鮮やかな翡翠色の深衣に、杏の花が透かし模様で入っている白い衣を身に纏った少女が一人、呆けた顔で立っている。
深衣と同じ色の髪紐で結われた一本の三つ編みが背中で揺れ、風の強さを感じる。
「ここが氷妃河の法霊武門、雪氏の『不凍航路』か……。瑞雲が言っていた通り、白い壁が天まで届きそう……」
目の前に広がる景色は純白の壁。
それ以外に見えるのは、頂にまだ雪の残る鋭利な角度の岩山と、目が醒めるような鮮やかな青の門。
不凍航路は、乾燥したこの地で唯一の川である氷妃河が始まる場所。
雪氏の先祖は氷妃河の守り手であり、この大秦国において河川を使った戦術を得意とした船乗り。
「ここで四ヶ月間、上手くやっていけるかな……」
杏花は荷物の入った鞄の紐をギュッと握り締めながら、少しだけため息をついた。
晩夏の風が頬を撫ぜ、遥か上空へと舞い上がる。
「全員が集まるまでの一週間。法霊武林のこと、どこまで覚えられるだろう」
青い門に近づきながら、予習した内容を頭の中で反芻した。
大秦国には、法霊武林に属する特別な力を持った人々がいる。
長命種の人間の一族、世杉族末裔と、蓬莱国から渡ってきた同じ長命種の五葉族末裔がそれにあたる。
彼らは普通の人間との婚姻関係を結びながら特別な力と血を分け合っていった。
次第にその血は薄くなり、かつては七百歳もあった寿命が、今では二百歳にまで減少。
幼年期、少年期、老年期は一般的な人間と同じだが、青年期がとても長く、壮年期がそれに続く。
見た目は常人と何ら変わりはないが、彼らはこの世に生まれ出でるときに神々から一つの種を授かっている。
名を霊植種と言い、身体に宿り、修練を重ねると成長し、体内で霊力を生み出すようになる。
霊力は身体能力や自己治癒能力を大幅に向上させるだけでなく、各武門の伝統武器や法器と呼ばれる特殊な道具を自由自在に操ることに使う。
霊力の強弱は生まれ持った才能によるところが大きいが、修練の成果によってはその差を補うこともできる。
心身の成長に合わせ、種は次第に植物の様相を呈するようになり、霊力花と呼ばれるその形は人によって違う。
「霊力の授かり方は蓬莱も同じなんだけどなぁ」
自身の左腕に淡く光る植物を出現させながら、杏花は一番重要な項目を思い浮かべたところで、青い門にぶつかった。
「痛っ! ……誰も見てないよね。よかった」
周囲を見渡し、人気のないことを確認するも、恥ずかしさに顔が熱くなる。
「杏花……?」
背後、頭の上の方で名を呼ぶ声が聞こえた。
「……瑞雲! それに、霖宗主まで……。どうしてここに?」
紺碧の深衣に身を包む長身の美男子が二人、両足に装着している風火輪を使って空から降りてきた。
一人は表情に乏しいが頬を赤く染め耳まで赤くなっている。杏花の幼馴染、霖 瑞雲。
美しく長い髪を高い位置で結い上げ、残りは背中に流れているため、隠すことができずに余計に頬を赤らめている。
もう一人は優雅で柔和な笑みを浮かべ、大人の余裕を感じる佇まいの若き宗主、霖 琅雲。
霖氏は両刃の剣を使った戦闘術を得意とする武門である。
「君のご両親に頼まれて、雪宗主に会いに来たのだよ。星辰薬舗と交流があるのは我ら霖家だけ。杏花の病状をわかっていて、正しく説明できるのは私が適任だ、と」
「ああ、そんなわざわざ……」
杏花は幼い頃から不治の病を患っている。
大隔世遺伝により、数十代前に存在した先祖の力を受け継いでしまったのである。
それは、父方の莫大で強力な霊力と、母方の類稀なる生成量の仙力。
強すぎる力は杏花の身体の負担となり、本来ならば主を強化するはずのものに命を脅かされているのだ。
