イーリスと俺は半日歩き通して、本日の目的地に設定していた山狩りの作業場まで辿り着いた。
だいぶ日が落ちてしまったが、ここまで辿り着いておかないことには明日は徹夜を覚悟しなくてはならなかった。
「女王に馬を貸してもらえば良かったのに」
「おまえがすぐに出発したがったんだろうが……」
旅はライフワークみたいなもんだ、徒歩なら身軽だし街道を大回りにする必要もない。
はじめての場所だろうと地図さえあればガイドや護衛だって不要だ。
なにより道中で彼女からの協力を取り付けるためには馬車に乗り付けて団体行動になったり、目的地に直行してしまうより、のんびり進んだ方が機会は多い。
「今夜はここで我慢してくれ、明日は宿場村でゆっくりできる」
俺は明日の予定を伝えて今夜の寝床が粗末であることをフォローした。
作業場にはなにもない、山狩りを生業にしている猟師が馬を繋いだり、獣を加工したりするのに使う柵と屋根しかない広場だからだ。
無法者の住処にならないよう家具なり金目のものは意図して置いていない、居座るような場所にはなっていない。
作業台とカラの水桶、あとはせいぜい使い置きの薪と鍋があるくらいのもんだ。
しかし心配の甲斐もなくイーリスに野宿を苦にする様子はない。
「今日はここでキャンプね!」
むしろ浮かれた様子で周囲を見渡していた。
さすがに若いだけあって長距離を歩くことも余裕のようだ。
倍以上の自重を運ばなければならない俺のほうが疲労は濃いくらいだった。
太い手足を動かすのに必要なエネルギーも馬鹿にならない、加えて歩けるからといってイーリスの積載量が多いわけでもなく、荷物一式を担ぐのは俺の役目だ。
備え付けのランタンに火をつけて回る。
「すぐに真っ暗になるからな」
言うよりやるのがはやいと、俺は専用の石と火打金で麻布に種火を着けた。
狩りの他、材木の加工にも使われる作業場だ、かんなクズや薪には困らない。
「火ってこんなに簡単に起こせるんだね」
「道具が揃っていて環境が整っているからな、どちらかが欠けていたらもっと面倒さ」
焚火を作るとイーリスに扱いの説明をする。
交代で睡眠を取ることになる、俺が寝ているあいだも炎を絶やさないようにしてもらわなくてはならない。
むきだしの土の上に椅子がわりの丸太が横たわっていて、俺たちはそれに座って腹ごなしをした。
「ちょっと料理っぽいものが出てきてあたし感動しちゃった!」
料理なんて洒落たもんじゃないがイーリスは大げさに称賛した。
夜空の下で火を焚いて食う飯に馴れてないのだろう、新鮮な気持ちが良い味付けになっているに違いない。
「ブツ切りにして煮込んだだけだ、猟師なら誰でもやってる」
味気のない物ばかりじゃあ旅も飽きるからな、最低限の調味料と食材は用意してきた。
それを美味く感じるのは、料理屋に入る時みたいな期待感がないぶん得した気分になれるのもあるだろう。
「んー、美味しい! 外で食べるご飯ってなんでこんなに美味しいの!」
人格交代中の記憶があったおかげかイーリスははじめから打ち解けた感じで接してきている。
手間がはぶけてありがたいが、あちらがどんなにこちらを見知っていようと俺にとってはまったくの別人だ。
知人の精神年齢がとつぜん下がったみたいで調子が狂う。
「準備してたら、もう少しマシなもんを食わせてやれたけどな」
「えーっ、荷物がかさばるならなんでリュートなんて担いできたの?」
イーリスは俺の相棒に文句を垂れた。
べつに楽器のスペースを確保したせいで食材が入らなかったわけじゃない、はしゃいだ気分での出発ではなかったのだ。
「生活のために傭兵でも怪物退治でもなんでもやってるが、俺は吟遊詩人だから楽器は手放さないんだ」
俺は恵まれすぎたこの体格のせいでとにかく荒事の矢面に立たされてきた。
頼まれたら断れない性分で腕力にものを言わせて解決してきた。
だが、できる事とやりたい事とはべつだ。
俺はもうぶっ壊すことには飽き飽きしている、争いなんてクソ喰らえだ。
