第26話

もう少しで駅に着く。そしたら、お疲れ、と言って私たちはお互いに背中を向けるのだ。


だけど、まだ一緒にいたいと言う気持ちがむくり、むくりと起きて来る。ご飯食べに行こうよ――そう言えたらこのあとまだ一緒にいる事が出来るのに、中々私の口はそれを言う事が出来ない。


あの日のように『月見そば二つ』と強引にどこかへ連れて行ってはくれないだろうかと他力な事を考える自分も出て来ていた。


同僚とご飯に行くくらい大した事じゃないはずなのに、私の口からとうとうそのセリフが出る事はなく、駅に辿り着いた私たちは「お疲れ様」と言い合ってお互いに背中を向けた。


途中で一度振り返ってみるものの、松岡くんはこちらを振り返ることなく人波に飲み込まれて姿を隠した。


「はあ……」


大きな溜め息も駅構内の喧騒にすぐ掻き消されてしまう。この心にすくい始めた気持ちも自覚する前に消えてしまえばいいのにと願ったが、想いは大きく育つ一方のようであった。




私が振り返る前に松岡くんが足を止めてこちらを見ていたなどという事をつゆほども知らず、私は電車に乗った。




翌日、どことなくニヤニヤ笑いを浮かべている結城さんに、何? と聞いていた。


「昨日はどうしたんですか? 二人でディナーとか? キャッ、いいな〜」

「はい? なんの事?」

「またまた〜、とぼけなくていいですから!」

「え……」

「え?」


全く分からない顔の私を見て、冗談ではないのだと悟った結城さんがその大きな目を更に見開く。


「まさか?」

「え? だからなんなの?」

「昨日は何月何日ですか?」

「五月三十一日?」

「はい。それで?」

「それで……?」

「うわ〜マジですか!?」

「え、何なの、何なの???」

「だから〜、誕生日じゃないですか」


最後に小さく、松岡さんの、と囁かれる。

そう言われてみれば、川辺と松岡くんと結城さんと四人でご飯食べに行った時に自分の誕生日が何月だとか言っていた気もするが、それを今の今まで綺麗に忘れていたのだ私は。


「彼氏の誕生日なのに何もしてないんですか?」


結城さんに向かってコクコク頷く。


「どうしようか? どうしたらいいかな?」

「私に聞かれても……。とりあえず、……おめでとう、くらいは言った方がいいと思いますけど」

「そうだよね。ありがとう結城さん」

「いえ。……でも何か意外です。そういうのマメな方なのかと思ってたから。意外と抜けてるんですね月見里チーフ」

「あはは、そうだねー」


笑って誤魔化すが、確かに恋人の誕生日を忘れた事なんてなかった。毎年毎年、誕生日が近付くとプレゼント選びに当日どう過ごすかおおいに悩んでいたというのに……。


私と松岡くんの間にあるのが嘘の関係だとしても、彼女のフリをしてあげると言った以上はちゃんとお祝いもしてあげるべきではなかったのか。……いや、ちゃんと計画的にお祝いをしてあげたかったな、と落ち込む。


それに結城さんは誕生日を覚えているのに、私は覚えていなかった。

それが想いの大きさを示しているようにも思えてまた胸が苦しくなる。


息苦しい。


この想いに蓋をしておくのも、そろそろ限界なのかもしれない。



「じゃあ電気消すね」


誰もいない営業部の電気を落とす。


「お疲れ様でした」


今日は遅くなりそうだという松岡くんに合わせて私も最後まで残業した。


「あ、あのさ」


帰ろうとする背中へ声を掛ける。本当は食事でも行こうよ、って誘いたい。……でも誕生日の事も忘れてる私に誘われても嫌な気分にさせてしまうんじゃないだろうかと、どこか後ろ向きになる。


「どうしました?」

「えっと、……その、」

「外で待ってますから、着替えて来てください。ほら、早く」

「あ、うん、着替えてくるね」


パタパタと走ってロッカールームに急ぐ。制服を脱いで私服に着替えて、はっとする。


普段通りと言えば普段通りだけど、可愛いさの欠片もない服に、この後の時間を二人で過ごすには似つかわしくない気がして、やはり食事に誘うのは辞めようかと悩んでしまう。


悩んでいても解決する訳ではなく、松岡くんが待っている外に急ぎ足で出た。


「ごめんね、お待たせ」

「じゃあ帰りましょうか」


うん、と頷いて並んで歩く私の横で松岡くんが、お腹空きましたね、と言う。

そう言えば昨日も同じセリフを言ってなかったっけ?


昨日は自炊するのかという話しに流れたが、これはもしかしたら、食べて帰らない? と誘える雰囲気かもしれない。


今日こそは、と息を吸い込んで誘ってみる。そう、なるたけ自然に、自然に、誘ってみるんだ。


「私もお腹空いたな。ねえ、どこか食べに行かない?」


私のその言葉に松岡くんは私の目を見ると、ええ、と頷く。


「いいですよ。どこに行きましょうか?」

「松岡くんは何が食べたい?」

「僕は何でもいいですよ、月見里さんは?」


私が訊いているのに聞き返さないでよ、と思いながら、そうだな〜、と考える。


ちょっとお祝いも出来るようなお店で、予約してなくてもすぐに入れそうな所は……、と思い悩むのだが頭に浮かぶのはどうしてか【キッチン みやび】で……。


「あぁ〜、だけどなぁ〜、あそこは……」


一応身内がいるが、松岡くんをただの同僚だと紹介すれば大丈夫だろうか。


「どこですか?」

「うん、ご飯の美味しい所があるんだけど」

「じゃあ行きましょうよ、そこに」


だけど、まあいいか、と了承して案内する。

雅くんにならデザートプレートを、バースデー仕様にしてくれと無理も言えるし、……そうしようと私は考えて【キッチン みやび】に向かった。