視界に広がった暗い緑は、まるで闇夜の森のようだった。
空を見上げていた狛とイマは、突如現れたそれへの対応が、ほんの一瞬遅れてしまった。だが、無理もないだろう、桃の木剣さえも反応せず、今まさにそこへ煙のように現れたとしか言いようがないのだから。
「っ!イマ君!」
狛が咄嗟に反応をしてイマを抱え上げ、その場を走り出したのと、巨体の
「くっ!!」
「あ、あの鬼は…そうか、ここは無間地獄だったんだ…!」
みるみるうちに天を貫くほどのサイズまで大型化していく緑鬼を目の当たりにして、狛はようやくここがどこかを悟ることが出来た。地獄広しと言えど、狛の知る限り、あれほどの巨体の鬼はこの無間地獄にしか存在しない。
およそ
つまり、あの緑鬼は最低でも高さが28キロメートルはあることになる。エベレストの山頂が地上から約9キロメートル地点にある事を考えれば、その大きさが如何に途轍もないものかは想像しやすいだろう。
それほどの巨体である為に、ほんの一歩の歩幅でさえも途方もないものだ。狛が全力で駆けているにも関わらず、緑鬼から逃れる事は出来そうになかった。
「はぁっ!はぁっ!ぜっ、はぁっ!」
緑鬼に追われ始めてから、一時間以上の時が経過している。その間、狛は全速力で走り続けていた。フルマラソンの選手でさえ、42.195キロメートルを走る間、常に全速力で走ったりはしない。だが、狛はそれを続けている、右手にイマを抱えたままで、だ。
肺は極限まで稼働し続け、両足の感覚はほとんどない。
そして既に無間地獄のかなりの部分は、緑鬼によって
そんな狛の姿を閻魔庁から眺める男がいた。
少し時代がかった和服に身を包み、頭には
男は本来、閻魔大王が座るべき法廷の椅子に座り、肘掛に肘をついて、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。
「ククク…よもや
男は逃げる狛の様子を眺めながら段々とヒートアップし始め、最後には机を激しく叩きながら怒りを露わにしていた。男の他に誰もいない法廷は、しんと静まり返っていて、その机を叩く音だけが響き渡っている。
男は狛を犬神の子孫と呼んでいることから、狛の祖先を知っていて、その誰かに恨みがあるようだ。狛が潰される様を今か今かと待ち構えながら、食い入るように浄玻璃鏡に映った狛を見つめていた。
「はっ…!はっ!」
狛の呼吸は乱れ、限界が近づいている。しかし、足を止めれば即座に踏み潰されて一巻の終わりだ。狛は気力を振り絞って、ひたすら走り続けていた。
(このままじゃ、もたない…でも、どうしたら)
自身の限界がもうすぐそこまで来ていることは、狛自身が誰よりもよく解っている。反撃に出る事は何度か考えたが、身体のサイズが違いすぎてどうしようもない。この体格差では、狛の攻撃など針が刺さった程度のものだろう。心臓でも剥き出しでない限り、効果的な攻撃にはなりそうもなかった。
とはいえ、このまま走っていてもジリ貧である。逃げきれないと解っていても走り続けるか、或いは、起死回生の反撃に出るか決断の時は迫っていた。
「……お姉ちゃん…」
不意に、狛の腕に抱えられていたイマが、ぎゅっとその身体にしがみついた。今まで何の感情も示さなかったイマが、狛を頼りに初めて見せた行動だ。狛はそれに奮起して、一か八かの賭けに出る事を決めた。
「…イマ君、しっかりつかまっててねっ!」
緑鬼から離れるように逃げ続けていた狛は、最後の力を振り絞って180度転身した。その時既に振り上げられていた右足ではなく、残った軸足に向けて進む方向を変えたのだ。緑鬼の目はその動きを捉えていたが、これまでとは違う狛の動きに反応できない。またその巨体故に、あまりにも小さすぎる狛を捕まえる事は難しいようだ。その隙に、狛は軸足の
だが、そこで休んでいる暇はない。狛は更にそこから、駆け上がったり九十九の袖をロープのように伸ばして取りついてみたりと、果敢に、一心不乱に緑鬼の巨体を駆けあがっていった。
緑鬼は、両手にリストバンドのような防具と、両足に脛当、腰には何かの動物の皮で出来た簡素な衣服を纏っている。あとは何も身に着けておらず、鍛え抜かれた筋肉質な身体と、つきでた腹が印象的な体つきだ。
狛は腰に巻かれた動物の皮を抜け、一気に腹を駆けのぼった。この腹だけでも小山のような大きさだが、角度的には上り易い。身体のあちこちにある目玉は狛の位置を捉えようとギョロギョロと動き、ちょうど腹を登り切った鳩尾辺りにある目玉の一つが狛の姿を見つけ、その直後、全ての瞳が狛を凝視した。
「ごめんっ!!」
狛は鬼とイマに謝りながらも、既に霊符を用意していたようだ。そして次の瞬間、信じられないほどの極光が緑鬼の上半身を包み込み、爆発した。それはほんの一瞬ではあるが、無間地獄に太陽が現れたのではないかと思わせるほどの、強烈な光だった。
「ぬあっ!な、なんだ!?」
浄玻璃鏡でその光景を見ていた男も、鏡から溢れ出す光の奔流に飲み込まれ、その目を焼かれた。元より地獄には太陽のような強い光源が無い為、亡者達は総じて光に弱い。どうやら、この男も亡者である事に変わりはないようだ。
狛が今使ったのは、光閃符という霊符だ。それは本来、ただ光を放つだけの目くらましに使われる霊符であり、極わずかな霊力で起動できる利点がある。基本的には危険な相手から撤退する時に使用される、いわば非常用の霊符と言っていい。妖怪や悪霊が相手の場合、煙幕では効果が薄いものだが、霊力を光に換えて放つこの霊符であれば、その光は魂そのものに作用する為、実体や肉体を持たぬ存在にも一定の効果がある。
そんな光閃符には、あまり知られていないが一つの特徴があった。それは、起動時に込めた霊力が際限なく光に変換されるというものだ。ただの光を放つだけの霊符に、そこまでの霊力を注ぎ込むものはほとんどいないが、狛はそれを行った。
残されたほとんどの霊力を込め、極大の光に換える。それは完全に不意を打つ一撃だ、ただそれだけでは、この巨大な鬼を倒す事など出来はしない。だが、それでよかった。どちらにせよ、狛の力だけでこの緑鬼を倒す事は不可能だったからだ。
緑鬼は全身の目を、文字通り初めて目の当たりにする強烈な光で焼かれ、パニックに陥った。と同時に、彼の心には激しい怒りが湧き立ち、自らの身体の上を這う虫けらのような人間を殺すべく、その拳を強く強く握りしめている。
その直後、トトト…という微かな歩行の振動を感じた緑鬼は怒りに任せて、握り締めたその拳で思いきり自らの頬を殴りつけた。山をも軽々と砕くであろう拳を顔面に受け、緑鬼は遂に、その巨体を無間地獄の大地へと、投げ出すように崩れ落ちたのだった。