「はっ…はっ…!」
授業が終わった後、狛はその足でくりぃちゃあへ向かって走っていた。
本来ならまっすぐ家に帰る所だが、昼に思いついたことが気になって仕方がない。今日は猫田が出勤しているはずなので、くりぃちゃあに行けば合流できるはずだ。
とはいえ、ミカが猿の手を使っているのでは?というのは、今の所、狛の思いつきだ。確証はどこにもない。だからこそ猫田に相談して証拠を得たい、狛はそう考えている。
「え?あれって…」
走る狛の視界に見知った顔が見えた。慌てて立ち止まって確認してみれば、それは間違いなくあのミカである。だが、昨日会った時とは別人のように、表情には暗い影を落としていて、陰鬱な雰囲気を身に纏っている。
狛は迷った。一刻も早く猫田に相談したい所だが、今せっかく見つけたミカを見失うのも痛い。なにより、視線の先を歩くミカからは得体の知れない気配が感じられて明らかに普通の状態ではない。放っておいていいものとは到底思えなかったのだ。
「どうしよう。でも、迷ってる時間はないし…そうだ!」
狛はスマホを取り出し、土敷にWINEでメッセージを送る。
――土敷さん、ごめん、猫田さんに伝えて。ミカさんを見つけたけど、様子がおかしいから後を追うわ。猫田さんの仕事が終わったら追いかけて来て欲しいって、お願いします。
土敷と連絡先を交換しておいて助かった。猫田はスマホを持っていないので、こういう時に直接連絡が取れないのが玉に瑕だ。妖怪同士ならば、ある種のテレパシーのようなものが使えるらしいが、生憎と人間である狛にはそれが使えないのである。
「これで、猫田さんは後から来てくれるはず」
土敷はマメなので、必ずSNSをチェックするはずだ。彼に伝えた以上、数時間待てば猫田は必ず来てくれるだろう。あとは、狛がミカを見失わないよう追いかければいい。狛はホッと胸を撫で下ろしながら、ミカの後を追っていった。
ミカを追って辿り着いたのは、中津洲市内の外れにある、工場地域だった。その中の廃工場に、ミカは足を踏み入れていく。この辺りは人通りも少なく閑散としていて、夕方以降は人目につかない場所である。駅前からここまで歩いてきたので、辺りはもう陽が落ちかけている。おあつらえ向きの時間と言う訳だ。
廃工場だけあって、入口には立ち入り禁止の札と鎖が掛かっているのだが、ミカはお構いなしに進んでいった。
「うわぁ…いかにもって感じ、でも、一体ここで何をするんだろう?」
廃工場の前で、狛は息を飲んで呟いた。映画やドラマなら、ヤクザのような反社が根城にしていそうな雰囲気である。ただの反社がたむろしているだけなら怖くはないが、さすがに銃を向けられるような事があれば怖ろしい。もっとも、ミカが入って行ったのだからそんな危険もないだろう。
狛はそっと忍び足で工場に近づき、中の様子を窺うことにした。
その工場の中は広く、何もない空間だった。きっとかつては工業用の機械が所狭しと並べられていたのだろう。よく見ると床には、そんな機械達の置かれた跡がうっすらと残っている。工場の中央にはやや大きめの投光器と、薄汚れたソファーが二つ置かれていて、ミカはその片方に座ると、ふーっと深く息を吐いて目を閉じた。
「ふふ、ようやくここまで来たわ。タクト、私があなたの仇を取ってあげる。だから…」
その言葉の先は、彼女が俯いて両手で顔を抑えた為に紡がれる事は無かった。ミカはただしばらくの間、そのまま身じろぎ一つしなかった…まるで、祈るような姿で。