そのため、杏花は生成される霊力の半分を体調と体力の維持に使うしかなく、普段は仙力だけを用いて医術と薬術、そのほか様々な術を行使している。
深衣の上に着ている白い衣は、母の仙力が編み込まれた、杏花の体調維持には欠かせない特別なもの。
しかし、これから関わろうとしているのは霊力を正道とする法霊武林の人々。
病状の説明なしでいきなり仙力を使えば、どんな目で見られるかは火を見るよりも明らかだ。
「私の身体や力、症状や服用する薬について書かれた書簡を父から預かっているんです。てっきり、私に全て任せてくれているんだと思っていました。お手を煩わせてしまいましたよね……」
元気な笑顔が萎んでいく杏花を優しい瞳で見つめながら、琅雲は微笑んだ。
「ご両親は心配なのだよ。困ったことがあれば、我が弟に頼るといい。杏花と同様、今回の法霊雅学に参加するからね」
「瑞雲も参加……、するの?」
杏花は幼馴染を見上げ、つい表情が緩んだ。
瑞雲は端正な顔立ちを少しも変えることなく、でも目を輝かせ、杏花を見つめながら頷いた。
「可愛い弟には困ったものだ。雅学までまだ一週間もあるというのに、私が杏花とともに雪宗主に会う予定があると言ったら……」
「兄上」
瑞雲は琅雲の言葉を遮るように、その顔を見た。
「ふふ」
琅雲は表情とは裏腹に素直に育ってくれた弟を見て微笑んだ。
「では、そろそろ中に入ろうか」
紺碧の門に琅雲が白い玉佩をかざすと、門が内側に開いていった。
「わあ! 建物の中に、川が流れている!」
真っ白な石畳が碁盤の目のように土地を形成しており、その間全てに清らかで冷たい水が満ち、川となって流れている。
それぞれの区画を繋げるためにかかっている橋も白くて美しい。
まるで一つの街のよう。
「雪氏は氷妃河の水質管理もしていてね。この川は壁の下を潜って東西にのび、周辺の街や村に綺麗な水をもたらしているのだよ」
「不凍航路は水とともに生きているのですね」
初めて見る涼やかで荘厳な光景に、杏花は目を奪われた。
「杏花には……」
瑞雲が杏花の腕に触れ、少し、本当に少し表情を緩めながら言う。
「慈雨源郷に来てほしい。好きになってほしい」
杏花は驚き、頬が熱くなるのを感じた。
十年前、家族で蓬莱国から大秦国に移り住んできたばかりの頃。
まだ友達と呼べる者もおらず、本ばかり読んで過ごしていた。
歳の離れた兄は父の手伝いで店に立ち、まだまともに言葉も話せないほど小さな弟は母の腕の中。
そんな時、星辰薬舗に客として来た霖氏一行の中に、幼い瑞雲がいた。
琅雲の後ろに隠れながらこちらを伺ってくる少年。
暇を持て余し、歳の近い友人が欲しかった杏花は、迷うことなく少年に話しかけた。
話しかけられたことに驚いた瑞雲は、顔を真っ赤にして泣き出してしまった。
杏花が固まっていると、琅雲が「弟はとても人見知りが激しくて、少し泣いてしまいやすいのだが、とても良い子で優しい子だから、仲良くしてくれると嬉しい」と言って二人の中を取り持つように間に入ってくれた。
杏花はそっと瑞雲の手をとり、「驚かせちゃってごめんなさい。もし良ければ、少しお話ししよう」と笑顔で誘った。
すると、瑞雲は「お、お花みたい……」と呟き、涙で濡れた目を輝かせ、杏花を見つめながら頷いた。
それからは瑞雲は琅雲にくっついて星辰薬舗に通った。
そして、杏花が十二歳、瑞雲が十四歳の時。
帰り際に瑞雲が杏花の手を取り、言ったのだ。
「成人したら迎えにくる。私が生まれ育った慈雨源郷に一緒に帰りたいから」と。
その後は琅雲が若くして宗主の座についたことで扶桑まで訪れることが出来なくなり、会う機会は無くなっていた。
(あ、あれは子供の約束……、だよね……?)
