カチャリ──。
その音を聞き逃さなかったのは偶然だ。
俺は外出の準備にとりかかり、イリーナは待機していた。
会話がとぎれて室内は一時的にかぎりなく無音に、静寂のなかでなければ聞き逃していただろうかすかな施錠音。
俺とイリーナは「音を立てるな」と視線をおくりあう、外から鍵をかけられた現状をうなずきあって確認する。
外からは鍵をもちいて開閉、室内からは手動で開閉できる仕組みであるのが一般的な扉だ。
この部屋の扉には室内から開ける取っ手が付いていない。
考えられる理由は二つ。
この扉が欠陥品であるか、もともと閉じ込めるためのいわゆる牢部屋であるかだ。
牢というほどの厳重さは感じないことから、倉庫だった部屋を当てがわれたってところか。
施錠した人物もまた完璧に気配を消している、尋常な身のこなしではない。
イリーナがたずねて来なければ、俺は眠りに落ちていて異変に気付きもしなかっただろう。
──この状況、閉じ込められたと考えるべきだ。
俺を閉じこめたのか、二人を閉じこめたのかは分からない。
竜神はイーリスに対して「都を出ていけ」と指示し、俺は倉庫に閉じ込められた。
竜は巫女の身を案じて危険を伝えていたのではないか──。
異国人に雇われ護衛部隊を襲った傭兵たち、俺の力を試したと言ったマウ人の特殊部隊、べつの勢力だというやつらの正体は不明のまま。
イリーナかイーリスか、はたまた俺か、標的も不明のままだ。
足音を殺すその慎重さから施錠が親切からの行動ではないことを確信できる。
気づけばいつの間にか階下の騒ぎがすっかりおさまっている。
完全な静寂だ、あれだけの人数の宴会がすみやかに撤収したってのか。
まるでなにかの作戦みたいに。
イリーナはこちらに向かってシンプルなジェスチャーで指示をよこす。
扉をぶっ壊して外の不審者を確認しろ──。
乱暴だがてっとりばやい、俺はそれに従って扉を一発で蹴やぶった。
まだ肉体の覚醒がはんぱなせいで普段よりかは力を要したが、留め具がはじけ飛び問題なく扉は粉砕した。
不審者を逃がすまいと俺は廊下に飛び出して人影を確認する。
そこは一本道、直線上にいる人物が『敵』だ。
吹き飛んだ扉にあっけに取られたのか、ソイツは少しはなれた部屋のドアノブに手をかけたまま硬直していた。
イーリスが眠っているはずだった部屋の前にいたのは――。
限られた光源のなかに浮かびあがる人影はぼんやりとして不鮮明だが、特徴的な口調で特定は容易だ。
「あ、あらぁらオーヴィルちゃんどうしたの?」
オルガース・ミーリアド──。
イーリスをふくむ巫女候補たちにとっての舞踏の師匠。
失踪した愛弟子のために捜索隊を組織し、その才能と実力を高く評価して夢を支援した人物。
その愛情と絆を、たった今しめしたばかりだ。
「おまえが『敵』か……?」
護衛である俺を閉じこめてイーリスを孤立させようとした。
なにひとつ腑に落ちていない、状況だけがそれを物語っている。
本心ではオルガースを敵であるとは疑いたくない。
それは彼に好感をもったからではない。
抹殺するために捜していたのだとしたら、夢の成就を信じて泣いたイーリスがあまりにも不憫だからだ。
追求に対してオルガースは「えっ?」と聞こえなかった素振りをした。
敵だというのは思い過ごしか、心当たりがないという態度だ。
「──やだっ、そんな怖い顔しないでちょうだい」
さっきまでと変わりない態度だ。
──思い過ごしか?
竜神の言葉は本当に警告だったのか、足音を消しているのは単に踊り子の修正じゃないのか、師匠が愛弟子を害するわけがない。
「そうだよな……いや──」
俺の背後からイーリス、もといイリーナが姿をあらわす。
「なんで、そんなところに……」
彼女が俺をたずねて来たことをオルガースは把握していなかったようだ。
「あんたがボクの命を狙っていたこと、もう言い逃れできないよ」
俺が確信できずにいたことをイリーナは断言した。
「なにを言ってるの……?」
オルガースはシラを切ろうとするがイリーナは追求を続ける。
「まずさ、平静をよそおう必要はなかった。扉を破壊されたことに取り乱せばよかったんだ。
リアクションの順番が前後したのは言い逃れを優先したせい。
それとも、ここじゃあ扉が吹き飛ぶのは日常茶飯事なのか?」
オルガースは殺し屋であることの言い訳を思索し、扉が破壊された事実を無視した。
ありえないことだとイリーナは指摘した。
イリーナのそれは聡明だとか冷静だとかとはまたちがう、人間の行動の機微に対して造詣が深いというのが正確だ。
「とっさに腰の短剣に手を伸ばさなかったのはさすがだけど」
言われてオルガースは反射的に右手を背に回した。
イリーナは残念そうにつぶやく。
「──あらら、当てずっぽうが当たっちゃった」
俺たちからオルガースの背中は見えていない。
武器を携行するときに腰に下げるのも、暗殺目的に大振りなものを選択しないのも定番だ。
ただ、心当たりのない物の位置を確認したりはしない。
「武装してるんじゃあ言い逃れはできねえな……」
宴会中は確かに丸腰だった筈だ。
「──畜生っ!! 残念で仕方がねえよ、あいつのこといろいろ言ってやってくれてたのはぜんぶ嘘だったのか?!」
イーリスが賞賛されたとき俺は立場もなく嬉しかった。
それが自分にとって都合が悪くても、あいつの努力が報われることは素直にうれしかったんだ。
だがイーリスは巫女にはなれない、オルガース達にそのつもりがないのだから。
「まってイーリス! わたしの話をきいて!」
巫女にするというのは連れ戻すための方便、目的は本物の巫女の抹殺──。
情報が外に漏れることを恐れたか、あるいは放置しておくことに不安を感じたか。
オルガースも竜神官たちと同じく現状を維持したい側の人間だった。
そしていま、護衛の俺と分断して殺そうとした。
イリーナはオルガースに向かって手をかざす。
「竜神さまがすべてを教えてくれたわ」
そして『竜の巫女』らしくピシャリと言い放った。
竜と交信ができないわけだから『よく言うぜ』と俺は思うが、オルガースへの効果はてき面だ。
「こ、これにはふかい理由があるの! おちついて、もう一度ちゃんと話し合いましょう!」
悪事がバレている相手にどう取り入ったものかと狼狽えている、真っ黒であることはもはや疑いようもない。
ただ情報収集の必要性ならば感じている。
イリーナはすべてお見通しとうそぶいたが、実際にはなにも知らない。
これがオルガースによる独断なのか、竜神官の指示なのか、行商人ルブレはどこまで関与しているのか。
解明すべきことはいろいろありそうだ。
「行くよ――」
しかしイリーナはそれらを無視して足ばやにこの場をはなれようとする。
「まってイーリス、違うの! 殺すつもりなんてないの、戻って、説明させてちょうだい!」
俺をおしのけてイリーナに掴みかかろうとするオルガースを反射的に引き倒す。
「あはああああああん!!)
