「おいおい、犬神の旦那!マズいぜ。辺り一面、妖怪だらけだ。完全に囲まれちまってる!」
着流した着物の裾を軽く捲りながら、猫田が叫んだ。隣にいた若い男…犬神宗吾は、視線を動かさずに正面を見つめている。
「ふん。この程度の妖怪共を寄せ集めた所で、俺達の敵じゃない。それよりも、
宗吾の挑発が耳に届いたのか、ちょうど彼の見据えていた正面の妖怪達が漣のように小さく揺れて、左右に割れた。するとその合間には、一人の人間の男が立っていた。
「ちっ、相変わらず鼻の利く奴だ。犬は犬らしく、尾を丸め首を垂れておればよいものを…野良犬風情が、この俺の術を見破った程度で勝てると思ったのか?」
「ふふ、俺を野良犬と侮るなら、貴様は陰陽師崩れのにわか術師だろう。我ら犬神家の先祖は、かの安倍晴明に見いだされし由緒正しき陰陽師の血筋でもある。何者にもなれずに身を持ち崩した貴様のような贋者と、一緒にされたくはないな」
「き、貴様ぁっ…!」
外柴の怒りが、そのまま周囲の妖怪達に伝播している。どうやら、何かの術を使って、妖怪達を意のままに操っているらしい。恐るべき術の使い手ではあるが、こうも簡単に挑発に乗るようでは二流以下だ。現に、怒りに支配された妖怪達には付け入る隙が目に見えるほど表れている。それを見逃す宗吾達ではない。
(二班の連中は、妖怪共の群れに襲われて死んだと聞いていたが…コイツが生きていて、しかも俺達を襲ってきたと言う事は、あれは偽装か。つまり、連中は俺達を裏切っている。そういうことか…?)
宗吾は外柴を煽って冷静さを失わせつつ、彼が敵として現れたその意味を考えていた。大蛇復活阻止の為に、
数万とは言わないまでも、この場に居る妖怪や式神達は1000を優に超えている。下手をすれば本当に万単位の数がいるかもしれない。
だが、宗吾がその目で見る限り、外柴は大きな失敗をしでかしているようだ。これならば、勝ち目はある。
「猫、右翼の敵を叩け。
「はっ、イヌが偉そうに命令すんじゃねぇよ。まぁ、俺でも左を狙うケドな」
「……」
「おうよ、旦那!いつでもいけるぜ!」
憎まれ口を叩いているのは、
「行くぞ!」
宗吾の言葉を皮切りに、全員がそれぞれの指示に従って妖怪達に飛び掛かっていく。猫田は巨大な猫の姿に変わり、
猿渡は、二人の少女に先陣を任せ、自らは無数の霊符を取り出して、巧みに少女達のサポートに徹している。少女の身体の二倍はあろうかという巨大な剣と斧が踊る度に、彼女達の前に立つ妖怪達は木の葉のように断ち切られていった。
蟹江は、大きな鋏状の武器を携え、次々に妖怪達の首を刎ねている。彼は走りながらその身に何かの霊を降霊しているようだ。蟹江の背後に敵が回った瞬間、彼は纏った布をはためかせ、宙を飛んだ。そして、木の枝に逆さに留まると、真下にいる妖怪へ、再び鋏を突き立てた。その姿は、奇怪な蝙蝠のようであった。
そして、宗吾は五匹の犬神全てをその身に宿し、強大で巨大な、青白く輝く毛並みの狼へと姿を変えていた。猫田と違って尻尾こそ一本だけだが、爪という爪、牙という牙に力が漲り、この場の誰よりも素早く、外柴の周囲にいる妖怪共に噛みつき、それらを砕いた。
「なっ、なんだと!?」
その光景に驚愕したのは外柴本人である。犬神宗吾率いる
さらに言えば、外柴の所属する第二班は、総隊長が率いる最強と名高い第一班に負けず劣らずのエリートであるという自負がある。事実、彼らの前に妖怪達に襲わせた第三班は外柴自らが出陣することなく、従えた妖怪達だけで討ち取る事ができた。
