開く。
「私が杏花の傍にいる理由が増えた」
「重くないの?」
「少しも。病ごと、大切にする」
「大袈裟だ」
「そうか?」
「うん。でも、嬉しい」
自分の力以上に、信じられるものに出会えたのかもしれない。
「じゃあ、そのうち私の両親に挨拶に来ないと」
「もちろんだ」
「この関係に名前はあるのかな」
瑞雲は少し考えてから、顔を真っ赤にして杏花を見つめた。
「愛」
「ふふ。それは想いだよ」
杏花は微笑みながら、左手の仙力の渦を解き、瑞雲の頭を撫でた。
「蓬莱にはね、想い合う二人のことを少し古い言葉で『思人』って言うのがあるの。大秦国の発音だと……、スーレンかな」
「では、私達は思人だ」
「そうだね」
自分の病を恨んだこともあった。
嘆いて、粉々に壊れてしまいそうになったこともある。
でもそれも全部、未来を信じる力になるのなら悪くない、と、杏花は思った。
「明後日から雅学だ」
「毎日送り迎えをする」
「それは駄目だよ。私の宿舎は女性専用の区画にあるんだから」
「あ……、そうか」
「休憩の時間にお話ししよう」
瑞雲は頷くと、嬉しそうに微笑んだ。
「明日は七大武門から門弟が集まってくるね。瑞雲は知っている人も多いんじゃない?」
「名前はわかるが、話したことはない」
「そうかぁ。いっぱい友達できるといいね」
長命種の人間にとって、十七歳から十八歳は青年期への過渡期。
その期間に法霊武林についてしっかりと学ぶことで、将来道を外すことはない、との考えで三百年前から法霊雅学が開かれている。
「私は特別に参加させてもらうから、みんなよりも一つか二つ年齢が下だけど、兄と弟とは五歳離れているし、会話するぶんには問題なさそう。瑞雲とも楽しく話せているものね」
「私は特別だろう?」
「それはそう」
杏花の言葉に満足そうに頷く瑞雲は子供のようだ。
「問題は仙力と陰陽術だなぁ。仙力は霊力と比べて強すぎるし、陰陽術は法霊武林の人達からすれば邪術で幻術で呪術。それに、大秦国の剣や刀とは形の違う蓬莱刀も。変に目立たないようにしないと」
「心配ない。私が」
「そこまで守ろうとしなくていいよ。自分のことは自分で守れる」
瑞雲の厚意は嬉しいが、その程度のことを自分で掻い潜れないようでは、任務なんてこなせない。
「応援する」
「うん。それが一番嬉しい」
二人は立ち上がり東屋を出ると、武闘場へ手合わせをしに向かった。
雅学は座学だけではなく、各武門の伝統武器を用いた実技や、基本となる武道を一通り演習する。
七大法霊武門にとってそれは、お互いの家の力を示すいい機会とも言える。
門弟たちにその気はなくとも。
翌日、昼を過ぎた頃から続々と集まってきた。
その様子はまさに圧巻。
雅学の正装である黒い校服の波。
校服の背と左胸に入っている各法霊武門の家紋は個性的で目に楽しくはあるが、たった一人で参加する杏花にとっては威圧されているようにも感じてしまう。
法霊武門の七大武門は、百以上ある武門の中でも桁違いに優秀な名家だ。
欒山 霓氏、氷妃河 雪氏、夜湖 静氏、煌風 音氏、綺雨 霖氏、藤陵 鳳氏、そして紅葉山荘 雷氏。
各法霊武門から参加する門下生は、後継である世子やその兄弟姉妹とは別に、十人ほどが帯同している。
身の回りの世話をする侍従や侍女を連れてくることはもちろん不可。
「杏花の校服には……」
杏花と瑞雲は屋根の上に座り、続々と集まってくる参加者を眺めていた。
「ああ、私のは星辰薬舗の看板に描いてあるやつだよ」
上に羽織っている白い杏花紋の衣を脱ぎ、背中を見せた。
「桃花を纏った星辰か」
「なんか、両親の仲の良さを宣伝しているみたいで少し恥ずかしい。霖氏のは素敵だよね」
綺雨 霖氏の家紋は、水面に雨粒が落ちた時に広がる水紋に金盞花が添えられたもの。
雨は火炎を弱め、金盞花には火傷を治す効果がある。
そして、花言葉は『慈愛』。
「すぐに杏花も纏うようになる」
「確かに。あの家紋はどこの家?」
数珠のような円の中に、鬼灯に似た植物が描かれている。
「あれは…」
瑞雲の言葉よりも先に、どこかの門下生が噂話をしている声が聞こえてきた。
「見ろよ。欒山霓氏だ」
「うわ。あそこって嫡子よりも養子の方が優秀って有名な……」
「ほら、来たぞ。霓公子と霓二公子だ。嫡子の若蓉よりも義弟の扶光の方が存在感あるな」
「霊力の強さも全然違うんだろ?」
「そうそう。霊力の量こそ若蓉の方が多いらしいが、それ以外は何もかも扶光が優っているとか。霓宗主も扶光を世子に立てるかもって噂だぜ。可哀想だよな」
彼らの嘲笑と不快な物言いに顔を顰めながら、杏花は霓氏の二人を目で追った。
(可愛らしい顔立ちで小柄なのが|若蓉《ルォロン》で、背が高くて色っぽい方が|扶光《フーグゥァン》か)
「杏花、瞳が光っている」
「さっきの人達の言葉が許せなくて」
杏花の瞳は杏色に発光している。これは父方の遺伝で、精神的に何らかの揺らぎがあると霊力の光が瞳に現れてしまうのだ。
