「っとっと…!」
轟音を立てて仰向けに倒れた緑鬼の腹にしがみ付きつつ、狛もまた倒れ込んでいた。体力と霊力の消耗は限界を大きく超えていて、傍らに抱いたイマの様子を確認する余裕もない。狛はイマに無事でいてと願いながら、意識を失った。
一方その頃、現世ではくりぃちゃあの営業が終わり、事情を聴いてすっ飛んできた猫田と、辛うじて結界に立ち入れる土敷が神子神社の本殿に到着した所であった。
結局、神子祭は巫女役を神奈が引き継ぐ事で事なきを得たようだ。もっとも、メイリーの絵巻神楽ほどの完成度は無く、午前中からそれを見物していた人達からは多少のクレームがあったことは言うまでもない。むしろ、そんな逆境を物ともせずに勤め上げた神奈を褒めてやるべきである。
詳しい事情を聴き、さらに本殿内に設置された祭壇とそこに横たわるメイリーの姿に、猫田は動揺を隠せずにいた。
「いや、事情は分かったが、狛を一人で地獄に行かせるなんて…」
「…止むを得なかった。他に務まる人間がいなかったからな。俺とて、納得して行かせたわけじゃない。アイツは家族や友人の事となると後先を考えないからな。最近はその傾向が強いようだ。もしかすると、人狼化の影響かもしれん」
拍は溜息を吐きながら、狛の言動を思い返している。拍からすると元々、人の役に立ちたいという願望の強い妹ではあったが、最近はそれが顕著である。特に友人などの親しい人間や身内に対しては、かなり危なっかしく思えるほど自己の犠牲を厭わないフシがある。拍にはそれが、群れというものを第一に考える狼の特性であるような気がしてならなかった。
猫田もそれは心の中で感じていることである。かつての上司、犬神宗吾がそうであったように、本来の人狼族というものは、群れをとても大切にする種族達だ。実は猫田は600年という長い人生の中で、犬神宗吾とは別の、純血の人狼族と会ったことがある。彼らは海外の人狼…所謂ウェアウルフのような者達とは違って、人の社会から離れ、隠れ里を用意してひっそりと暮らしている一族だ。
かつて、遥か遠い昔には人と争う事もあったようだが、少なくとも猫田が出会った者達はもう、普通の人間達と争う姿勢は見せていなかったはずだ。人と争って、無益に犠牲者が出る事を好まない、そういうスタンスだったと記憶している。そんな人狼族の事を考えると、確かに仲間を大事にしようとする狛は、彼らに近い感覚を持っているのかもしれない。
だが、それでも地獄へ単身で乗り込んでいくというのは、いくらなんでもやり過ぎだ。せめて、自分を頼ってくれればと思う所だが、玖歌や猫田のような妖怪が地獄に立ち入れば、生身の人間以上に帰還は困難だ。いかなる理由があろうと、狛自身がそれを望まないであろう事は、猫田だけでなく狛を知る者全てがそう思う所だろう。
もちろん、猫田にもメイリーを心配する気持ちはある。直接狛から言われたわけではないが、メイリーという少女が自分に好意を寄せている事は理解している。猫田からすれば、普通の人間の娘などそういう対象には思えないのだが、確かにあの猫娘のような恰好をされると、少し心が揺らぐ。そういう意味では、全く気にならない少女というわけでもないようだ。
少し複雑な思いを胸に抱え、猫田は頭をバリバリと掻いている。
その隣で話を聞いていた土敷は、神妙な面持ちで話を聞いていた後、静かに口を開いた。
「で、狛君は今どこに?」
「解らない。かなり地獄の深い所へ落とされてしまったようだ。俺の口寄せが届かないほどの地獄となると、大叫喚や、大炎熱地獄か、或いは…」
「無間地獄、か…確かに八大地獄の最深部となれば、口寄せは届かないだろうね。となると、やはり僕ら妖怪ではとても手が出せない場所か」
