ケーリィンは鼻をつままれたものの、ディングレイから観客役を快諾してもらい、もう一度踊りの練習を行った。何度か転びかけたものの、鍛えた体幹でどうにか耐えることに成功した。
「うん、転ばなかったけどな。余計にハラハラした。あんなブリッジ体勢で踏ん張るなら、素直に転んじまえ」
とは、それを呆れた顔で見守っていた、ディングレイの感想である。
そこでようやくロールドも起床したので、朝食を取ることにした。
今度はケーリィンも手伝い、ベーコン入りのサラダとスープ、ハムエッグとパンの、簡素な食事を作った。しかし簡素な割に、肉気がちらほら見受けられる。
スープにも塩漬けされた、豚肉が入っていた。
ケーリィンが肉々しい朝食に若干唖然となっていると、パンにジャムを塗っていたロールドが、何度かちらちらと視線をよこして来た。
なんだろう。口に何かついているのか、と顎や頬をこっそり触るが、そうではないようだ。
ややあって、彼が口を開いた。
「ケーリィンちゃん、寝不足かね?」
ぎくり、と後ろめたいことなどないのに、つい身じろぎした。
「え、どうして」
「目の下に隈が。顔色も悪いし、大丈夫かね?」
確かに金箔悪夢のおかげで、熟睡できなかった。しかし指摘されるまで、そんな酷い顔だとは気づかなかった。
ディングレイも全く気付いていなかったらしい。しげしげと顔を覗き込まれる。
「ああ、ほんとだな。寝不足で朝からあんな運動して、大丈夫か?」
「お前さんこそ、先に気付いてやらんかね。なんのための護剣士なんじゃ……」
機微に疎いのう、とロールドはゆっくり首を振っている。
うるせぇ、と言わんばかりの半眼で、ディングレイは彼をにらんだ。
そしてすぐさま、再度ケーリィンへ向き直る。
「部屋で何かあったのか? 先代に捨てられた男の亡霊でも、出て来やがったか?」
「あ、いえ、それはなかった、と思うんですけど……ちょっと、その、お部屋が……」
言い淀んで、ケーリィンは視線を手元に落とす。
「部屋が? 何かあったか?」
ディングレイは頬杖をつき、心持ち声を柔らかにして続きを促した。
「豪華なので、お、落ち着かなくて……我儘で、すみません」
寝床がないわけでもないのに、本当に贅沢な理由だ。
だが頬杖をついたままのディングレイは、「だよな」と半笑いで同意。
「どこの成金の部屋なんだよって、思うよな。趣味が悪すぎだ」
「ワシらも家具を買い替えようか悩んだのじゃが……急きょ新しい舞姫様をお迎えすることになったのと、女の子が好みそうな部屋と言えなくもなかったので、そのままにしておいたのじゃよ……すまんかった」
白い眉をハの字にしたロールドも、労わるようにケーリィンの手の甲を撫でた。
確かに天蓋付きベッドや、猫足ソファは女性受けも良いだろう。
しかし、いかんせん金の濃度が強すぎる。そんなものは、己の髪と目の色で十分間に合っている。鏡を見れば常に金ぴかなので、寝起きなどは目が痛いぐらいである。
「できればもう少し……優しい雰囲気のお部屋だと、嬉しいです」
ケーリィンが過ごしてきた聖域は、家具の類がほぼ木製だった。床だけは、舞姫が転んでも安全なように、柔らかな人工芝だったが。
おかげでケーリィンも、舞のたびに転び、時にはそのまま舞台下まで転落することもあったが、大怪我には見舞われていない。
「よし。今日は模様替えと衣替えだな」
軽快に手を一つ打ち、ディングレイがそう提案する。低いが、よく通る声だ。
「なあ爺さん。バカ女の置き土産は、家具屋で引き取ってもらえるよな?」
数秒の思案の後、ロールドもこくりと首肯。
「そうじゃな。十時には店も開くはずじゃから、後で電話しておくよ」
「任せた。ついでに新しいのも見繕ってやってくれ」