現在、杏花は十六歳で、瑞雲は十八歳になったばかり。
瑞雲の成人まであと二年。
「あ、えっと」
「返事は急がない。まだ二年ある」
全身に優しい雷が奔る。
「う、うん。わかった」
何がわかったのか自分でもわからなかったが、それはきっと幼い頃に微かに夢見ていたことの続きのような気がして、杏花は胸の前で自身の手をぎゅっと握りしめた。
「おお! 琅雲、いらっしゃい。待っていましたよ。瑞雲も一緒とは珍しいですね」
突然、底抜けに明るい声が響き、その主の方へと身体を向ける。
「青鸞兄さん。お久しぶりです。相変わらずお元気そうですね」
純白の深衣を纏い、手の甲には氷花紋。
雅な見た目とは裏腹に、身体そのものを武器とする近接格闘術が専門の雪家宗主、雪 青鸞。
「毎日鍛錬を欠かしませんから。で、そちらのお嬢さんが例の……」
杏花は自分に移された視線を感じ、一歩前に出て作揖した。
「雪宗主、初めまして。扶桑星辰薬舗の娘、星 杏花と申します。この度は雅学への参加を許可していただき、ありがとうございます」
「こちらこそよろしくお願いします、杏花。このような見目麗しく可愛らしい女子がまさか……」
「青鸞兄さん」
琅雲の真剣な瞳に、青鸞は口をつぐみ、頷いた。
そしてまた笑顔に戻ると、杏花と瑞雲を見て言った。
「今回の雅学には私の弟、菫鸞も参加します。どうぞ、仲良くしてやってください」
杏花と瑞雲は共に作揖した。
「では、二人は私の部屋に。瑞雲は雅学で宿泊予定の部屋で休んでいておくれ」
瑞雲は杏花と琅雲を交互に見てから、少し寂しそうな顔をした。
「あのね、瑞雲。私には……、今はまだ話せない秘密が幾つかある。もしかしたらそのどれかが瑞雲を傷つけてしまうかも……」
「気にしない」
瑞雲は側から見れば全く表情に変化がないけれど、杏花にとって彼の目は、より多くの感情を語ってくれる。
「杏花に幾つ秘密があろうと、私の想いは変わらない」
杏花が声を出すよりも早く、青鸞が「え! 二人はそういう感じなのですか!」と興奮し出してしまったため、琅雲によって口が塞がれた。
「さあ、青鸞兄さんが騒ぎ出さないうちに行こう、杏花」
「あ、は、はい!」
杏花は瑞雲の目をまっすぐ見ることが出来なかったが、小さな声で「またあとでね」と言うのが精一杯だった。
瑞雲の微かな「うん」が聞こえ、顔が綻ぶ。
しかし、これから二人の宗主に話すことは、とても笑っていられるような話題ではない。
青鸞に案内され、部屋へ入ると、二人の後に続いて円座に腰を下ろした。
「霖宗主、こちらにいらしていただいた本当の理由を隠させてしまい、申し訳ありません」
「大丈夫だよ。ただ、瑞雲は何かを感じ取っているようだ。あまり長い間は隠せないだろう」
「わかりました……。雪宗主、霖宗主。これよりする話は、心から信用に値すると確信した者にしか聞かせる事ができません。ただ、今はその時ではなく、お二人だけにお伝えいたします」
杏花が「梅園」と言うと、その背後に三名の従者が現れた。
「白の狩衣が白梅。医術と刀術を得意としております。黒の狩衣の女子が紅梅。守りの呪いと弓術を得意としており、この二人は双子。そして緑の水干の少年が青梅。隠密と浮遊を得意としており、この姿は本来の姿ではありません。本来の姿は邪気が強く、『災禍』を司っているため、雅学の間は常に子供の姿をさせます。この三名は蓬莱に伝わる陰陽術により私の従者となった者達です」
