まだ生活感のないリビングに、ビスカーチャが取り皿を並べる。
彼が選んでくれたらしい窓辺の花瓶には、同じく彼が選んで買ってきてくれた黄色の花が生けられ、柔らかな午後の日差しに照らされていた。思いの他にセンスが良いビスカーチャを、コンスゥは素晴らしい素晴らしいと言って誉めそやす。彼の父であるハリスレイヨウの残念なセンスを受け継いでいたらどうしようと、コンスゥは勝手ながらに思っていたのだ。だが杞憂に終わってくれた上に、ビスカーチャは年頃の野郎にしては珍しく柔らかで優しいセンスをしていた。
ビスカーチャの祖父が遺した古民家に生活の賑わいが戻ってくる。
古民家の空気は祖父が亡くなって以降、長く停滞したままであった。だがコンスゥが新しく家主となり床に落書きを施して、そこに気の巡る黄色の花が揃ったなら、縁起は上々に素晴らしいのである。赤でも青でも、花ではなかったとしてもコンスゥは変わらずに喜んでビスカーチャを誉めそやしただろう。だが特に黄色は良いのだ。
贈り物。
コンスゥは贈り物に込められた感情が好きだ。人が人を喜ばせたいと思う、元気付けたいと思う、そんな感情が好きだった。ただただ単純に、人が人に何か贈り物をする光景や想いがあるだけで素晴らしい。人の数だけ贈り物があり物語が付き添っていて、時に人生に大きな影響を与える。送る側にとってはただ相手が喜ぶ顔を見たくて選んだ〈だけ〉だとしても、もしかしたら相手にとっては贈り物の形を借りた〈ふいの出会い〉であり、その後の人生を大きく変えるきっかけにもなり得るのだ。別にきっかけにならなくてもいい。贈り、贈られ、笑顔になったならそれ以上の意味を探す必要などない。贈り物の金額も、価値も、希少性もコンスゥはさして重要なことではないと考えている。
しかし遺された古民家ついてはなかなかに複雑な感情を抱いた。
郷愁と後悔だ。
そして安寧を願う。
ビスカーチャが戻ってくる間、コンスゥは家の中をゆっくりと見て回っていた。
きっと大掃除をしてくれたのだろう。
古民家内はきれいさっぱり片付けられていて、錆びた蝶番や軋んだ床板は綺麗に直されていた。窓もピカピカに磨いてあったし、庭の手入れまでされていて、その上に家具と日用品が揃えられている。だがそこまでしても前の主人である〈祖父〉の生活跡は残るもの。祖父がかつての知り合いであれば余計に、コンスゥは懐かしくて寂しくて仕方がなかった。ままならなかった晩年の状況も知っているし、多くの時間をこの古民家で共に過ごしたのだから思い出もそれだけ詰まっている。室内で過ごしている時の癖もいまだ鮮明に思い出せるし、目を閉じればまだそこにいる気がして、気を抜けば呼びかけてしまいそうだ。それでも現実の主張ははっきりと強く、祖父はもういないのだと感じられるこの家の素っ気なさにはついつい…ため息交じりの悲しい微笑みが床に落ちてしまった。
言うべき相手のいない『ただいま』の言葉が、言葉にならず溶けていく。
コンスゥはビスカーチャの祖父、パカラナを知っている。
知り合ったのはパカラナの晩年。人生の終わりがそれなりに濃く見えている時だった。妻に先立たれたパカラナはこの古民家でぽつんと一人で暮らしていたのだ。複雑な事情でもあったのだろう、我が子であるハリスレイヨウは義実家に引き取られて、一目会うことも叶わなかった。仕方がないんだ…と夕焼けに染まるベランダで話してくれたことを、その時の表情までもをコンスゥははっきりと覚えている。
コンスゥはパカラナの死に目には会えなかった。
ハリスレイヨウは実の父であるパカラナのことを義実家から教えてもらえず、祖父がいることすら知らなかったらしい。いや祖父と言う存在自体は知ってはいたが、義実家がパカラナを死んだものとして扱っていたせいで、全て知った時には遅かったのだ。ハリスレイヨウが古民家に駆けつけた時にはもう通夜も葬儀もとっくに終わった後であり、先立った妻とは別の墓地、大衆墓地の隅に眠っていた。位置的におそらくは一番安いところである。妻は宗家や名家の並ぶ一等墓地に眠り、溢れんばかりの花に囲まれていた。この待遇の差についても生前のパカラナは、仕方がないんだと言うばかり。仕方がないと言われてしまってはコンスゥとて手の貸しようもなく、どうしようかと考えている間に…墓石を撫でるはめになってしまった。冷遇などとの言葉では片付けられない扱いだけに留まらず、肉親の訃報さえ教えてくれなかった義実家に対して、ハリスレイヨウがどれほど怒り狂ったかは言うまでもない。その後、大衆墓地でコンスゥと出会ったハリスレイヨウは義実家を飛び出し、リビヒから離れ、しばらくして戻って来てからも義実家のある区画には近寄らなかった。