色は個人によって違うが、発光する理由は主に怒り。あまりいいものではない。
「もういいや。瑞雲、武闘場へ行こう」
瑞雲は頷き、二人は飛んで向かった。
「それ、格好いいよね」
「風火輪か」
「うん。くるぶしのところで高速回転しているそれ」
「私は医仙の特徴の一つ、杏花の翡翠色の羽衣も好きだ」
「お母さんもお兄ちゃんも朱蓮も同じ色だよ」
医仙や仙人、仙女と呼ばれる種族は、空中へ浮かぶときにその背に羽衣が出現する。
その色は遺伝によって受け継がれる。
二人は武闘場へ着くと、それぞれ左手に剣と蓬莱刀を出現させ、鞘から抜いた。
「よろしくお願いします」
互いに一礼し、間合いを図ることもせず床を蹴って刃を重ねた。
火花が散る。
十合、二十合と、次々に斬り結んでいく。
「おい、なんか始まってるぞ!」
「こっち来てみろよ!」
二人の激しくも流麗な手合わせを見ようと、各武門の門下生達が集まってきた。
「霖二公子だぞ! 戦っているのは誰だ……?」
「お、女子⁉︎」
「霖二公子は天宮閣が出している天宮達人榜で第二位だぞ!」
「あの家紋、初めて見る紋だ……」
どよめきが津波のように広がっていく。
百合目を斬り結んだところで、二人は最初の位置へ戻り、鞘に納めてまた互いに一礼した。
「さすがは霖二公子」
拍手をしながら近付いてきたのは紅葉山荘 雷氏の世子、如昴。
紅葉山荘は天宮富豪榜で第一位の大富豪武門というだけあって、周囲のどよめきが一層大きくなった。
「もっとすごいのは、そんな霖二公子と対等に渡り合ったそちらのお嬢さんですね」
如昴はまるで値踏みでもするように杏花を見つめた。
間に入ろうとする瑞雲に手で近づかないよう合図し、杏花は相手の出方を伺った。
ここで間違えれば、変な注目を浴びてしまう。それは避けたい。
「初めて見る刀に、刀術。そして家紋……。使っていたのも霊力とは違う力。お嬢さんはどちらの武門に師事を?」
杏花は作揖し、答えた。
「お初にお目にかかります、雷公子。私は扶桑星辰薬舗の娘、星 杏花と申します」
如昴をはじめとして周囲の人々が「え? 薬舗の娘……?」と訝しげな表情をするのが感じ取れた。
「えっと……、それはどういう……」
如昴がさらに質問をしようと口を開いたその時、「皆さん、顔合わせは明日ですよぉ!」と叫ぶ声が聞こえた。
「雪二公子」
瑞雲と杏花が作揖すると、それに続いてみんなも同じく作揖した。
「どうもどうもぉ! 皆さん、長旅でお疲れでしょうから、宿舎でゆっくりしてください」
まるで少女のような可憐さを持った菫鸞の笑顔に、皆つられたようだ。
「お言葉に甘えて」と、次々にその場から立ち去っていった。
如昴だけは後ろ髪を引かれていたようだが、菫鸞が「如昴もほら、どうぞどうぞ」と促すと、渋々武闘場を後にした。
「ありがとう、菫鸞」
杏花は菫鸞へ駆け寄り、両手を握った。
「人望だけはあるからね、私」
菫鸞は桜色の唇の口角をあげ、悪戯をする子供のように微笑んだ。
「如昴は自尊心が蒼天に届くほど高いけど、良い子だから仲良くしてあげてね」
「わかった」
「瑞雲もだよ」
菫鸞は杏花からそっと手を離し、その手を顎の下でぎゅっと握った。
瑞雲は頷き、二人の元へ。
杏花にとっても、瑞雲にとっても、菫鸞はこの一週間ほどで急激に仲良くなった『杏花の女友達』という位置付けのため、杏花と菫鸞が手を握り合おうが二人だけでお茶をしようが、瑞雲は気にならないのだ。
「二人はどうする? 私は兄上の手伝いで書房に行くけれど」
「私達も手伝う。ね?」
瑞雲も頷いたため、三人で書房へと向かうことに。
「女性門下生の皆さんの視線が少し鋭利だったのは、瑞雲のせい?」
「だと思うよぉ。霖氏養花天は人気あるから」
琅雲と瑞雲はその眉目秀麗、品行方正、文武両道なことから、『霖氏養花天』と呼ばれている。
二人を見習い修練を続ければ必ず花開くと言われているほど優秀な兄弟だと有名で、琅雲は天宮閣の天宮才子榜第一位に輝くほどの実力者だ。
「でも、心配することないんじゃない? 杏花は女の子落とすの上手でしょう」
「落とすって言い方は語弊があると思うのだけれど」
「だって、不凍航路の侍女で杏花を慕わない女子はいないよ?」
瑞雲も同じ意見なのか、深く頷いた。
「で、でもさ、ほら、あの、武門の女性にも有効なのかはわからないし」
「明日にはわかるんじゃない?」
菫鸞は美少女かと思うほどの華やかな笑みを浮かべた。
「そうかなぁ……」
杏花は扶桑の妓楼、芍薬楼で、百花王のお姉様方に教えてもらった世渡りの方法を頭の中で必死に思い出そうと試みた。
異性から恋愛感情をもたれず、同性から支持を得やすくなる紳士的振る舞い。
そんなことが息をするようにできれば、こんなに悩むことはない。
杏花はお気楽な友人の言葉に苦笑しつつ、明日からの身の振り方を思い、小さくため息をついた。