いくらかの時間が経った後、ミカは懐からいくつかの玉のようなものを取り出すと、順々にそれを投げた。床に落ち、パキンという高い音がして、玉が割れていく。すると、何人もの男達が縛られた姿でその場に現れていた。彼らはあのホストクラブにいたホスト達だ。皆生きてはいるようだが、意識を失っている。
ミカはおもむろに立ち上がると、投光器の向きを変え、倒れ込んだ彼らに光を向けた。
「うっ!?こ、ここは…?」
投光器の光はかなり強い。そんな光を浴びた彼らの内、真っ先にエンゼが目を覚ます。
「て、テメェ!?さっきの…?ここはどこだ?俺達に何をしやがった!?」
「…
「なんだと…!?」
エンゼは光を嫌うように頭の位置を変えて、周囲を見回すが、やはり強烈な光に視界が遮られている。それでもなんとか身をよじって光を避けると、そこはただ何もなく、暗い空間だった。だが、この誇り臭くだだっ広い場所には覚えがある。思い当たる記憶を引き出し、エンゼの額から一筋の汗が流れていった。
「こ、ここは、まさか…」
「思い出したかしら?そもそも忘れていたと言う事さえ許せないわね。あなた達がここで何をしたか、私にはお見通しなのよ」
「お、お前、やっぱりタクトの…!?」
「覚えているじゃない。そうよ、私よ。あなた達が殺した、タクトの女…
少し時間は戻り、工場内に入ったミカを追って外で様子を窺っていた狛は悩んでいた。ぐるっと一周してみたが、工場内に入るには正面の大きな引き戸を開けるか、裏手にある通用口を使うしかない。しかし、通用口には鍵がかかっているし、大きな引き戸を開ければ思いきりバレてしまう。
内部が静まり返っていて、様子が解らないのも厄介だ。どうしたものかと迷って空を仰ぐと、かなり高い位置に窓がある事に気付いた。窓と言ってもガラスは既に無く、窓型に穴が空いているようなものだ。あそこからならば、気を付ければ音を立てずに中に入れるだろう。内側に足場がないと危険ではあるが、そっと降りられればどうにかなりそうだ。
狛は鞄の中から
どうやら、ミカはソファーに座り、何かを祈っているようだった。投光器がスポットライトのようにその姿を照らし、まるで舞台上の光景のようだ。こちらを向いていないのを確認した狛は、そのまま工場の中に入り、器用に九十九を使って音もなく降り立った。
そのまましゃがみ込んで、さらに様子を見る。幸い、もう夕方なので工場内はほとんど真っ暗だ、あの投光器の灯りさえ壁際までは届いていない。息を殺していれば、こちらに気付かれることはないだろう。
狛が隠れている事に気付かず、ミカは立ち上がって何かを床に投げ落とす。すると、瞬く間に複数の男達が現れたではないか。何かの術か魔法のようなものだろう。何故ミカがそんなものを使えるのかは解らないが、狛は続けて聞こえてきたミカの言葉に聞き入っていた。
「…あなた達が殺した、タクトの女…
(あの人達が?でも、どうやって…)
「ミカだと!?あの時の女か?ど、どうやって俺らの事を…いや、俺らがタクトを殺したなんて、証拠はどこにある?!」
「証拠は、これよ」
そう言って、ミカが取り出したのは小さな人形の頭のようだった。遠目からなので解らないが、禍々しい気配は感じられる。あれは恐らく呪具、何者かが呪術に使う儀式の道具だろう。
ミカはその頭を高く掲げて、大声で叫んだ。
「首よ!応えなさい!
