土敷から衝撃の事実を聞かされた狛は、半ば放心状態に近い形で、とぼとぼと歩いていた。
「私って猫田さんのこと、何にも知らないんだなぁ…」
そろそろ二カ月になろうかという期間、猫田と暮らしてきた中で、勝手に猫田の事を知ったつもりでいた自分が恥ずかしい。よくよく考えてみれば、狛は猫田がどのくらい生きてきたのかも、詳しくは知らないのだ。
それは、狛があえて聞かなかったということでもあるのだが、猫田が自分から話さなかったことでもある。
これについては、別に猫田があえて隠しているわけではない。聞かれないから話していない、それだけのことである。あれだけ人懐っこく見えても、その辺り猫田はどうしようもなく猫であり、ドライな性格だ。わざわざ自分の事を知ってもらおうとか、そういう考えがないのだ。
もちろん、猫田自身、あまり大っぴらに話したくない事もある。先日、病室で見ていた夢のように、猫田がいかにして妖怪へ変化するに至ったのかなどは、出来れば思い出したくない話であろう。
狛には知る由もない話ではあるが、そういう本人の気質も相まって、ほとんどのことは聞かれなければ話さないのである。
ではなぜ、タクトという男について、狛に話をしないのか。それは、猫田にしか解らない事であった。
「ただいまー…」
「帰ったか狛!遅かったな!…ど、どうした?何かあったのか?」
狛が玄関を開けると、ちょうどそこに拍が立っていた。アスラを散歩させていた帰りだったのだろう、拍は帰ってきた狛を抱擁しようとしたが、狛の様子がおかしい事に気付いて踏み止まり、おろおろと狼狽えていた。年頃の娘である狛の異状に、拍は自分が嫌われたのではないかと恐れをなしているらしい。そもそも帰宅するなり兄が妹を抱き締める行為が異常なのだが。
「お兄ちゃん…ごめん、そこ邪魔だからどいて。疲れたから、ちょっと休むね」
「じゃ、ま…っ!?」
手を洗って自室に向かう狛の背中を、邪魔者扱いされてショックを受けた拍は呆然と見つめている。アスラはちらりと拍に視線を向けたが、狛と一緒の方がいいのか、狛の後についていってしまった。
「うぉっ!?は、拍様、どうかなさいましたか?」
30分ほどして、玄関を通りかかったハル爺が、立ち尽くす拍の姿に驚いたのは別の話である。
夕食の後、しばらくして狛が部屋で横になっていると 、コンコンとノックの音がした。
「はぁい」
やる気が出ず、少し間延びした言い方で狛が返事をすると、ドアを向こうから猫田の声が聞こえてくる。
「あー…俺だ。少し、いいか?」
どこかためらいがちな、やや緊張感のある猫田の声色に、狛は驚いて飛び起きると、ベッドの端に座って返事をした。
「あ!う、うん…!どうぞ」
そんな狛の返事を確認すると、猫田はゆっくりとドアを開けて部屋に入ってきた。その表情はどことなく陰というか、浮かない顔にみえ、まるでイタズラがバレた子供のようであった。
「猫田さん、どうしたの?」
アスラや猫田は、いつも狛と一緒に寝ているが、いくらなんでもまだ寝るには早い時間だ。それに、猫田のこの雰囲気は、いつもの猫の姿でベッドに乗ってくる時とは違う様子である。
狛の方にも猫田に聞きたい事があったとは言え、内容が内容なので少し身構えてしまう。それでも狛は努めて明るく、猫田に声をかけた。
「実は、土敷の奴から連絡があってよ。お前が気に病んでるからちゃんと話をしろって怒られちまった。…聞いて楽しい話じゃねーが、聞いてくれるか?」
正確に言うと、土敷から連絡があったのは事実だが、怒っていたのはくりぃちゃあの面々全員である。特にハマさんは激怒しているようで、仲直りしなければマタタビのフルコース責めにするとの脅しまでつけられた。彼らは元々人間を好いた妖怪達だが、それを差し引いても狛に対する好意は凄まじかった。さながら、彼らのアイドルのようである。
(狛の奴、好かれ方が半端じゃねーんだよな…)
猫田は他人事のように呆れているが、自分も狛への肩入れがかなりのものだとは気付いていない。宗吾のこともあるとはいえ、狛は猫田にとっても大事な人間の一人になっているのだ。
「うん。私も聞きたいと思ってたから…聞かせてくれる?」
「そうか、解った」
そんなやり取りを交わすと、猫田はすっと猫の姿に変わって、ベッドの上に飛び乗って狛の横に座った。反対側にはアスラが伏せていて、傍から見れば、狛がとても動物に懐かれている微笑ましい姿に見えるだろう。だが、猫田が話そうとしている内容は、明るいものではなさそうだ。
「すまねーが、あの頃はずっと猫のままだったから、こっちの方がなんとなく話しやすくてよ。…さて、どこから話すか」
猫田は狛の隣で宙を見て、ゆっくりと思い出を手繰り寄せているようだった。そのまましばらく黙ったあと、懐かしそうに目を細めて話し始めた。
