第8話


 そんなときだった。 



 レティシアの腰に腕を回した魔導士が、馬上で舌打ちする。



「油に仕込んだ魔法が打ち消された痕跡があるな……」



 瞬時に、レティシアは悟った。オマエの仕業か。



「ジオ・ゼア、もしかして覗き穴から注いだ油って……」



「闇魔法を軽く混ぜた特殊な油だったんだけど、でも、おかしいな。闇炎ダーク・フレアは、僕の指示した範囲で燃やし尽くす性質がある。証拠として地下室付近と3階だけは無傷で残すつもりだったんだけどね」



 振り向いた先には、笑顔のまま首をかしげる魔導士がいた。



「たぶん、脳筋将軍が闇炎ダーク・フレアごと吹き飛ばしちゃったのかな」



 その可能性は否めない。



 とにもかくにも現場に急がなければ、シモーネの『隠し部屋』や『地下通路の入口』もろとも、スフォネ子爵家に全壊の危機が迫っている。



「それにしても、相変わらず威力だけは凄まじいな」



「ジオ・ゼア、急いで!」



 大事な証拠が失われたかもしれないというのに、暢気のんきな様子の魔導士をかし、レティシアは城館へと向かったのだが──



 ジオ・ゼアの予想は、大方当たっていた。



 城館の惨状たるや……



「うわぁ、酷いな。ここまでする?」



 オマエが云うな、と云いたいところだが、これがスフォネ子爵家でなかったら、レティシアも心を痛めていたにちがいない。



 城館の正面には、それはそれは大きな穴が開いていた。直径3メートルはありそうな空洞が屋敷を貫通して、奥の景色が見えるという惨状だ。



 綺麗に刈り込まれた芝生は陥没だらけで、正門があった場所から地表を抉りとったような亀裂が、屋敷内へとつづく大穴につながっていた。



 城館の正面にあったはずの堅牢な門は、いったいにどこに飛んでいったのか。



 レティシアが探すと、子爵家の紋章が象られた門は、かろうじて骨組みが残っている城館の中ほど、斜めに折れ曲がった尖塔の先に、ひしゃげた状態でぶら下がっていた。



 すっかり風通しが良くなった城館の大穴からは、大声が聞こえてくる。



「アンナマリ―ィィィィ!! どこだぁぁぁぁ!」



「…………」



 眉間を押さえたレティシアに、そっと近づいてきたのは、お目付け役の騎士だ。



「30分ほど前に御着きになられた将軍閣下はボヤ騒ぎを見たとたん、令嬢の身を案じるがあまり単身突撃しまして……それを見た冒険者の方々も次々と追撃していき──」



 もうそれ以上は、聞く必要がなかった。





◇  ◇  ◇  ◇





 時はさかのぼり──



 スフォネ子爵家の城館に大穴があく1日ほど前のこと。



 首都アシスにあるスフォネ家の別邸タウン・ハウスでは、早朝から瓦礫やガラス片の撤去作業が行われていた。



「ひとつひとつ、良く見るのよ。もし、宝飾品らしきものがあったら、すぐに知らせなさい」



 シモーネの指示により、黒焦げになった瓦礫や資材、ガラス片にいたるまで、目を皿のようにして確認していく作業が、使用人たち総出で行われている。



 中庭での作業に目を光らせながら、シモーネはきつく下唇を噛んでいた。



 なんとしても、見つけなければ──



 探し物はもちろん、薄紅色の指環メモリー・リングだ。



 あの指環には、10年以上にわたる研究の成果やこれまでの計画がすべて詰まっている。封印が施されているとはいえ、手元になければ安心できない。



 もし外部に流失して、それが皇室側の人間に渡ったら……それはスフォネ家の破滅を意味していた。



 こんなところで、計画を頓挫させるわけにはいかない。



 シモーネには長年の夢があった。それが、あと少しで叶うところまできているのだ。必ずや計画を成功させ、わたしはジハーダ王の側妃になる。



 王の横に並び立つ準備は着々と進んでいた。



 桃華蘭の媚薬の粉末化に成功し、ジハーダ国からの斥候がオルガリアに侵入できるように、地下通路も完成させた。そしてなにより、ジハーダ王の『最大の弱み』を掴んだのだから。



 あれが公になれば、王室は転覆するだろう。王族直系の血を存続させたければ、ジハーダ王はシモーネを側妃にし、寵愛するよりほかの道はない。



 残るはこの計画さえ成功すれば……すべてがうまくいく。



 爵位の低さから輿入れに異を唱えるジハーダ王の側近たちは、シモーネの忠誠と貢献を認めずにはいられないだろう。



 ジハーダ王側の側近がシモーネを推挙すれば、面倒な王妃派の貴族一派を黙らせることができる。そうすれば晴れて、ジハーダ王国の側妃シモーネの誕生だ。



 そして、ゆくゆくは王妃を毒殺して……わたしが正妃として、ジハーダ王のとなりに立つのよ。そのためにも、なんとしても薄紅色の指環メモリー・リングは回収しなければならない。



 中庭にある瓦礫の山を、シモーネはイライラしながらみつめていた。



 あの騎士は、本当に余計なことをしてくれた。公爵家の者でなかったら、あの赤頭を足で踏みつけて、額を土に擦り付けてやったというのに!



 あれから幾ら考えても、指環を紛失したとすれば、あの騒動しか考えられなかった。



 媚薬で意識が混濁していたロイズ卿が奪えたとは考えにくいし、念のため確認をしたところ、たしかに巨悪犯が脱獄したという報告が、別邸タウン・ハウス区域の騎士団待機所に上がっていたのだ。



 それでもシモーネは、胸につかえる違和感を払拭できないでいた。



 もし、指環が意図的に奪われたのだとしたら──最悪の事態が、シモーネの胸を去来していたときだった。



「シモーネ様! ここに指環らしきものが!」



 待ちに待っていた使用人の声が、庭に響いた。