第73話 悲しみの先へ

 海の見える高台に建てられた墓の前で、狛と猫田は手を合わせていた。微かに潮の匂いが漂っているが、それはすぐに線香の香りにかき消されてしまった。

 墓には木峰家の墓と記されていて、墓の側面にはそれぞれ納骨されている人の名前が刻まれている。12年前に刻まれた木峰巧斗の名は、その最新のものであった。


 その墓地は地方の小さな寺が管理する墓地で、他にもいくつかの墓があるが、ほとんどが古ぼけた墓石ばかりだ。過疎化が進む地方では当たり前の光景だが、その中で異彩を放っているのは、木峰家の墓のすぐ隣の区画に建てられた、まだかなり新しい小さな墓石である。


 それは本当に小さな墓で、ほとんど一人用と言っていいものだ。実際に納骨できるスペースも一人分しかなく、墓の主はそこに入るのが未来永劫自分だけだと知っていて建てたかのようだった。


「ミカさん…ごめんね。私がもっと上手くやれたら…」


 木峰家の墓に手を合わせた後、今度はその小さな墓に狛は手を合わせて呟いた。頬に涙が伝わり落ちて、悔しさと悲しさがその表情に滲み出ている。


 その墓には、四十万美香の墓と刻まれていた。


 あの時、タクトの魂と再会し、さらに狛の手によって呪具を破壊されたミカは、瞬間的に自我を取り戻していた。そして、崩落する天井を見つけたミカは目の前にいる狛を助ける為に落ちて来る天井を避けるのではなく、猫田の狛を突き飛ばして自分は崩落に巻き込まれたのだ。


 例え強力な肉体を持つ羅刹女のままであったとしても、崩落に巻き込まれ、かつ、炎に焼かれれば彼女の命はもたなかっただろう。ではなぜ、狛を救って自分が助かる事を放棄したのかと言えば、それは既に彼女が命を捨てる覚悟を終えていたからに他ならない。


 ミカはあの時既に、4人のホスト達を殺害していた。彼らは皆、タクトを殺したエンゼの共犯者で、特にカズヤとトイはタクトに酒と睡眠薬を無理矢理飲ませて海に投げた実行犯である。ミカはそれを知った上で彼らを狙っていたのだ。

 自らの手を血で汚す覚悟をしていたミカは、復讐を遂げた後、生きるつもりもなかったらしい。遺されたミカの自室には遺言があり、この墓地に自らの墓があることと、狛に自分の最期を頼む旨が記されていた。彼女は初めから、こうなる事を予測していたのである。


 この墓地を管理する寺の住職によると、一年程前にミカが現れ、木峰家の墓、その隣の区画に墓を建てたいと頼んできたそうだ。元恋人が眠る墓の横に自分の墓を建てたいと願ったミカの話を、住職は一度断った。しかし、相場より多額の金銭と、過疎化で墓地の区画も余り気味だった事から、檀家になる事と、決して自死をしない事を条件に了承したという。


「そうですか、あなたを助けて…自死はしないとの約束でしたが、それは認めないわけにはいきませんな」


 ミカの遺体を荼毘に付し、遺言と遺骨を持って現れた狛から説明を受け、住職は寂しそうに茶を啜って納骨を受け入れてくれた。寿命を吸って真実を語ると言うあの呪具を惜しげもなく使っていたのは、ミカが自分の残りの人生を文字通り投げ打って復讐を果たそうとした、何よりの証拠であった。


 あの後、警察署の霊安室で、狛はミカの遺体にすがって泣いた。まだ彼女とは出会ったばかりで赤の他人に近い存在であるというのに、どうしてそこまで感傷的になれるのかと猫田が聞くと、躊躇いがちに返ってきた答えは意外で、寂しいものだった。


「ミカさんが喫茶店で私と話をした時、ちょっとだけだったけど、私の事を見る目がとても優しくて、寂しそうだったの。それがね、初めてイツの記憶の中で見た、お母さんの目にそっくりだったんだ…」


