2020年、感染拡大前夜 16

 いつもの時間よりも少し早めに家を出て、まず薬局に向かった。マスクを買うためだ。私たちの家には花粉症対策のために余分に買ってあったので気付かなかったが、家にあるマスクは店頭になく、全体的に種類も数も少なかった。

「今、マスクはこれだけですか?」

 私は思わず薬局の人に尋ねた。

「済みません。最近、なかなか入荷しないんですよ。今はマスクだけでなく、手指の消毒のためのアルコールを使った商品も品薄状態なんです」

 最近薬局を訪れていなかったため、衛生関係の商品がこんな状況になっていたことには気づかなかった。もともと衛生観念が発達している日本人だから、テレビの報道などで神経質になっているのだろう。私たちの場合、もともと衛生問題については注意しており、仕事の際には頻繁に石鹸で手を洗う習慣がある。それは食中毒対策を意識しているためで、スタッフも含めて全員で心掛けている。

 しかし、ここで私はある考えが頭を過ぎった。もしこの問題が大きくなった場合、客にもアルコール消毒をお願いすることになるかもしれないので、今、買えるだけ買っておこうと思った。マスクについてはスタッフ用として使うと考えても、ある程度の期間は家のストックで何とかなる。でも、念のためマスクを買い足し、アルコール消毒液も買えるだけ買うことにした。

 そう思った時、私は美津子に電話をかけることにした。

「もしもし、俺だけど、今どこ?」

「これから薬局に行こうと思っているところだけど、何?」

 私は今、薬局で聞いた話を美津子に伝えた。

「分かった。私も買っておくわ。そんなことなら、スタッフの人にも話して協力してもらおうよ。お客様のこともあるし、衛生管理の意識は飲食店の基本だからね。ただ、他の人も必要でしょうから、その辺はちゃんと考えましょうね」

 他の人のことまで気を配るところがサービス業には大切なので、私も美津子もこういうところはきちんと意識している。この時点ではコロナ問題について、日本の医療水準を信頼しており、その内に収束するだろうと踏んでいたのだ。