人の腰ほどの高さがある、石造りの台座に置かれたその鏡は、かなりの年代を感じさせるものであった。
手に持つにはやや大ぶりなサイズではあるが、持ち手や背面には花や動物などを模った数々の美しい意匠が施され、どこか気品さえ感じさせる。それでいて、全体が紫に染められていて、薄く光を放っているようだ。まるで、古い貴族の持ち物のような印象を受ける鏡だ。
「これって…紫鏡?これが七不思議の正体ってことなの?」
玖歌の呟きに、神奈は思わず首を傾げていた。
「玖歌、ムラサキカガミって、何なんだ?」
「アンタ、聞いた事ないの?『二十歳になるまで、その名前を憶えていたら…死ぬ』そういう都市伝説の名前よ、紫鏡はね。アタシ達トイレの花子さんよりも、ほんの少し古い年代に生まれた話で、アタシのいた小学校じゃあ、よく子ども達の噂になってたけど」
「…私は、小さい頃はそんなに友達がいなかったからな。それに、あまり噂話とかに興味がなかったんだ」
ほんの少しだけ気落ちしたようにみえる神奈の表情に、玖歌はやりづらさを感じている。結局、どう反応していいものやら解らないので、小さく「そう」とだけ答えて、それ以上そこには触れない事にしたようだ。
「とにかく、紫鏡ってのはそういう都市伝説よ。間違っても願いを叶えてくれるなんてものじゃないわ、一体どういう事なの…」
都市伝説仲間としては、その在り様が全く違う事に違和感を覚えるが、玖歌自身、トイレの花子さんとしての存在とは既にかけ離れたものになっている。そんな自分の事を省みると、おかしいとも言い切れないようであった。
しかし、当の紫鏡を前にしても、その鏡は一向に何の反応も示さない。鏡から異様な気配を感じるので、ただの鏡でないのは間違いないはずだ。玖歌がその鏡に触れようとした時、遠くからあの足音が聞こえてきた。
「この足音、狛のお母さんか」
「マズいわね、ここは行き止まりよ、これ以上は逃げられないわ。どうする?…捕まったらどうなるかは、よく調べなくても解るみたいだけど」
「戦うしか、ないな…」
神奈と玖歌は、二人同時に狛の方を見やった。狛の母親は明らかに危険なニオイのする相手だが、唯一まともに戦えそうな狛は地面に座り込み、俯いてしまっている。とても戦闘など出来る状態ではないだろう。しかし、ここまで追い詰められている以上、逃げ場はもはやない。
神奈は静かにしゃがんで、狛の肩に手を置くと、優しく微笑みかけた。
「狛、一緒に戦って欲しいなんて言えない。例え偽物でも、せっかく会えたお母さんを傷つけるなんて狛には出来ないだろう?だからせめて、目を瞑っていてくれないか?私達が狛のお母さんを傷つける所も、出来れば見ていてほしくないんだ。頼む」
それだけ伝えると、神奈は立ち上がって足音のする方へ視線を向ける。よく見ると、その手は震えているようだ。
「…いいの?アタシ達だけで勝てる相手とは思えないけど」
「私は小さい頃から、狛に助けられてばかりだからな。こういう時くらい、恩を返したいのさ」
神奈の返事を聞いて、玖歌は溜息を吐いて視線を外した。壁際にはいくつかの、干からびた死体が見える。恐らくここに閉じ込められて死んでしまった人達だろう。彼らの相手がなんであったのかは不明だが、ここで負ければさっきのメイリー達同様に捕縛され、ああして死ぬまで放置される事になるということだ。
もっとも、玖歌は妖怪なので、そう簡単に飢えて死ぬことはないが神奈や狛達はそうもいかない。なにより多少なりとも気に入っている友達を見捨てる気にはならなかった。
「でも、どうやって戦うつもり?アタシの
「実はあれから何度か狛の家に通って、自分の力を上手く扱えないかと教えてもらったことがあるんだ。出し惜しみはしてられない、私がなんとかする」
玖歌との諍いで鬼の力に目覚めてしまった神奈は、自分の力の扱いに迷っていた。
幼い頃は制御など出来るはずもなく、その力を封じてもらう他なかったが、成長した今ならば違うかもしれない。そう考えた神奈は、狛には内緒で何度か犬神家に向かいハル爺やナツ婆から手ほどきを受けていたのだ。
どうやら、自身の血に宿る鬼の力…即ち、彼女の前世はかなり高位の鬼であったらしい。であれば、その力を使いこなす事が出来れば、狛の助けになれる事もあるはずだと、神奈はそう考えた。だが、ハル爺はこうも言っていた。
――あまり力を使い過ぎれば、魂が前世に引っ張られて今の自我を失ってしまうかもしれぬ。
(出来れば使うなと言われたが…そうも言っていられない。狛を…そしてメイリーや玖歌、それに他の生徒達も含めて、今は私にしか護れないんだ!)