もっと文化的なことがしたい、この料理もそうだが学問や医療は素晴らしい。
そして俺なりに考えて心を揺さぶられた究極がこの吟遊詩人という道だった。
その日を生きるのに精いっぱいの多くの人々の心を豊かにし、その詩は後世にまで受け継がれる。
俺は英雄になりたいのではなく伝説を語り伝えたいのだ──。
「そうだ、踊り子なら音楽にも詳しいだろ?」
『竜の巫女』は半日踊り続けると言っていた、踊りには演奏がつきものだ。
「踊り子!? う、うん、まあね……」
踊り子という呼称には抵抗があるようだが否定はしない。
「──詳しいかはともかく良い悪い、上手い下手くらいの判断はできると思う」
楽器に触らなくてもノれる、ノれないの感覚は洗練されているだろう。
腰も落ち着いた、腹も膨れた、時間もたっぷりある。
「丁度いい、俺の演奏を聞いてくれ」
「べつにいいけど」
反応は薄い。
素人の演奏に興味はないが、とくに拒否する理由もないってところか。
しかし、すぐに呻らせてやるぜ。
俺はリュートの調子を軽く確かめると、唯一完成まで漕ぎ着けた自作の詩を乗せて楽器を奏で――。
「とめて」と、イーリスがぴしゃり。
「お、なんだ?!」
とうとつに演奏を止められて俺は拍子抜けした。
曲はまだ導入も導入、口ずさむなり止められて不完全燃焼どころではない。
止めるのはやすぎてビックリしちゃった。
「どこかおかしかったか、やりなおすか?」
俺は気を引き締めてリュートに手を掛けた。
しかしイーリスはかたくなに演奏再開をこばむ。
「もういい、やめて」
そんなにも耳障りということか、俺はショックを受けた。
「そ、そうか、今日は疲れてたのもあるし日をあらためて……」
くやしいが引き下がる他にない。
猛練習して上達したら次こそ唸らせてやろうと心に誓――。
「じゃなくて、吟遊詩人を目指すのやめて」
吟遊詩人を目指すのやめて──。
言葉の意味が飲み込めずに一瞬停止していたが、その理不尽すぎる指示に俺は反発する。
「なぜだッ?!」
たしかにまだ名乗れるような腕前じゃあないかもしれないが、はじめて数年、こうやって隙を見ては練習だってしているし情熱だってある。
そこまで言われる筋合いはないだろッ!!
「ああ、アレだな! おまえも俺をからかったんだな、よくイリーナがしていたみたいに!」
──いかんいかん、過剰に反応するからコイツらは面白がって辛辣な言葉をぶつけたがる。
俺は眉間に中指を当ててクールに「やれやれ」と首を振った。
しかしイーリスの表情は冷たい。
「まず声、喉を締め付けて発声してるからただでさえ聴き取りづらい低音もあって、物語がぜんっぜん入ってこない」
言われて俺は反射的に自分の首に触れる。
確かに、ちょっと緊張するだけで筋肉がガチガチに膨れ上がっている。
「演奏はでたらめに音を出しているだけ、とくに詩がゴミね、センスゼロ!」
その後もイーリスは俺の欠点を列挙し続けた。
次第に彼女の声が遠くなり、なにを言っているのか聞き取れなくなっていく。
そういえばイリーナが言っていた、人間は都合の悪い事実に対しては感覚を閉ざして鈍感になるか発狂して認めないかだと――。
「ふひっ、そんなことはねぇだろ……?」
なんか変な声が出ちまった。
イーリスは一度、深いため息をはさんで続ける。
「なにより致命的なのはさ、その自覚のなさよ。自分の未熟や弱点を自覚しないでどうやって克服するの?」
イーリスは心底あきれた様子で、俺には返す言葉がない。
「いつから始めた?」
「二十歳……」
俺は年下の少女に怯えながら聞かれるままに答えた。
「手遅れ」
「えっ!?」
「いままでなにやってたの? 人に聞かせる段階にすらなってないよ、お金を払ってほしいレベル」
「で、でも、ででもだな。手遅れってことはないだろ?」
人生はまだまだこれからだ、将来のことを決めたりやり直したりするのに二十代で手遅れってことはあるまいよ。
心の叫び、アルマイヨッ!!