三度ほど、義実家からハリスレイヨウに手紙が届いたことがある。
コンスゥはこれを読んだがハリスレイヨウは読まずに暖炉に投げ入れた。そうして怒りが収まらないまま数年、シュチロの大獣がリビヒを襲い、ハリスレイヨウから恨み辛みを向けられまくった義実家は瓦礫へと還ったのだ。
瓦礫となった義実家もまた、コンスゥは目にしている。
目にしているが正直そこまで気にしてはいなかった。シュチロの大獣を相手取っていたのだから、周りを気にする余裕なんてなかったのである。そもあれが義実家だったと気付いたのは大獣が鈍ってきた時で、攻防も終盤。瓦礫の山はあちこちにあって、人や家畜の肉片も落ちていた。それでもなおコンスゥは戦ったのだ。だからこそリビヒは今も人間領の最北にある。
それはともかくとして。
ビスカーチャが戻ってくる間、コンスゥは家の中をゆっくりと見て回っていた。宝飾輝く手が壁を撫で、さらりと触れたまま歩んでいく。模様替えされた家具の全てが一撫でで元の位置に戻り、しかし手を離せばふとまた戻った。
廊下にはパカラナの歩いた跡が。
電気を消すその動きが。
窓を開け、片腕を窓辺に置く姿が。
一人でひっそりと寝る、ベッドの軋みが。
発作を起こして転び、倒れて、もがいた最期の爪跡が。
コンスゥの目には鮮明に見えている。
だからコンスゥはハリスレイヨウと一緒にいようと思ったのだ。
もう二度と独りにしてしまわないように、と。
しかし長く一緒にいるからこそ、ハリスの独特なセンスを思い知った。
そもそもコンスゥは正直、ハリスが嫁を取るなんてありえないだろうと思っていた。だからもしハリスが独りで最期を迎えるようなことがあったら、何が何でも側にいてやろうと決めている。しかしコンスゥをよそに、ハリスは可愛らしい小柄な女性と運命的に出会い、お付き合いを始め、仲睦まじい幸せな家庭を手に入れた。ハリスレイヨウの独特なセンスこそ直らなかったが、そのセンスを見ている奥方が幸せそうに笑っていて、ビスカーチャがそのセンスを受け継がなかったなら、まぁもうそれでいい。
そんなわけで素晴らしい素晴らしいと褒めそやしていたが、残念ながらコンスゥは食いしん坊であった。だから次第にその目は料理へと向けられる。あれもこれもと買ってきてくれた料理は随分と多く、コンスゥがリクエストした魚と団子も勿論買ってきてくれていた。揚げた川魚に香草とレモンを添えたリビヒの家庭料理に、隣国の料理らしい団子は肉の餡を包み、他にも炒め野菜に辛そうなスープ、蜜のかかったフルーツ、揚げパンにチーズなど食べ放題だ。
「なぁコンスゥ殿。こう言うのも悪いけど、そのフード取っていいのか?顔見られたくないとか、何か理由があるのかと思ってたんだけど。」
「ん?んや別に何もない。」
コンスゥはフードを脱いでいた。
小さな銀の玉飾りが縫い付けられたバブーシュカで髪をまとめ、頭の後ろでリボンのように結び目が作られている。フードと同じ色味の布地が複数枚重ねられている風変わりなバブーシュカからは、ふわふわとした昭和三色の髪が零れていた。ほとんどは黒髪なものの所々に白と橙が混ざり、やはり随分と派手な見た目だ。瞳は彩度を落とした金雲色で、目が合うと人懐っこくウインクしてくれる。
おだてれば決めポーズの一つ二つしてくれそうだが、そんなフリをするビスカーチャではない。
「これは神宮の正装に近い。だが街中でフードを目深に被っていたら不審者だろう?TPOくらい私とて承知しているともさ。」
ひょいとコンスゥが春巻きを口に放り込む。
