第39話 葛藤と躊躇

 アントニアは、ゴットフリートのことで頭がいっぱいだったので、目の前の礼拝堂の扉が開くのに気付くのが遅れた。


「キャッ?!――あっ、コーブルク卿?!」

「シスターアントニア、驚かせて申し訳ない」

「いえ、私が前をよく見てなかったせいです」


 礼拝堂から出てきたラルフは、驚かせたことをまずアントニアに詫び、ゴットフリートを見ると顔を綻ばせた。


「兄上! やっぱり来たんですね! よかった!」

「あ、ああ……」

「シスターアントニア、兄に礼拝堂の中を案内してくれますか?」

「あ、はい、もちろんです」


 ゴットフリートは行かないと散々言っていたのに結局来たので、ばつが悪そうにしている。ラルフはそんな兄の様子に気が付かない振りをして率先して妻ゾフィーと礼拝堂の中へ入っていった。


 全員礼拝堂に入ったのを見て、アントニアは礼拝堂の歴史や普段の礼拝の様子を語り始めた。礼拝堂の中や図書室や聖器室、食堂を案内する時間がなくなりそうなので、礼拝は省くことにした。アントニアは短い説明を終え、図書室と聖器室へ3人を案内しようとした。


「図書室と聖器室をご案内しますね。コーブルク小公爵ご夫妻はもうご覧になったかと思いますが……ゴットフリート様はどちらを先に見学なさりたいですか?」

「シスターアントニア、それは後にしてこっちに行こう」


 ラルフが向かったのは、先ほどゾフィーと2人でお茶を飲みながらゴットフリートを待っていた部屋だった。


「あ、でもそこは……」

「心配しなくても院長先生の許可は得てあるよ。さあ、座って。俺達は外で待ってるから2人でちゃんと話して」

「え?でもそんな訳には……」

「大丈夫、扉は開けておくし、俺達はすぐ横のベンチに座って待ってるから」


 ラルフとゾフィーが出て行っても、アントニアとゴットフリートはテーブルを挟んで無言で座ったままだった。2人とも何から話していいのか全く自信を持てず、相手が話し始めてくれないかとお互いに思っていた。


 居心地の悪い無言が続いてしばらく経った。ラルフとゾフィーをあまり待たせる訳にもいかない。2人とも同じように思ったらしく、偶然ほとんど同時に口を開いた。


「えっと……」

「あの……」

「あっ、シスターアントニア、お先にどうぞ」

「い、いえ、ノスティツ子爵閣下からどうぞ……」

「あ、あの……以前のように……ゴットフリートと、よ、呼んでいただけますか?」

「はい。それではゴットフリート様、私のこともアントニアとお呼び下さい」

「は、はい、そ、そうします……」


 それきりまた沈黙が部屋を支配した。2人とももじもじと下を向いて互いを見ないようにしており、沈黙が永遠に続くかのように感じられた。


 その時、遠慮するような微かなノックが聞こえ、2人ともびくっとした。決まりが悪そうにラルフが半開きの扉から顔を出した。


「ちょっとは話せた?」


 アントニアとゴットフリートはばつの悪そうな顔をして無言で首を縦に振ったが、ラルフは2人の様子を見て本当は話せなかったんだろうと察した。


「急かすようで悪いんだけど、受付終了時間から30分過ぎちゃったんだ。あと30分したら、訪問者は帰らなきゃいけないって聞いたからさ……」

「ああ、ラルフ……」

「兄上、ちょっとこっちに来てくれる? すぐに終わらせるから」


 ラルフはゴットフリートを部屋の外へ手招きし、ゾフィーの座っているベンチから少し離れた所へ兄を連れて行った。


「兄上、本当は全然アントニアと話せていないんだろう? 勇気を出してせっかくここまで来たんだ。これを逃したら次に会えるのは1年後だよ! せっかく来たんだから、悔いのないように話そうよ」


 ラルフは項垂れているゴットフリートの両手を取って顔を覗き込んだ。


「俺は……情けない兄だ……弟にずっと負担かけて……今やっと気付いて頑張ってるけど、父上も母上も全然改心してくれない。借金だってまだ少し残ってるのに、こんなんじゃまたいつ借金してくるか分からないよ。こんな家を継いだ俺が今更どうやってアントニアを口説ける?」

「兄上!それは義父上に頼んで一括で返そう。父上と母上の監視は俺も協力するよ」

「駄目だよ、父上と母上の監視に時間なんて使わないで自分の家庭を大事にしてくれ。借金は頑張ってうちから返すよ。伯父上に借金や援助を頼む訳にはいかない。あんなに支度金をくれたんだ。本来だったらお前の婿入りの支度に使うべきだったのに全部返済に消えてしまった…」

「いいんだよ。元から義父上もそのつもりだった。これから一括で返す分は後で俺の歳費から返すから大丈夫だよ。父上と母上の監視は、俺達が直接しなくても人を使えばいい。うちには十分人手があるから気にしないで」

「それじゃあ、また弟におんぶにだっこじゃないか。俺はやっぱり情けない兄だ……」

「兄上! いい加減、グズグズ悩むのは止めろよ!」


 普段穏やかなラルフが突然大声で怒鳴ったので、ゴットフリートは驚いてびくっとしてしまった。あまりに大きな声だったので、ラルフは離れたベンチに座っているゾフィーと目が合った。アントニアのいる部屋の扉は半開きになっているので、彼女にも聞こえてしまったかもしれない。しまったと思ったラルフは声をひそめて言葉を続けた。


「兄上、それじゃあ、なんでここまで来たんだ?彼女に会いたかったから、彼女と話したかったからだろう?何も再会してすぐ口説かなくたっていいんだよ。失われた11年を埋めるためにとにかく会話から始めようよ」

「でも……俺が彼女をどう思っているか、すぐにばれちゃうだろう?」

「それがどうしたって言うんだ! 好きなら好きって相手に気持ちを伝えて何が悪い?」

「でも俺みたいに困窮した家の当主に好きって言われてもアントニアは困るだろう?」


 ゴットフリートの『でもでもだって』がまた始まり、ラルフはため息をついた。


「彼女だってうちの父上と母上がどんな人達なのか知っているよ。それにうちの状況だって聞いているだろう。それで兄上と復縁できないって思ったら、彼女ははっきり断るだろう」

「今だってはっきり断られているじゃないか。お前への返事にそう書いてあったよ」

「兄上は女心をもうちょっと理解する必要があるよ。俺に言わせれば、離婚経験があって子供もいるから、アントニアは遠慮してるんだと思うよ」

「お前に女心が分かるとは思えないけどな。ゾフィーさんに聞いてみようかな」

「な、何言ってるんだよ! 俺は結婚してるんだから、少なくとも兄上よりは分かるよ! と、とにかくアントニアと話すんだよ! 1年に1回のチャンスなんだから! これだって色々お膳立てしたんだよ。俺の努力を無駄にしないでくれ。もう時間がないよ、早く戻ってアントニアと話して!」


 ラルフは兄の背中を押した。その手は温かく、ゴットフリートは弟の親切を無駄にしたくないと思った。


「ああ、ありがとう。わかった。とにかく話してみるよ」

「そうだよ、その意気だよ」


 ラルフは顔を輝かせたが、懐から時計を出して時刻を確認すると、少し表情が陰った。


「残念だけど、あと20分しかない。時間が来たら扉を叩いて合図するね。俺達はここで待ってる」


 ゴットフリートは弟のお節介に感謝しながら、急いでアントニアの待つ部屋へ戻った。