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部屋の扉をノックして入ると、警備相手のヘラは籐の大きな椅子に腰掛けて足と手を組んで、窓際でぼうっと外を見ていた。
だいたいそうだった。自分が来る頃には、そんな風に気の抜けた表情で、外を見ていることが多かった。
そしてようやく、テルミンが入ってきたことに気付くと、その大きな目を半分くらい伏せたまま、ゆっくりとヘラは彼の方を向く。そしてやっと、テルミンは言うべき言葉を口にする。
「遅くなってすみません」
「ホント、遅かったな。まあいいや」
それでまた、しばらくぼうっとヘラは外を見る。
あの派遣員と同じように、この警備する相手とも出会ってもうある程度の時間が経っていた。
だが派遣員と違い、ヘラとのつき合いは決して深まることはなかった。あくまで仕事上の警備する相手、だった。それだけの時間が経っているのに、彼はヘラの考えていることもさっぱり判らなかった。
派遣員の考えてることが判らないのは、向こうが隠しているからだろう、ということで何となく納得が行く。またそれは当然だろう、と彼は思う。
だがヘラの場合、それとは何か違うものに思えて仕方が無い。
そもそも、一日中ぼうっと外を見ていても平気そうな人間と、そうそう気持ちが通じ合うとは彼も思ってはいなかったが。
「テルミン」
「はい?」
まだ少し乱れたままの部屋の中身をあちこち直しながら、テルミンは顔だけ警備相手の方を向いた。
「……今日はもういい、帰れよ」
「え? でもまだ勤務時間内……」
「いいから」
かすれた声。彼は不思議に思いながら、それでも言われるままに、部屋を下がることにする。
扉を開ける時、ちら、と振り向くと、ヘラはまた窓の方を眺めていた。何となく表情を見てみたい、とテルミンは思ったが、無論それはかなうことではなかった。
扉を開けると、廊下の向こう側に、先程通り過ぎた知り合いが、腕組みをしながら壁に持たれていた。彼はまた、軽く頭を下げ、通り過ぎようとした。
だがそれはできなかった。
「何か用ですか?」
テルミンは振り向き、自分の肩を掴むスノウに向かって訊ねた。何て力だ、と彼は思う。ほんの軽く掴んでいる様に思えるのに、身動き一つとれない。
「ずいぶん早いじゃないかい?」
テルミンは目線を少し上げて相手を見る。
「ええまあ。今日はもう帰っていい、と言われましたから」
「ふうん」
スノウは口元を軽く上げる。そして小さくつぶやく。
「やっぱりね」
え、とテルミンは思わず目を大きく開く。
「それって、どういう意味ですか?」
「いや、失言。ちょっと口がすべっただけだけど?」
「そんなことはないでしょう」
彼は思わず反論していた。何故そんな言葉が自分の中から出たのかは判らない。すると再びスノウはひどく楽しそうに口元を上げる。
「気になるのかい? テルミン君」
「それはそうでしょう。警備する相手のことですから」
「それは、そうだね」
「それより、離して下さい。別に自分の仕事は、これで終わりという訳ではないのですから」
「それもそうだね。ところで聞きたくないかい? テルミン君」
「え」
「何で今日、彼が大人しいのか」
「失言じゃなかったんですか」
「失言だね。君がそのまま行ってしまうんなら」
テルミンは思わず顔をしかめる。
「自分は、からかわれるのは好きじゃないんです」
「別に、からかってはいないよ。ただ私は、君が知りたいだろうことを教えてあげよう、と思ってるんだけど?」
「だったらさっさとそうして下さい。この手を離して」
テルミンは空いた手で、彼の手を掴む。何を自分はこんなに必死になっているのだろう、と思う。
だが、その手は離される気配は無い。
「……離して下さい」
「今日が何日か、君は知っている?」
何をいきなり。
「4月…… 23日ですが……」
「そうだね。今日は4月23日だ。だから、君のご主人はご機嫌が斜めなんだよ」
「答えになってません!」
テルミンは思い切り肩をゆすり、手を払った。そして思わず駆けだしていた。
迷路の様なこの官邸でそうするのは、危険だ。何処をどう曲がり間違えるか判らない。
だがその時彼は、そうせずにはいられなかった。
廊下の突き当たりまで走ったところで、彼は一度立ち止まり、今まで掴まれていた肩に触れる。何って力だったんだ。
まだ、掴まれた感覚が残っていた。痛いくらいの。
*
『今日が何の日かって?』
端末の向こう側で、一つ年上の友人はそう繰り返した。
『……何っかあったかなあ……』
気が抜けそうな軽い声に、彼は思わず苦笑する。何となく、話をしたくなった。
この友人は、自分の職場の問題とはあまり関係が無いから。だが食事に誘うと、今日は忙しいから、と断られた。どんな忙しさかは説明しないが、技術研究所は度々そんなことがあるので、テルミンも無理強いはしなかった。
だが、どうしてもこのことだけは聞いてもらいたかったのだ。
『何、なんか気になるの?』
「ああ。だから別に、何の日、でなくても、去年や一昨年のその時に、俺達が何をしていたかでもいいけど」
『ああ、そうすれば何か思い出せるかもしれんしなあ』
そして数秒の間の後に、ああ! とケンネルは声を上げた。
『お前確か、一昨年のその日、広場の整理をしないといけないってんで落ち込んでたじゃん』
広場の整理!
彼の頭の中で、弾けるものがあった。
「そう言えば、そうだった」
『だろ? お前あのクーデター未遂犯の処刑現場の整理をしないといけないって、俺が行かない立場でいいなあってぼやいてたじゃないの』
そう言えば、そういうこともあった様な気がする。ありがとう、今度食事おごるから、と言って彼は通信を切った。
4月23日には、クーデター未遂犯の公開処刑があった。それは確かに事実だ。自分も言われてみれば思い出せる物事がたくさんある。
だからと言って、それが直接彼の警護相手の不機嫌とつながるとは、彼には思いにくかった。
だが、スノウがそこで嘘をつくとは思いにくかった。嘘をつくなら、こんな手の込んだ方法を取らないだろう。あの派遣員は、自分に考えさせたいのだ、と彼は思う。
実際、スノウという人物は、他愛の無い会話の中で、彼を試すようなことがよくある。今回も、そんな他愛の無いことの一つなのだろうか。彼は目を伏せる。そしてそうであって欲しい、と願った。