モグモグと食べながらも手は葉野菜を取って肉を巻き、それも口の中に消えていく。端から順番にずっと食べているが、まだまだ食べそうだ。その体のどこに吸い込まれるのか不思議に思いながらも、ビスカーチャは自分の分を取って椅子に座る。座る間に目の前のホイル焼きが攫われ、サラダも一盛り掬われた。
「見た目に騙されるなよビス。コイツはそこらの男より脳筋だ。」
酒を傾けていたガタイのいい男が、呆れたと言わんばかりにため息をつく。
よく焼けた肌に古傷が一つ、片腕には見事な刺青が走っている。ガテン系かその筋の人と怖がられても仕方がないこの男は、リビヒの復興を推し進めた〈親方〉のハリスレイヨウだ。そして間違いなく、似ていないと言われようとも彼はビスカーチャの父でもあった。養子縁組でも何でもない、正真正銘の父と息子は今やリビヒの実質的な統治者である。実務こそ最近になってビスカーチャが引き継いだが、最終的な決定権はいまだにハリスレイヨウに遺されており、争うことも衝突もなく親子二人三脚でリビヒのために尽くしている。
コイツ、と指をさされたコンスゥは揚げ魚に齧り付き、特に反論はないのだろう尾をゆらゆらと揺らしている。魚の骨はどこへやら、見ている間に齧り付くされて頭だけが皿に戻された。
「父さんちょっと失礼なんじゃ…。」
「よく聞け息子よ。いいか?俺が若い頃、子午線川にシュチロの獣が居着いたことがあってな。家が余裕で建てられるほど高額の討伐依頼が、よりにもよって中央図書館から出された。大勢がその報酬額に飛び付いたし、箔が付くってんで競うように挑んださ。素人から玄人まで、狩猟や討伐をかじったことのある奴は全員飛びついたっつってもいい。」
「それ壬子大池ができた話?リビヒが今の形になるきっかけの。」
「そうだ。リビヒがシュチロの対する防壁となる、そのきっかけだ。俺も報酬額に飛び付いたその一人で、コイツを連れて向かったんだよ。前衛がコイツで俺は弓。いつもそうだった。」
「ん、あれか。覚えがあるぞ。大金を夢見た大勢が負けた。狩猟者人生に幕を引いた者もいる。お前も苦労してたよな。なぁハリス。」
「誰のせいで…って、黙って食ってろコンスゥ。お前がフルスイングしなければもっと楽にできたんだ。」
「ははは。」
フリフリと振れる尾先はご機嫌だ。
手はサンドイッチに伸ばされている。差し込む日差しに宝飾が輝き、昭和三色の尾に通されたべっこうの輪の艶が一際に際立った。あれ一つが札束何個に変わるのかを考えると…この古民家の防犯面をもう少し強化した方がいいかもしれない。
「今の基準で言うなら、あれはミズチの称を付けられる獣だろうな。大勢がそりゃあもうボロ負けして、負傷者が数えきれないくらい出た。川辺の砂地もぬかるんで、生薬にされていた浜大根の密集地も葦の群生もぐちゃぐちゃになっていたし、清流をあそこまで濁らせるのはこれっきりにしてもらいたいと思ったもんだぞ。」
「ハリスは高台に居ただろ。私は足元びちゃびちゃにしながら沼に下りたってのに、お前は下りてこなかったじゃないか。」
「避難してたんだよあれは。裾まくって臆せず下りて、その大鉈抜いての殴り合い。怪我でもさせちまってたなら悪いと思うが、泥遊びみたいに殴り合っておいて何言ってんだって話だろ。巻き込まれたらたまらねぇよ。フルスイングでミズチの頭引っぱたいて、そのまま勝った奴に同情も何もない。」
「ないか。そうか。だが役に立っただろう?」
「それはそうだがな、限度ってもんがあると思わねぇかね?」
酒瓶がまた一本開けられる。
サンドイッチが飲み込まれる。
ビスカーチャは自分の分を取って食べながら二人の話を聞いていた。
壬子大池とは、リビヒの農業地区にあるため池のことだ。
周辺農地に水を送るとても大切な水源である。ため池ができた過程については、リビヒの住人なら誰しもが知る話であり、必然的に超高額の討伐依頼についても皆知っている。だが思えば、誰がどうやってミズチを倒したのか詳細は語られてはいなかった。めでたしめでたしで締めくくられてしまって、それが当たり前に語られていて、誰も疑問に思わず昔話として次の世代に語っている。しいて言うならば〈リビヒ総出で退治した〉だ。