「あたし、いつから踊ってると思う?」
「いや……」
「五歳よ」
いつの間にか俺は丸太椅子からおりて地べたに正座していた。
立ち上がったイーリスが上から迫って来る。
「五歳から歌って踊ってるの、そのうえ天才なの!」
それには説教なのも忘れて素直に感心するしかない、俺は目が回りそうになりながらただ打たれ続けるしかない。
「──よく聞いて、なりたいものってね、なりたくてなるものじゃないの、なるべくしてなるものなのよ?」
なりたい人間じゃなく、なるべき人間がなる──。
俺は言い返す。
「だから、いまはまだ努力してるところだろうが! 自分のなりたいものくらい自分で決めるさ!」
ささやかな、それでいて精一杯の抵抗。
それは見当ちがいと言わんばかりに斬って捨てられる。
「無駄ッ!!」
なんて歯切れの良い無駄! なんだ……。
これが五歳から鍛えてる人間の声か、どうりでイリーナの口上はコロシアム全体によく響いたわけだ。
アルフォンスは呼び出す対象をあやまったと言っていたが、どうやら適切な人物が宿ったと言える。
イーリスは攻撃の手をゆるめない。
「あんた達のイリーナが闘技場で努力して強くなりました、いつかはウロマルド・ルガメンテに勝てましたか?」
勝てない。
なぜなら、当時のウロマルドに追いついた頃には奴はさらに先を行ってるからだ。
「むずかしいな……」
俺の答えはそれでも控えめだ。
実際には先に行かれるもクソもなく、まったく手が届かないに違いない。
「人生のすべてを捧げてたゆまぬ努力を積み重ねてきた王者がよ、まともに剣を握ったこともなかった素人に倒されたら、なんだそれってシラケない?」
仮に毒殺や不意打ちで勝てたとして、その勝者を人類最強と呼べるだろうか。
五分の状態での勝利以外からは納得を得られることはない。
だからこそ俺はウロマルド・ルガメンテに勝利したとは言わないのだから。
「──あんたが一時間ちょっと気持ち良く歌って満足しているあいだに、より才能のある連中がずっとはやくから血反吐をはいて毎日十何時間も欠かさずに訓練してるの」
なにかを目指した時がスタートラインとして、レースは同時には始まらない。
その上でより速く、より長く走った者がゴールに近いのだとしたら。
一秒だって休んでいる暇は無い。
「それとも、自分は特別でなんの苦労もなく、ある日とつぜん世の中がもてはやしてくれるとでも思ってんの?」
「べつに一番になれるとまでは……」
そんな都合の良いことは考えてもいなかった。
弁解しようとしたが、今日まで俺はいまの生活のままで吟遊詩人として結果が出せると信じていた。
それは実質、彼女の言った通りではないのだろうか──。
「だとしたら死んでよ」
「言い過ぎだろ!?」
イーリスのあまりの辛辣さに俺はのけぞって叫んだ。
──言い過ぎ! だっ!
本当に必要なことをなにも理解していなかったのは認めるし、あさはかだったよ!
でも断罪されるほどじゃあねえだろ!
改善できなきゃ本人が報われないってだけの話だ。
しかし、イーリスは憎悪の限りに口ずさむ。
「ああ、死んでほしい! 選ばれた人間の行く道の上に転がる、この世に必要のないすべての身のほど知らずたちに死んでほしい!」
断罪するつもりのようだ。
「──あたしは思うのよ、より相応しいほうが報われるべきなんだって! じゃなきゃこの世は地獄よ、そんな世界に価値なんてない」
その眼差しは真っ直ぐでいてどこか思い詰めた様子があった。
「あんたは恵まれてるわ、人類最強でも英雄でも、手を伸ばせばとどく位置にいる。選ばれた人間だと思う」
なぐさめにも聞こえるその言葉からは夢を諦めさせようとする強い圧を感じる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。考える時間をくれ……」
鼓動が凄まじい速度で打ち鳴らされ呼吸が乱れている。
限界だった、これ以上アイデンティティを否定されては俺は立ち直れなくなってしまう。
将来の目的を失った俺は、と言うより、これ以上の直接的な誹謗中傷はトラウマになり廃人化を招くかもしれない。
イーリスは俺の肩をポンと叩きながら微笑む。
「才能ないよ、辞めちまえ」
「ウオォォォォォァォォォォォッ!!!」
――そのへんの記憶はいまはもう無い。
言いたい放題したイーリスは眠りについた。
俺はショックのあまり目が冴えて一睡もできず、彼女に悟られぬように巨体を丸め声を殺して泣いた。
──こんな夜でも星は綺麗だな。
皆殺しと恐れられ、竜殺しとまで呼ばれたこの俺が、会ったその日に女に言い負かされ、涙を枯らすことになるとは……。
長い夜にこの屈辱を詩にしたい衝動に駆られたが、こんな惨めな出来事を人に聞かせても仕方がないと断念した。