土敷は、その苦々しい気持ちを抑えずに吐き捨てるように答えを述べた。地獄の浅い部分であれば、普通の冥界とそこまでの違いはないので、例えば沼御前のような神格、或いは神性を持った妖怪ならば足を踏み入れられる可能性はある。だが、本来、人間よりも剥き出しの魂に近い存在である妖怪達は、冥界に引き込まれれば脱出は困難だ。それは死者が現世に蘇るようなもので、摂理に反するものである。よほどのことがない限り、それは難しいと言わざるを得ない。
しかも、そこが深い階層の地獄となるともうお手上げだ。救援など、とても送り込める場所ではない。
それでも、猫田は黙ってはいられないとばかりに立ち上がり、本殿奥の荒岩ヶ根の置かれた部屋を見据えた。
「…こうしちゃいられねー、俺が狛を助けにいく。アイツの事だ、地獄の亡者を助けようとして追い詰められてるかもしれねぇからな」
「よしなよ、猫田。いくら君でも、地獄なんかに行ったら二度と帰ってこれなくなるよ」
「んな事言っても、狛を見捨てるわけにはいかねーだろうが!」
そんな猫田の声に反応するように、祭壇に捧げられていた蝋燭の炎の内の一つが、怪しく揺れた。すると、瞬く間にその炎は大きく膨れ上がり、その向こうに怪しげな象を映し出していった。そこに映ったのは、あの浄玻璃鏡の前で、狛の逃げ回る様を笑ってみていた、あの男である。
「なんだ…?」
「ほう…懐かしい声がすると思えば、貴様までもがそこにいたのか。薄汚い野良猫風情が、まだ生きていたとはな。相も変わらず生き汚い畜生だ」
「こ、この声は…?てめぇ、どういうことだ!
猫田は、今までにないほどの激しい怒りを露わにしている。人間体のままだというのに、全身の毛が逆立っているのが目に見えるようである。外柴と呼ばれた男は、揺らめく炎の中で、怪しげな笑みを浮かべていた。
「覚えていたか。そうだな、いくら畜生上がりの妖怪とはいえ、その程度の物覚えくらいは出来るものか。」
「てめぇ、生きて…いや、そうか、地獄に落ちたのか?そうだろうな。てめぇみてーなろくでなしの陰陽師くずれなんぞが、極楽浄土に足を踏み入れられるわけがねぇよな。地獄行きか、へっ、裏切り者のてめぇにゃあ、似合いの末路じゃねーか」
「ちっ!口の減らん畜生めが…!しかし、いいのか?そんな事を言って、貴様らの大事にしているあの娘は今、無間地獄に落とされているのだぞ?先程は小癪にも目くらましで
「てめぇっ!!」
いきり立つ猫田を、拍が制止した。その隣では土敷も、険しい表情で立ち上がりかけている。どうやら、彼も猫田を止めようとしていたようだ。
「落ち着け、猫田。…それで、貴様が何者かは知らんが、狛を無間地獄に落としたというのは本当か?どう見ても閻魔大王には見えんが…」
「…ん?おお、こちらにも犬神の子孫がいたか。ふ、髪の色を除けば男である分、余計あの男に似ておるわ。実に腹立たしい、どうせならお前もそこの野良猫と共に地獄へ来るがよい。そうすれば、あの娘は助けてやってもよいぞ?」
炎の向こうの外柴は、ニヤリと不気味な笑顔を浮かべている。炎の揺らぎに合わせて歪んで見えるだけではなく、心底、邪悪が滲み出た…そんな表情であった。
「白々しい。貴様のような人間が、そんな約束を守るとは思えん。だが、覚えておけ。狛にもしもの事があれば、例えそこが地獄であろうと必ず俺が貴様を殺す。亡者であるならば、完全に魂を消滅させてやる…!解ったか」
「ハハハ!口だけならば何とでも言えるわ!しかし、よく言った。ならば、精々待っているとしよう。最愛の身内が無惨に殺されて、地獄へ復讐に来るお前達をな!!ハッハッハ!」
高らかな笑い声を残して、蝋燭の炎は小さくなり外柴の姿も消えた。静まり返った本殿の中に残った者達の内、土敷だけがゆっくりと口を開く。
「猫田、今のは一体何者なんだい?どうも知り合いだったようだが…裏切り者って言っていたね。どういうことなんだ?」
土敷の問いかけに、猫田は忌々しそうに答えた。苛立つその声は思いもよらぬ記憶の扉を開こうとしている。
「アイツは、アイツの名は外柴…