二人の宗主は三名の従者を見つめながら、すでに実力の片鱗を見せた杏花の底知れなさに胸が高鳴るのを感じていた。
「紅梅」
杏花が目配せすると、紅梅は、空に向かって手を伸ばし、円を描いた。
「我々の声が漏れないよう、陣を張らせていただきました」
鞄から一つの艶やかで重厚な箱を取り出し、それを二人の目の前へと置いた。
絹の紐に蝋で封がされている箱を見て、二人は顔を見合わせた。
「私、星 杏花は、蓬莱国星辰王殿下の名代として参りました。中には大秦国皇帝陛下と蓬莱国天皇陛下、両陛下の玉璽が押印された聖旨が封じられております」
琅雲と青鸞は真剣な表情で杏花と箱を見つめた。
「箱を開き、中の聖旨を手にした瞬間、それは命令に変わります。両陛下はそれを望んではいません」
杏花は鞄からもう一つ、桐の箱を取り出すと、蓋を開けた。
中には巻物が入っている。
「ここにあるのは、両陛下が聖旨を発するに至った事案を書き記したもの。こちらをご覧になり、そして私の話を聞いた上で、聖旨を受けるかご判断ください」
二人が頷いたのを確認し、杏花は巻物を広げて話し始めた。
「ことの発端は、およそ千年前。大秦国の神器が盗まれた事……」
当時、大秦国と蓬莱国に友好的な国交は無く、海を超えてその事態を聞きつけた蓬莱国天皇は、「我が国まで災禍が及ばぬよう、警戒し、守りを固めよ」と陰陽術師や法師たちに命じるだけで、大秦国に力を貸す事はなかった。
その後、大秦国は二度に及ぶ滅亡の危機に晒されることとなる。
一度目は唯一にして最後の女性趕屍匠による反乱。
今からおよそ八百年前のこと。
彼女は自身の父親が偽りの申告による不敬の罪で死罪にされたことを恨み、失われた五つの神器のうちの一つである古琴を用いて武人の僵尸の軍団を率いて皇宮へ攻め込んだ。
古琴はその弦が全て人間の腸から作られたものに替えられており、放つ怨念や邪気は桁外れ。
彼女が皇宮に至るまでに殺した者は数十万にのぼり、たった一人で二つの城まで落としてしまった。
この時、その反乱を鎮め、皇宮を守り抜いたのは、当時の国師とその弟子達。
彼らは世杉族の血を引く道士で、彼女が僵尸達に出した命令を、呪符と音律を使うことで書き換え、進軍を止めたのだった。
趕屍匠は悲願目前で侵攻を阻止され、皇宮に向かい呪いの言葉を吐き捨ててから自害。
趕屍匠が死んですぐ、古琴は封じられた。
その後、何度試しても古琴を浄化する事は出来なかったため、国師によって破壊されることに。
二度目の危機は四百年前。
当時の皇帝は何人皇子が生まれても、三年以内に全員が亡くなるという悲劇に見舞われていた。
正統なる血筋の後継者がいなくなれば、国力を損ない、他国に攻め入る隙を与えることになる。
しかし、何度子供を作ろうと、生き残るのは公主だけ。
そこで、すでに国交があり学友であった蓬莱国天皇へ助けを求めた。
天皇は大秦国へ、その時最も信頼を置いていた陰陽術師を派遣した。
陰陽術師は到着するとすぐに皇宮へ向かい、皇帝に謁見した。
すると、すぐに「滅ぼした国から娶った公主を冷遇し、結果自害に追い込んだことは?」と皇帝に尋ねた。
皇帝は顔面蒼白になり、「十五年前に……。だが、何の能力も持たぬ女子に、このような呪いがかけられようか。それに、すでに死んでいるというのに……」と震えながら口にした。
陰陽術師はそこで何かに気づき、「寝殿を見せて頂いても?」と言った。
皇帝は「全ての寝殿への入室を許可しよう」と太監を呼び、陰陽術師を案内させることに。