ただ、第三班の予想以上の反抗により、使えない妖怪共の数は減ってしまったが、不足分を自らの式神で補ったのだ。全体の質が向上こそすれ、弱くなるはずがない。たかが獣化や、キョンシー使いのような色物など敵ではないと、彼は勝手にそう判断していたのだった。
しかし、蓋を開けてみれば、この有様である。従えている妖怪共は成す術なく打ち倒され、どんどんと数を減らしている。外柴はすぐに身を隠し、妖怪達の後方で指揮を執るべく態勢を立て直そうと考えた。
「逃げるつもりか?やはり貴様は晴明様には遠く及ばんな。貴様は戦う相手がどういうものかをまるで知らん。大方、別班…そうだな、三班辺りを襲撃して首尾を上げたのだろう。三班の連中は個の戦闘に優れている分、こういう数に任せた相手には弱いからな。だが、お生憎様だ、俺達はこういう多数を相手にする方が強いのさ。俺達を単なる獣の群れと侮った、それが貴様の敗因だ」
瞬く間に大量の妖怪共を引き倒し、磨り潰して宗吾は勝ち誇った。しかし、そうは言ったものの、ここにもし外柴の上司である第二班の班長氷川がいれば、状況は全く逆の結果になっていたことだろう。彼の操る氷と吹雪の術は、凄まじい威力を持っている。彼は
(そもそも、外柴は数的有利を気にするあまり、能力の限界以上の数を操っているようだ。…隙が多すぎる、やはりコイツは二流以下だな)
無感情に居並ぶ妖怪共を睨み、宗吾は勝利を確信した。だが、その時、空中から突然大量の雹が一帯に降り注いできた。まるで大量の弓兵が隊列を組み
「なにっ…!?マズい、全員伏せろ!」
遠吠えするように、宗吾が大声で叫ぶ。猫田、猿渡、蟹江の三人は即座に反応したが、避ける事は出来ない。雹の嵐は、妖怪共を巻き込んで、壮絶な破壊をもたらしていった。
「はっ!?今のは…ゆ、夢…?」
緑鬼の腹の上で、狛は飛び起きた。とてもリアルな夢だったが、この体験には覚えがある。今のは恐らくイツの記憶だ。狛が狗神走狗の術を解く前に意識を失ってしまったので、ダイレクトにイツの記憶が流れ込んできたのだろう。身体に食い込み、肌を引き裂く雹の感覚がまだ残っている。そんなはずはないのに、気温が下がっているような気さえして、狛は思わず身を震わせた。
それにしても、あれを受けて、高祖父である宗吾達はどうなってしまったのだろう?少なくとも猫田は今も生きているのだから、無事だったのは間違いない。とても気になるが、それどころではない事を思い出した。ここは地獄だ、自分はまだ、役目の途中なのだ。
「そうだ、イマ君!?」
ハタと気付いて、抱き抱えたままのイマの顔を覗き込む。どうやら、彼も眠ってしまっているらしい。どのくらいの時間が経ってしまったのかを考えると頭が痛いのだが、不思議と疲れは綺麗さっぱり無くなっていた。そんなに長時間眠ってしまったのだろうか。
「急いで上に行かないと…!」
辺りを見回すと、緑鬼の腹の上はかなりの高さがある事に気付いた。腹がつきでた体型をしている分、余計にここは高い場所だ。そして、少し離れた所に見えているのは、緑鬼に襲われる前に下から見た、あの白い箱のようなものだった。
「あれが、さっき下から見てたやつ…?」
立ち上がって近づいてみると、それはどうやら箱が糸で吊るされているもののようだった。狛はそれに気付いた時、ふと釈迦の蜘蛛の糸の逸話が頭に浮かんだ。
風に揺れるその箱が、この場所から救ってくれるのでは…そんな気がして、狛は天を仰ぐのだった。