「もちろんじゃ。して、ケーリィンちゃんは、どんなお部屋にしたいのかね?」
「えっ……」
聖域を出て以来、いろんな場面で自分の意見を求められる。これまで誰かに指示されて動くことがほとんどだったので、しばし固まってしまった。
「木の、ベッドと机と……あと本棚も……あると嬉しいです」
ぽつりぽつりと呟き、本棚までは贅沢だっただろうか、と二人を上目に伺う。
ディングレイはケーリィンの要望した家具を、脳内で彼女の自室に配置して――
「姿見もいるんじゃねぇか?」
と、追加で提案してくれた。
「お。レイ君にしちゃ、気が利いておるじゃないか」
ロールドもにこやかだ。本棚と、姿見も希望して問題ないらしい。ケーリィンもホッと顔をほころばせる。
「はい。その四つをいただければ、嬉しいです」
ほんのり笑ってそう伝えれば、ロールドは請け負ったとばかりに力強く頷く。
「ちなみに、デザインの希望はあるかね?」
「えっ? そんな、一番安いので大丈夫ですから!」
慌てて首と手を振るが、大事なことに気付き、はたと動きを止める。
「あ、金ピカじゃないのが良いです!」
両手を握りしめて切望したのに。
何故か二人からは、盛大に笑われた。不本意である。
涙までにじませて笑ったディングレイは、荒っぽく目尻を拭って呼吸を整えた後、ロールドを見る。
「それじゃあ家具選びは任せたぜ、爺さん」
「はいはい」
心得顔で、ロールドも頷く。
彼一人に、そんな重労働を任せるわけにもいかない。ケーリィンはおずおず、右手を挙げた。
「あの、でしたらわたしもお手伝いを――」
「家具を運ぶのは業者だ。心配ねぇ。あんたと俺は、衣替え担当だ」
実はロールドの方が値引き等の交渉が得意なのだが、そういった裏事情は伏せられた。
「ころも、がえ?」
初めて耳にする言葉であったため、ケーリィンは大きな蜂蜜色の瞳を瞬いた。
そう言えばディングレイは、先程もそんなことを言っていた。
年中常春の閉鎖環境で育った彼女に、衣替えという概念はないのだ。
小首をかしげる彼女を、彼はじぃっと見下ろす。正確には、彼女の衣服を。
「あんたの服は、あまりにも質素すぎる」
「……貧乏くさかったでしょうか?」
やはり、やはり雑巾でも着ているように見えるのだろうか。もういっそ、何も着ていない方がいいのだろうか。
寝不足に不安を加味して、更に青ざめた彼女に、ディングレイは苦笑した。
「そうじゃねぇ。飾りっ気がなさすぎて、地味ってだけだ。ギラギラしろとは言わねぇが、街を預かる舞姫なんだ。もうちょっと着飾ってもいいだろ」
「なるほどです」
地味という指摘なら、納得だ。持って来たドレスはどれも、木綿で作った無地のドレスだ。せめて柄物も着てみたい、とはケーリィンも常々思っていた。
指を一本立て、ロールドも提案する。
「それから靴も必要じゃな。これから気温も下がっていくのに、サンダルでは風邪を引いてしまうわい」
「そんなに寒くなるんですか?」
「うむ。冬になれば、この辺は雪も積もるからのう」
「わぁっ!」
未体験の降雪を想像し、ケーリィンは思わず歓声を上げる。写真では見たことがあり、憧れていたのだ。雪だるまや、雪合戦といった行為に。
寝不足で青ざめていた顔が、興奮で血の気を取り戻す。それを見下ろし、ディングレイは口角を持ち上げた。
「そんなわけで冬――の前に、秋支度が必要ってわけだな。田舎だが、腕は良い仕立て屋がいる。そこに行こうぜ」
「はい、ありがとうございます」
柄物のドレスや、遠くない未来に雪も待っているのなら、衣替えを是非とも行いたい。弾んだ声で礼を言った。
「本当に、腕は良いんじゃがのう……」
が、浮かれ切っていたケーリィンは、ロールドのそんな嘆きを聞き洩らしたのであった。