その中の一室に入ると、陰陽術師の手の中にあった呪符が激しく燃え上がり、灰となった。
同行していた太監は怯え、部屋の中には入らず、陰陽術師が何かを探しているのを見ていた。
「ありました。これが原因です」と、陰陽術師が手にしたのは香炉。
太監が「そ、それは唯一取り戻せた神器……。悪夢に魘されて眠れない陛下に安眠していただこうと、使用が許可されているもので……」と、声を震わせながら言った。
「取り戻したはいいが、遅かったようですね。この香炉に入っている香灰は焼かれた人間の灰です。とても強い呪術がかけられており、浄化は不可能。破壊するしかないでしょう」と事もなげに言い、太監に皇帝へ報告しに行くよう伝えた。
皇帝の命によりすぐに香炉は破壊され、中の香灰は陰陽術師によって適切に破棄された。
「ここまでの話はすでにただの歴史。これよりお話しいたしますのが、今に続く事案にございます」
百年前、当時の氷妃河雪氏の女宗主が骨董市で鏡を手に入れた。
それはこれまで見たどの鏡よりも美しく、精巧で、惹きつける魅力に溢れていた。
雪宗主は修練も忘れるほどにその鏡に魅入り、常に手元に置いていた。
鏡の異常さに気付いたのは、雪宗主の娘ただ一人。
鏡について調べようと、商人を探したがすでにその姿はどこにもなく、それどころか、骨董市に参加した誰もその者を覚えてはいなかった。
そんなある日、娘は、小鳥が羽ばたく様子を見て母親が騒ぐのを目撃。
「ねえ、生き返ったのよ! ほら、あなたも見たでしょう!」と。
娘は母が日に日にやつれていくことに危機感を覚え、隙を見て鏡を盗み、破壊。
その瞬間、割れた鏡は宙へと浮かび、黒い煙をまき散らしながら四方へ飛散。
太陽は翳り、空には暗雲が立ち込め、邪悪な波紋が広がった。
それは海を超えて蓬莱国まで伝わり、強い邪気に大秦国を案じた天皇は、稀代の陰陽術師である弟に頼み、大鷲の式神を使って大秦国皇宮へ危険を知らせた。
大秦国皇帝から救援を求む返事を受け取った蓬莱国天皇は、自身に宿る強大な護国の陣を大秦国まで広げ、一時的に災禍を封じた。
天皇は原因究明のために十人の陰陽術師を大秦国へ派遣し、国中を捜索させ、一月後、それが氷妃河の不凍航路にあることを突き止めた。
すでに正気に戻っていた雪宗主は、陰陽術師達を中へと案内し、娘が破壊した鏡を見せた。
鏡が嵌め込まれていた部分も柄も全て珊瑚で出来ており、人間の血で磨き上げられた痕跡があった。
「銅鏡部分がこの器に戻りたがっているようですね。封印するほかありません。砕け散っていった四つの破片は、この器が封印されている限り悪さをする事はないでしょう」と、氷妃河の裏山にある、夏でも雪深い場所へ祠を建て、封印することとなった。
このことは歴代の雪宗主と大秦国皇帝にしか伝わることのない秘密。
「それが十年前、どこでそのことを知ったのか、法霊武門の者が封印を解き、鏡の器を持ち去ってしまいました」
「そ、そんな……」
雪宗主は胸に手を当て、倒れそうになる自分を支えるために深呼吸を繰り返した。
「裏山には何重にも結界がかかっており、祠を開けるには手の甲にこの氷花紋が刻まれていないと……」
「その結界は星家の祖先がかけたもの。だから父は結界が破られたことを察知し、天皇陛下へと進言したのです。大秦国に危機が迫っていることと、結界を破るには別の方法があることを」
杏花は巻物の最後の部分を広げた。