小刻みに震える手足に力を込めて、それを抑える。同時に、己を鼓舞する為、皆を護りたいという気持ちを強く持って気合を入れた。
「じゃあ、アタシは紫鏡をどうにかするわ。どう考えても、これを何とかするのが一番確実だし」
「出来るのか?」
「解らないとしか言えないわね。そもそも、紫鏡は実体のある怪異じゃないのよ。あれは人の心の中に棲み付いて、恐怖をもたらす程度の存在のはずだから。二十歳まで覚えていたら死ぬなんてのも、確実な話じゃないしね。でも、こうしてアタシ達の前に実際に鏡がある…正直、訳が解らないわよ」
同じ都市伝説から生まれた存在として見知ってはいるものの、紫鏡と接触したのは玖歌も初めての経験である。有名な口裂け女や怪人赤マントなどなら会った事はあるし、なんなら口裂け女とは話をした事もあるのだが、いくら怪異とはいえ、鏡とはコンタクトを取れるのかも疑問だった。
「解った。なんとか時間を稼ごう」
「ええ、お願い。…死なないでよ、絶対に」
玖歌がそう言うと、それを聞いていた狛が身体を震わせた。
(死んじゃう…神奈ちゃんが?そうだ、私、私がなんとかしなきゃ…皆が)
「ま、待って…私がやるから、私が…!」
「狛!?無茶を言うな、お前のお母さんなんだぞ。狛が傷つけていいはずがないだろう…!」
母を傷つける想像をしてしまい、怖気で身体が震える。そんな自分の身体を両手で抱きつつ、それでも狛は立ち上がった。その顔色は真っ青で血の気がほとんど感じられないが、その瞳には強い意思が戻り始めていた。
「大丈夫だよ、お母さんが傷つくのも嫌だけど…神奈ちゃんや皆が傷つくのも、私嫌だもん…!」
「狛…」
狛がその気持ちを吐露した瞬間、今まで誰もいなかったはずの場所に、あの少女の霊が姿を現した。外の廊下で見た時よりも身体が薄れ、消えかけているように見える。少女は狛の方を向いて、悲しそうな顔をしている。
「あなたは…」
「…あなたのねがいは、『おかあさんにあいたい』じゃなかった?」
「ううん、お母さんに会いたいと思ったのは間違いないよ。でもね、私は友達を傷つけてまでお母さんに会いたいとは思ってないんだ。…ごめんね、あなたは私の願いを叶えてくれようとしたんだね」
「そう…なら、べつのねがいをかなえるから。ずっとここにいてほしい。私と一緒に、永遠に…!」
少女の霊は姿を変えて、美しい大人の女性へと変化した。その瞳からは涙を流して、泣き腫らしている。
「そういう訳にはいかないんだ、ごめんね」
「ここから出て行こうとするなんて、許さない…!私を捨てる人間は、許さない!絶対に!」
女の霊は髪を振り乱し、紫鏡の中へ飛び込んで消えてしまった。やはり、この鏡に何かがあるに違いない。
「今の、どういうこと?外で会った時は、助けてって言ってなかった?」
「あれは多分、別の魂なんだよ。その鏡に宿ってるのとは別にいるんだ。…あのお母さんの偽物は、私が何とかするから。玖歌ちゃんはその鏡をお願い、神奈ちゃんは玖歌ちゃんを護ってあげて」
狛の視線の先には、イツを従えた母の姿があった。狛は心を奮わせて、母と対峙するのだった。