「…あれは、12~3年前になるかな。俺は色んな所にねぐらを構えてたんだが、当時から土敷の奴が店をやっていて、それを手伝ってたからこの街に戻ってきたんだ。今ほど頻繁にじゃなく、気が向いたらだったがな。そんなもんで、土敷から金を貰ったら人間の真似事をして、後はこの姿で気ままに暮らす、そんな毎日だったよ。特にやりたい事もなかったし、野良猫の暮らしも嫌いじゃないからな」
「うん」
懐かしみながら話す猫田の表情は穏やかで、何とも猫らしい愛らしさがある。狛もまた、当時の猫田の暮らしぶりを想像すると、つられて微笑みがこぼれるようだった。
「そんな生活で、気が抜けてたんだろうな。ちょいとポカをやらかしちまった」
「ポカって?」
「…車に跳ねられそうになったガキを助けちまったのさ。代わりに俺が轢かれてな、ありゃあ中々痛かった。さすがにあんなもんじゃ死にはしねぇが、ちと動くのもしんどくてよ、その辺で適当に隠れてた俺をたまたま見つけたのが、タクトだったのさ」
死ななかったとはいえ、車に跳ねられれば痛みは相当なものだっただろう。猫田の話から想像してしまった狛は、顔を歪めながら隣にいるアスラを抱き寄せている。
「当然だが、あいつは俺が猫又だって事は知らなかったからな。慌てて病院に連れてったりなんだかんだしてる内に、俺を飼うつもりになったらしい。しばらく一人の生活が続いてた俺も、退屈してたからな、しばらく付き合ってやることにしたんだ」
「うん」
「あいつは、タクトは田舎で母親と二人で暮らしてたらしい、子どもの頃は猫を飼ってたとも言ってたな。地元じゃ評判なくらい顔が良かったからって、こっちに出てきてホストを始めたんだと。一流のホストになって金を稼いで、母親を楽させてやるんだってよく俺に話してたよ。…猫にそういう話をする奴は、結構多いんだぜ?」
猫田はそう言うと、狛の顔を見て少し笑ったようだった。狛もよくアスラに話しかけるので、タクトの気持ちはよく解る。狛は少し笑いながら、頷いてみせた。
「ただ、タクトの奴はホストなんか向いてなかったんだ。後から色々知ったが、女を騙して持ち上げて金を貢がせるなんて、確かにあいつにゃ無理だ。バカ正直で優しすぎる、そういう奴だった。しょっちゅう店の先輩にどやされてたみたいだしな。…それでこの間、お前と一緒にいる時に会ったあの女はタクトが付き合ってた女さ。名前は、ミカって呼んでたな」
猫田はミカの事になると、急に顔をしかめさせて不機嫌そうになった。ミカとタクトの間に何があったのか、狛は気になったが、聞くのが少し恐ろしい。
「俺がタクトに拾われてから、一年くらいしてからだった。ある時、あのミカが突然行方をくらましたんだ、タクトが貯めてた金を持って…」
「そんな…!?」
「その金は、タクトにとっちゃなけなしの金で、ずいぶん大事なもんだったらしい。そこからだ、あいつがおかしくなってったのは。大して強くもねぇのに、連日酒を飲まされまくって、それで仕事で失敗を繰り返して…結局、追い詰められたあいつは酔った勢いで海に身投げをしちまった。全く、勝手な奴だったよ」
言葉とは裏腹に、猫田から辛そうな思いを感じた時、狛は自然と猫田の背中を撫でさすっていた。猫田は一瞬ビクっとしたが、何も言わずに撫でられるがままになっている。しばらくそうしていると、猫田は落ち着いたのか、辛そうな気配は薄れていた。
「まさかミカが、あの女が戻ってきてやがるとは思ってもみなくてな。ここんとこ出歩いてたのは、タクトの墓参りやらをしてたからさ。田舎って言っても、俺からすりゃそんな距離でもねぇしよ」
「そうだったんだね…じゃあ、あのミカさんって人が猫田さんとタクトさんと間違えたのは」
「俺がいつも人に化けた時に着てみせてるのは、あいつの…タクトがよく着てた服を真似てるものなのさ。俺にゃ人間の服の流行りなんて解んねーからな。たまたま背格好も似てたから、間違えたんだろうよ」
狛はそっか、と納得したが、どうにも今の話で引っ掛かるものがあった。ただ、その違和感はタクトの事をよく知らない狛が感じているものなので、正しいかどうかは解らない。
その為、猫田にはあえて告げず、心にしまっておくことにしようと決めた。
「別に俺はくりぃちゃあの連中ほど、人間が好きってわけじゃねぇ。人間なんて弱っちくて、すぐ死んじまうクセに、ポンポン危険に飛び込んでくお前みたいなやつがいるからな」
「あ、あはは…」
思い当たるフシが多すぎて、狛は思わず笑って誤魔化すことしかできなかった。だが、そう言いながらも、猫田はそんな狛の事を気に入っているのだ。それは痛い程よく解る。それは、続けて放った猫田の言葉からも明らかなものであった。
「狛、お前は…その、簡単に死ぬんじゃねーぞ」
「猫田さん…うん、大丈夫だよ。絶対、そんなに簡単に死んじゃったりしないから」
自分で言って気恥ずかしくなったのか、猫田はそっぽを向いてしまった。そんな猫田が、狛にはとても可愛く思える。
だが、二人はまだ気付いていなかった。ミカという女性が、この街に戻ってきた理由と、その恐るべき計画にも。