「盗まれた神器は鏡を除いて残りは二つ。蝶舞の簪と、琰櫻の指輪です。同じ人物の生体組織で汚された神器は呼応し、互いを求めます。つまり……」
「蝶舞の簪か琰櫻の指輪を持った者なら、結界を突破し、祠を開けることも出来る……、ということか。……ん? 今、同じ人物の生体組織で、と……」
「そうです。盗まれた神器は全て、一人の人間を素材として呪物に作り変えられているのです」
「人間を……、素材に……」
琅雲と青鸞は言葉を失い、杏花が広げた巻物を見つめた。
「法霊武門間で起きた事案は法霊武林内で解決すべし、というのが両陛下のお考えです。しかし、過去の事例を見る限り、そうは言っていられません」
杏花は深呼吸し、二人を見つめた。
「無礼なことと承知の上で申し上げます。もし、現存する三つの神器が揃い、その強大な呪力を使って法霊武門が結託し、大秦国全てをその手中に収めようと皇宮へ攻め入れば、蓬莱国天皇陛下は兄弟分である大秦国皇帝陛下の救援のため、大軍を率いて法霊武林そのものを亡きものとするでしょう」
琅雲と青鸞は息を飲み、杏花を見た。
「これは決して大袈裟ではありません。だからこそ、皇帝陛下がその善良さを信じている氷妃河雪氏と綺雨霖氏の宗主お二人にだけ、今、話しているのです」
「では、十年前に越してきたのは……」
「そうです。両陛下の弟分である我が父、蓬莱国星辰王は、この天下に存在する陰陽術師の中で最も優れた術師であり、医術の腕も最高峰。そして我が母は医仙の娘であり、本人も桃薬天女という称号を持つ至高の薬術師です。両陛下と父の実兄である明星王殿下による協議の結果、『法霊武林を監視し、事案の解決方法次第では援護し、それが不可能なら一掃せよ』と命を受け、派遣されてまいりました」
「一掃……。ご家族にそこまでの力があるのだな」
「父の命令で動く陰陽術師の兵が蓬莱国星辰王府に十万、都にある星王府には一万。そして明星王殿下の兵も同じ数おります……。けほっ、けほっ、うっ」
ここまで一気に話してきた杏花はその精神的負担から咳が止まらなくなり、気付いたら血が混じり始めていた。
「杏花!」
琅雲が背をさすり、青鸞が冷やした水を渡してくれるも、咳が止まらず飲むことができない。
杏花の目に涙が滲み、それは嗚咽に変わり、口から血が出たまま泣き出した。
「ごめんなさい……。ずっと騙してきて……。子供の頃はわからなかった。でも、両親と兄はずっと知っていて、苦しんできました。私は今回の雅学への参加……、いえ、潜入ですよね。それが決まる少し前に教えられました。まだ弟は知りません。どうか、弟だけは何も知らないまま育ってほしい。だから、私を恨んでください。この話を聞かされ、そして任務を打診され、受けると決めたのは私です。だから」
「謝らなくてはならないのは我々法霊武林の方だ」
「そうですよ、杏花」
青鸞はとても悲しそうな、そして優しい表情で杏花を見つめ、水の入った杯を渡した。
「だって、杏花は護りに来てくれたのでしょう? 二つの国と、私たち法霊武門を。まだ神器の力が使われた形跡は無い。だからこそ、少しでも早く行動すれば間に合うと信じて」
杏花は口に残る血を拭い、顔を上げた。
「そうでなければ、これまでの話をこんなにも悲しい顔をして話すはずがない。我々に、自分たちの力で解決して欲しいと願うから、涙が溢れてしまったのだろう」
琅雲は杏花の背をゆっくりとさすり続け、「杏花の泣き顔を見たら、瑞雲がひどく心配してしまう」と微笑んだ。