ましてや討伐者のコンスゥはこれだ。
出会ってまだ日の浅いビスカーチャにでも分かる。コンスゥは武勇伝を語る性格でも、過去を誇る質でもない。勝った!わはは、やった!でハリスレイヨウの回りを飛び跳ねて喜び、それで終わらせる。きっと討伐報酬を受け取りに行ったのはハリスレイヨウだろうし、受け取り手続きやら管理やら全てハリスレイヨウが行っていて、本人は討伐祝いのご馳走を頬張っていただけだ。おおかた、おそらく、高確率で、ほぼ確実にそうである。
「思えば、ハリスは活躍してないな。」
「わかってらぁそんなことは!だーから俺は報酬全額お前に譲ったろ!その全額をリビヒに突っ込んでくれた点は感謝しているが…まったく…いいかビス、とにかくな、コイツはミズチと殴り合って、沼地を集めてため池にした。そう言うやつなんだ。世間にはあまり大っぴらにできない脳筋なんだ。頼りにする分、面倒もよくよく見ておけよ。」
「いやそもそも沼地を集めてって、それどう言う意味なのか俺ちょっと分かんないんだけど。」
「ミズチを贄に大地創造だ。中央図書館にも存在しない奇術を、聞きかじったとか言って実演したんだ。沼地のままでは船渡しの仕事がぱぁになるし、農家も可哀想だってんで心配しての後片付けだがな。普通なら一人で神事はなされねぇ。」
やらかしかけたら絶対に止めろよ?
そう言うハリスの声は本気で、ビスカーチャは忠告を肝に銘じ、コンスゥは既に話を聞いていなかった。人の話も聞かずにコイツは机の下を覗いているなぁ…と思っていたハリスも覗いてみれば、いつの間にどこから入ってきたのか、足取りもおぼつかない子犬がウロウロ歩き回っていた。コンスゥは子犬を撫でまわし、鶏肉を一切れ与えている。
「やたらに餌付けするなコンスゥ。おいビス、なんか箱持ってきてくれ。」
「あーあー犬っころ、お前どこから来た。首輪もしないで迷子か?ほーら逃げないとハリスに捕まるぞ。首根っこ摘ままれてプラプラだ。」
「コンスゥ、子犬におかしなことを教えるな。俺は名の知れた犬好きだ。」
「知ってる知ってる。だからこそ扱いが親犬のそれよな。」
コロコロもちもちと転がされる子犬は、遊んでもらえて嬉しそうだ。
短いしっぽを振り回し、ひっくり返ったまま足をパタパタ動かしている。笑っているように見える顔はぬいぐるみにそっくりで、片耳がぺたりと垂れているのもまた可愛い。捨て犬にしては毛皮がきれいなので、やはり迷子か何かだろう。
「飼っていいか?ハリスは飼ったことあるんだろ?私も飼いたい。」
「皿とか首輪とかは譲ってやってもいいが、お前がきちんと世話するのが条件だ。俺は教えるだけだからな。お前の連れていた夜鷹とは違って、犬は世話しないといけないし、病気にもなる。老いていくし、いつかは死ぬ。」
「あれは夜鷹じゃなくて鳳な。まぁさして変わらんが、世話が必要なのは分かっているとも。よし、犬っころ、親方の許可が出たからここに住め。お前についてるその遺恨、風呂でさっぱり流してやろうな。名前は何にしようなぁ。」
「遺恨…コンスゥ殿、その子犬を見せてもらっても?」
ん?と子犬を手にコンスゥが立ち上がる。
すると子犬が急激に巨大化し、天井に頭がぶつかった。ハリスはあちゃー…と額を押さえ、コンスゥは感心したように腰に手を当てて見上げている。犬の見た目は随分と恐ろしいものに変わってしまっていたが、中身は子犬のままなのだろうか。敵意も悪意も感じられず、まだ遊び足りないとばかりに尻尾が振り回されていた。
「最近、このような事件が多発していて…狗側に悪意はないんだけれど、大型化による物損被害が報告され続けているそうだ。コンスゥ殿、まだよく分かっていない子犬だから飼わない方がいいと思う。愉快犯なのか、何か理由があるのかも分かっていないんだよ。子犬の大きさに戻す方法は開発されているから、一旦小さく戻して研究所に…刺激しないように慎重に…ってちょっとコンスゥ殿!危ないって!」
しかし、コンスゥは犬に手を伸ばす。
犬は鼻面をその手に押し当て、撫でてくれと言わんばかりに頭を下げた。
「…これ、狗神もどきか?」