なるべく移動に時間をかけたくない、という考えから、私たちの家からあまり離れていないところに店がある。
さすがに店同士は1駅おいたところにあるのが、それでも街の様子が異なるため、客層は異なる。
私の店は乗降客が多い駅のそばにあり、その分競争も厳しい。他店も同様にいろいろ努力・工夫しているし、そういう話は客の何気ない会話の中からも耳にしていた。
しかし、考えようによってはそれが私たちの心を掻き立て、更なる工夫のベースになっていると思っている。勝手に良いライバルと考え、自分たちの中では良い意味の競争相手と思い、ますます頑張る自分たちの姿を見ていた。
私が店に着くとチーフとして店を動かしている矢島が開店のための準備をしていた。
「おはよう」
私は矢島に声をかけた。
「おはようございます、店長」
矢島もいつものように返事した。だが、いつもの比べると今一つ顔色が冴えない。何となく気になった私は矢島に尋ねた。
「どうした? 体調でも悪いのか? 今、変な感染症が流行っているからな。大丈夫か?」
私は矢島の顔をじっと眺めながら言った。内心、少しはそれも心配した。私たちの仕事は接客業で、毎日たくさんの客と会話し、オーダーや挨拶も大声でする。呼吸器系の感染症では心配される環境だ。
「いいえ、そうじゃないんです。その感染症のニュースを聞いていたら変に気になっちゃって・・・。ダイヤモンドプリンセス号のニュースですよ。俺、小さい頃、肺炎で死にそうな目に合ったことがあるんで、それを思い出したんです」
矢島は昔患った病気のことを思い出していたのだった。原因は違っても同じような呼吸器の病気ということでその時の思いが蘇っていたのだろう。
新型コロナウイルスは中国の武漢で感染者が増え、1月末くらいで感染者が6000人ほどになっていた。国内ではまだ1桁の数字しか確認されていないが、相手は伝染病だ。今後どうなるかは分からない。海外でもちらほら感染者が確認されているらしい。今はネット時代だから、関心があれば自分でも数字を確認できる。矢島は若いので、PCやスマホなどでニュースを見、関心を持つことで感染の推移をチェックしていたのかもしれない。それが自分の昔の経験と重なり、気持ちが沈んでいたのだった。
でも、今は開店前の準備中だ。威勢の良さは居酒屋の特徴であり、暗い感じでは務まらない。
「矢島、心配いらないよ。日本の医療はしっかりしている。この感染症もすぐに収まるよ。ちょっと前に話題になったSARSもMARSも日本にはほとんど影響なかったろう。大丈夫だよ。さっ、仕事、仕事。」
私は矢島の沈んだ気持ちを少しでも明るくしようと、根拠はなかったが言い切った。