転倒したオルガースは無駄になまめかしい悲鳴をあげた。
イリーナはかまわず階段をかけ下りる。
「おい、いろいろ聞きださなくていいのか?」
祭司ほどの地位にいる人物だ、縛り上げておどかせばいくらでも情報が手に入りそうだ。
「知りたいことは聖竜スマフラウにきく。時間かせぎをはじめたってことは速くこの場をはなれたほうがいいよ」
オルガースの態度から敵の援軍を警戒したってことか。
そんな様子はあったような無かったような気もするが、イリーナの歩調は確信に満ちていた。
下階では酔いつぶれた連中が床に寝ていた。
途中、視界が悪くてつまづいたイリーナが泥酔者を蹴飛ばしたが、一目散にエントランスを抜け宿舎をあとにする。
「――薄情者っ!!」
後方ではオルガースが叫んでいる。
意味が分からずに無視しようとしたが彼はわめき続ける。
「薄情者!! イーリス、おまえの両親は殺されたぞ!!」
俺は立ち止まって振り返る。
イリーナは「止まるな!」と、咎めた。
それは苦しまぎれの嘘かもしれない、しかし無視できる内容ではなかった。
「おまえが意気揚々と竜とのことを打ち明け失踪した翌日にっ! 殺したわっ! お前の父親もっ! 母親もぉっ! とっくの昔にくたばったわよッ!」
イリーナが肉体の主導権を握っていたときにもイーリスの意識は存在していた。
竜とイーリスのやり取りをイリーナが覚えているように、この声も彼女に届いているはずだ。
俺は引き返して黙らせてやりたい衝動にかられる。
「構うなッ!!」
しかしイリーナは語気を強めて俺をひきとめた。
オルガースの言葉は俺たちの足を止めるための単なる挑発、虚言かもしれない。
その絶叫は仲間を呼ぶための合図を兼ねているのかもしれない。
だが一瞬だ、行って手足の一本もぶった斬ればおとなしくなる。
本当は誰も彼女の努力を評価していないことを、巫女になる夢が叶わないことを、こんな形で思い知らされるなんて。
それが、どれほど悔しいか。
そのうえに両親の安否を餌に罠にはめようとしているのだ。
「気休めにもならねぇだろうが、代わりに一撃くらい入れてやってもいいだろ!」
俺は了解を得ようとイリーナを振り返る、その双眸からは涙があふれだしていた。
「……おい、大丈夫か?」
その表情は俺の激情を幾分か沈めた。
「落ち着いてイーリス。まだわからないから、ただの挑発かもしれないから……」
イリーナは胸のまえで拳を握りしめ自分のなかにいるイーリスをなだめるように声をかけていた。
その涙がイリーナの共感や感情のたかぶりからくるものなのか、イーリスの哀しみが表面化したものなのかは分からない。
ただ、それを無視してひきかえす訳にはいかなくなった。
彼女の涙に気を取られているあいだにオルガースの姿ははるか後方へと消え、絶叫は届かなくなっていた。
とおく倉庫郡に松明が複数集結しているのが確認できる。
急いではなれて正解だったようだ。
まぶたをぬぐい鼻をすすったあとイリーナがつぶやく。
「――落ちて来そうな星空だね」
聖都スマフラウは空がちかい、手をのばせば星にとどきそうだと錯覚するくらいに周囲がきらめいている。
月明かりが白い岩壁に反射して美しく青々とした空間だ。
少女の夢が踏みにじられたあとでも、まるで世界は美しいんだと錯覚させんばかりの星空。
竜と交信できない人々を洗脳するための装置。
虚像の巫女をめざして少女たちは踊り続ける──。
聖都の景色が少女たちに幻想を見せているのかもしれない。
「急ごう」
星空に見とれていた俺をイリーナがせかした。
俺たちは聖竜スマフラウを目指して走りだす。
その美しさには寒気すらおぼえる夜景だが、姿をくらませつつ足もとが照らされていて逃走するには都合がよかった。