 つまり、狛はミカに、亡き母親の面影をみていたらしい。狛の母、天が狛を産んで亡くなったのは30代半ば…ちょうど今のミカと同じくらいの歳である。逆にもしもミカがタクトと死別せずに、そのまま一緒に暮していたら、或いは狛のような子供を持って幸せな生活を送っていただろう。ミカはミカで狛を通して、そんな思いを抱いていたのかもしれない。


 そんな言葉を聞いてしまった猫田はもう何も言える事がなく、やるせない気持ちになって、ただ狛の頭をくしゃくしゃと撫でてやる事しか出来なかったのだ。


 そうして、ミカの葬儀を終え四十九日も過ぎた今日、狛達はこの木峰家の墓がある地方の寺へ納骨に来たのである。さすがに一月ひとつき以上の時間が経過している事もあって、狛も落ち込む様子は減ってきたが、この期間は猫田から見ても哀れに思う程、狛は憔悴しきっていた。

 元々、身近で人が亡くなる事も減った時代だ。それでも犬神家は親戚の結びつきが強いので冠婚葬祭は多そうに見えるが、実際の所、そういう世代なのか、狛はまだ直接身内の不幸を経験していない。


 医療も発達し、上の世代が長生きしている事も大きいが、犬神家は裏とはいえ稼業で人の死に直面する家である。これに関しては、あの甘々な拍でさえも放っておくという選択肢しか見いだせなかったほどだ。

 狛は自分を責めながら、この一か月半を過ごしてきた。今日ここへ来れただけでも、精神的に回復してきたと言ってもいいだろう。猫田は狛の隣で、手を合わせ続ける狛の横顔を見て胸を痛めている。

 小一時間ほどそうしていただろうか、海を臨む立地だけあって風は強く、時期的にもこの墓地は非常に寒い。狛の身体はすっかり冷えてしまっていた。猫田は狛に声をかけることにした。


「おい、狛。そろそろいいだろ、もう行くぞ。すっかり冷え切ってるじゃねーか…風邪引いちまうぞ」


「うん、ごめん。もうちょっと…」


 狛はそう答えて中々その場から動こうとしない。このままにしておいたら、本当に風邪をひいてしまうだろう。妖怪である猫田ならいくら居ても構わないが、狛はそういうわけにはいかないのだ。どうすればと悩んでいると、不意にどこからか温かな光と風が辺りに立ち込めてきていた。


「これは…タクト、か?」


 猫田が木峰家の墓の方を見ると、墓前に立ってこちらを見ているかつての飼い主の姿があった。ニコニコと笑みを浮かべているその表情は、一緒に暮していた時に自分を見つめる眼差しと同じものだ。猫田は懐かしさのあまり、言葉を忘れてその姿に見入っていた。

 そしてしばらくすると、今度は四十万美香の墓前に静かに佇むミカの姿が現れた。どうやらタクトは、彼女を迎えに来たらしい。

 それまで目を瞑って手を合わせていた狛も、はたとそれに気付いて声をあげている。


「ミカさん!ごめん、ごめんなさい…私が未熟だったから…!」


 狛の嘆きと謝罪を聞いたミカは、ゆっくりと首を振って、優しい笑顔でそれを否定した。元々、仇を討った後は死ぬつもりだった彼女にしてみれば、命を落としたのは狛の責任ではないと言いたいのだろう。むしろ、最期の最後で狛を救う事が出来て満足出来ているような、そんな思いが伝わってくる。


 やがて、二つの魂は手を取り合って、光りに導かれて天へ昇って行った。罪を犯したミカの魂は辛いものが待っているかもしれない。だが、きっとタクトと共に昇って行けば、迷う事も恐れる事もないだろう。二人が二度と別れる事のないように狛と猫田はポロポロと涙を流しながら、その様子をいつまでも見つめていたのだった。



 一方その頃、狛達の通う中津洲神子学園に、一人の新任教師がやってきていた。黄金色に輝く髪を持ち、顔の作りは整っているが、やや細い目をした狐顔の男がこれから一騒動を起こす事など今はまだ誰も知る由もない…