ミカの叫びに呼応するように、首と呼ばれた呪具は震え出し、低い男性の声で言葉を放つ。
「応えよう…木峰巧斗は殺された。複数の男達によって、酒と睡眠薬を強制的に飲まされ、海に投げられた」
「なっ!?」
「ならば、もう一つ。首よ!応えなさい!木峰巧斗を殺したのは誰か!」
「応えよう…木峰巧斗を殺したのは、今ここにいる
「ば、バカな!?何の証拠があって…いや、何故俺がタクトを殺す必要がある!?」
「応えよう…長丸円是は木峰巧斗に違法薬物の取引現場を見られた。口封じのついでに木峰巧斗に保険金を掛けて自殺に見せかけて殺したのだ」
「う、嘘だ…どうして知って…」
「ウソを吐いても無駄よ。この首は真実の首…ある人からもたらされた魔法の道具。問いかけた者の寿命を吸って真実を話す…その代わり、この首は決して嘘をつかないわ」
(…そんなもの、聞いた事がないよ。でも、あのホストの人の様子だと間違ってはいないみたい。一体、何なの?あれは)
黙って聞いていた狛だったが、初めて聞く呪具の存在には思わず耳を疑った。もちろん、世の中には無数の呪具や魔法、あるいは術がある。狛が知らないものもたくさんあるだろう。だが、本物の呪具というものは、そう簡単に手に入るものではない。ただの一般人であるはずのミカが、どうやってそれを手にしたのかが謎である。
「ふ、ふん!例えその首が本物だろうと、どうやってそれを証明する!?タクトの件は警察が自殺と認めてるんだ、お前とその気持ち悪い首の言う事なんぞ、誰も信じるものか!」
「…勘違いしているみたいね。私はあなた達を裁判にかけようと言うのではないのよ。証明なんてする必要はないの…私はただ、ここでタクトの仇を取るだけよ!!」
「なんだ、っと…!?うご、ごぼっ!ごば、がっががっ!」
「ふふ、お酒が好きなんでしょう?なら、そのまま酒に溺れて死ぬがいいわ。…タクトのようにね!」
ミカが叫んだ途端、どこからともなくエンゼの頭を覆うように琥珀色の液体が溢れ出し、やがて全身を包む巨大な水球となった。強烈なアルコール臭が、狛の所まで届いてくる。狛には酒の種類など解らないがあれが酒だと言う事は解る。苦しみもがくエンゼを見て、狛は咄嗟に叫びを上げた。
「ミカさん!ダメっ!それ以上人を殺しちゃいけない!」
「?!あなた、どうしてここに…?!」
狛は駆け出し、九十九に再び霊力を流し込む。すると、立ちどころに帯が伸びて、球の中のエンゼを全力で引き抜いた。要を失った酒球は形を崩し、周囲に流れ落ちる。強い酒の臭いが工場内に充満していった。
「ぐぁ!ゲホッゲホッ!ぐうぅ、目、目がぁ…痛ぇ!」
全身を酒に浸されたことで、エンゼは目をやられたらしい。かなりの量の酒も飲み込んでいて、苦しみのた打ち回っている。
「どうして邪魔をするの?そいつらがタクトを殺した真犯人なのよ?」
「そうかもしれないけど、ミカさんにこれ以上罪を重ねて欲しくないの!ミカさん、本当は凄く優しい人でしょ?!私に話をしてくれた時も、私を見る目がとても優しかった。…もうこれ以上はよくないよ、タクトさんの事は、警察に行って…」
「無駄よ!警察はもうとっくに自殺で処理してる、それに、なによりそいつらは、事態が明るみにならないように呪いの道具を使ってるもの!」
「そ、そんなこと…」
あるはずがないと否定したかったが、彼らがミカのように呪具を使っている可能性は否定できなかった。警察を欺いたこともそうだが、一番の問題は猫田を欺いたことだ。
猫田は当然だが警察以上に鼻が利く、しかも、誰よりタクトの傍にいたのだから、彼を騙すのは至難の業だろう。その猫田を欺いて自殺に見せかけて殺すというのは、通常ではあり得ないことだった。
狛が動揺しているその背後で、エンゼは苦しみながら怒りの炎を燃やし、声高に叫ぶ。
「ちくしょう!許さねぇ!願いを叶える手ぇ!!俺を助けろ!他の連中の命を使って、この女をぶっ殺せっ!!」
「え、さ、猿の手を持ってたのは、この人の方?!」
狛が驚愕の声を上げる中、エンゼの懐から怪しい光が漏れ出し、工場内を照らす。その眩い光が消えた時、いくつもの男達の身体が一つになり、不定形な肉の塊となった、醜悪な怪物がそこに現れていた。