「でも、こうなったら青鸞兄さんと私は責任重大だ」
「そうですね。信用に足る者かどうか、各武門の宗主を改めて見定めなければなりませんから」
「忙しくなるでしょう。弟たちが雅学に参加している間に事を進めないと」
「頑張らないとですね。可愛い杏花をこれ以上泣かせたくないですもの」
二人の温かな笑顔のおかげで、杏花はようやく泣き止んだ。
「その通りです。あ、そうそう。杏花の病状について、私から青鸞兄さんに話しておかなければならないことがあります」
琅雲に「お父君からの書簡をもらってもいいかな」と言われ、杏花は鞄の中から取り出した白い巻物を渡した。
「それは聞いておかないと。すでに、その……、お身体が弱いのかな? という心配をしています」
「それには少々複雑な理由がありまして……」
琅雲に「私が説明しておくから安心して休んでおいで。血が滲んでいる服を着替えないと、瑞雲が卒倒するかもしれないから」と、宿舎で休むよう促されたので、杏花は紅梅に陣を解かせ、青鸞達に見送られながら部屋をあとにした。
「杏花様、お薬を飲まれませんと」
「白梅、このくらい日常茶飯事だから大丈夫だよ。いつも通りちょっと休めば……、あ」
廊下を少し歩いたところにある中庭に、瑞雲が立っており、目が合った。
「杏花、待っ……」
瑞雲は言い終わる前に杏花に近付き、服や手、口元に残る血の痕を凝視した。
「何があった」
「ちょ、ちょっと体調を崩しただけ」
「体調を崩したくらいで、人は血を吐きはしない」
至極真っ当なことを言われ、杏花はたじろいだ。
「わ、私が虚弱体質なのは知っているでしょう?」
「白梅、薬は?」
瑞雲は杏花の後ろに控えている白梅に懇願するような目を向けた。
子供の頃、まだ家の事情を知らなかった杏花は、梅園のことを瑞雲に見せたことがあり、彼だけはずっとその存在を知っていたのだ。
「杏花様が服用したがらないのです」
白梅は雨に濡れた子犬のような悲しい目で主の健康への無頓着さを訴えた。
「杏花」
瑞雲は杏花の手を取り、拭いきれていない血を自身の指でそっと拭いた。
「……わかった、わかったよ。薬飲むから、みんなしてそんな顔しないで」
気付けば紅梅と青梅も子犬のような瞳で杏花を見つめ、元気をなくしている。
杏花は白梅から薬を受け取り、口の中で噛み砕いて飲み込んだ。
両親が持たせてくれている薬は全て水がなくとも服用できるように、噛み砕ける丸薬になっている。
丸薬の中心には濃縮された薬効成分が液状になって入っており、とても不味い。
服用しやすいよう最大限工夫してくれているのだが、生薬の味を緩和するために加えられている何かの甘さが後を引き、とても積極的に飲みたいと思うようなものではない。
「瑞雲様のおかげで杏花様に薬を飲んでいただくことができました。あとは常用薬だけですね」
瑞雲の目が杏花から白梅へと移った。
「常用している薬があるのか」
「梅園、戻りなさい」
白梅、紅梅、青梅の三人は杏花の右腕上部にある杏花紋へと強制的に戻された。
白梅が薬の説明をし始めたら、きっと瑞雲は杏花が散歩をすることすら心配し出すだろう。
「大丈夫、大丈夫だから。ほら、えっと、そう、私着替えてくるね」
瑞雲の手からそっと自分の手を外し、杏花は近くを歩いていた侍女を呼び止め、用意されている宿舎へと向かった。
瑞雲は手に残る微かな生薬と血の匂いに胸を締めつけられながら、歩いていく杏花の背を、見えなくなるまでずっと見つめ続けた。