ワンポールテントを、岩に当たり水が跳ねる川沿いに組み立てた。
折り畳み式のイスとミニテーブルを置き、葉巻用の細長い灰皿と甘い香りを揺らす葉巻。
香りにうっとり目を細めるのは赤ずきん。
彼女の斜め前には体長160センチの大柄な狼が、川に左半身を向けてお座りの姿勢で待つ。
大きな口に、リールのない釣り竿を銜えていた。
琥珀の左目は川の流れと釣り糸の行方を捉える。
「最近ハマってるね、狼さん。肉より魚の方がおいしい?」
『……』
「結構流れが強いけど、釣れるの?」
『……』
「狼さん」
『がふがふがぁ』
赤ずきんは分かったように頷く。
「なるほど、串焼き派。私はムニエルがいいなぁ」
特に何も言い返さない。
釣り糸がぐいぐいと引っ張り始め、前脚と後ろ脚を踏ん張らせて顔を大きく振った。
軽く弾ける音に、赤ずきんは目を丸くさせる。
狼も驚いて横に転んでしまう。
「あ」
狼の口の中で破片が飛び散り、竿は激しく流れる川へと引きずり込まれていく。
『がぁああ! 竿がぁああ!!』
狼は器用に悲鳴を上げた。
「どこかの小屋にあったぼろ竿だからね、仕方ないよ」
『くそっ! 老いぼれの余暇が』
伏せて尻尾まで地面につけた狼は、惜しむように川を眺める。
赤ずきんは葉巻の火のついた先端に息を吹きかけ、煙を消す。
専用の小さな容器に入れてカバンへ。
「さ、行きますか」
ライフルとリボルバーを装備。
狼の横顔を撫でた後、閉じた右目にリップ音をつけて口づけ。
川沿いを進むと見えてきた坂の町。
馬車が対向できるほどの広い橋を渡り終えた後、狼はそこで立ち止まり、お座りの姿勢で待つ。
町の門をくぐり、内側に踏み込んだ。
緩い上り坂に、柱で支えられた家々が平行に建ち並ぶ。
食料雑貨店の看板を見つけ、短い階段を軽々と上って入ると、窓の外を不思議そうに眺めている店主がいた。
「あ、いらっしゃいませ。外の橋にいるデカいのってお嬢さんのペット?」
口ひげをはやした店主が訊ねる。
「えぇ大切な私の相棒です。賢いですよ、おじいちゃんですし、あと魚派ですね」
補足に店主は傾げた。
「へ、そ、そうなんだ。けどあの狼はもうだいぶ昔に絶滅したって聞いてたよ」
「絶滅、ですか」
「四足歩行は狩人に全て駆除されたって話。そしたらなんでか人間みたいに歩く狼ばっかり増えてね、それはそれで困ったもんですが」
赤ずきんは静かに目を細めた。
「困りごとなら私、人食い狼を駆除できますし、他の小さなことでもしますよ」
店主は赤ずきんの身なりに怪訝そうな表情を浮かべる。
「そんなこと言われてもねぇ、この町にはもう狩人がいるから……お嬢さん、何者?」
「何でも屋です。いろんな町に行って、依頼をこなしてお金を稼いでいます」
難しく唸る店主は、腕を組んでカウンターの内側を覗いて探し回る。
「そだ、人食い狼の駆除ができるぐらい腕が立つ美人なお嬢さん。森に住んでる頑固なじいさんに食料を運んでくれないかい? 配達は狩人の仕事じゃないそうで。報酬は、そうだな、この店にある物を少し」
赤ずきんは依頼を受け、ひと月分の食料が入った箱を台車に乗せた。紐で固定して、落ちないようにする。
「じいさんが住んでいるのは、橋を渡った先の森。真っ直ぐ行けばすぐに着くから」
先程渡った橋の向こうには、森が広がっている。ほのかに白い煙が空へ。
「分かりました。それでは行ってきます」
赤ずきんは店主に手を振り、台車を押して緩やかな坂を下ると、待っていた狼が身体をゆっくり起こす。
『なんだその大荷物』
「お仕事だよ。森にいる頑固なおじいさんに食料を渡しに行く」
『また森か』
「別に1人で行ってくるよー」
『……』
待たずに橋を渡る赤ずきんの後ろを、弱々しい足取りで追いかける。
さほど茂みのない森は、陽の光が十分に差し込む。誘導するかのようにあぜ道が作られ、少し遠くに小屋が見える。
「ここ、意外とちゃんと管理されてるね。人食い狼は出てこないかも」
『ニオイはあるが、近くにいない』
「その方が弾も節約できて有難い。お金かかるからね」
煙突がついた小屋の前に台車を置く。扉と横には小さな窓。
扉をノックするが返事はない。もう一度ノックするが、何も聞こえない。
「すみませーん、食料を届けきましたー!」
今度は大きめに呼びかける。
すると、扉が微かに開き、隙間から細く厳つい目が睨むように赤ずきんを見下ろした。
ほのかに嗅ぎ慣れた香りが赤ずきんの鼻腔をくすぐる。
「なんでガキが、獣も」
毛皮のベストを着た坊主頭の男性が険しい表情で顔を出した。剛毛の髭が首まで隠す。
「こんにちは。食料雑貨店の店主さんから依頼され、食料を届けに来ました」
「あの野郎、人食い狼なんかにビビりやがって……」
1人と1匹の身なりと台車をジロジロと見ながら、男性は部屋から代金を持ってくる。
隙間から覗ける室内には、たくさんの葉巻が専用の棚に保管されていた。
分厚い木箱がたくさん並び、葉巻を削るカッターや、高級なマッチが整頓して飾られている。
赤ずきんは灰皿に乗っている葉巻から漂う甘い香りに、目を細めた。
いい香り、そう呟いた。
「なんだ、ガキのくせに」
食料代を乱暴に渡してくる男性から受け取り、赤ずきんは頷いた。
「香りを堪能するのが乙なんですよ」
「あぁ?」
眉を顰める男性。
「って、以前おじいちゃんが教えてくれました」
少し間を空けて鼻で笑った男性は、待ってろ、と零して部屋の中へ。
木箱のロックを外して1本の葉巻を取り出す。
「俺はカルロス、葉巻を作ってる。じいさんに渡してやれ、思わず吸いたくなる一品だ」
目を輝かせて受け取った。
「ありがとうございます」
「ふん、さぁ日が暮れる前に帰んな、もうすぐ人食い狼どもがうろつく時間だ」
「はい、お礼にこれをあげます」
葉巻専用の小さな容器から葉巻を取って、カルロスに差し出す。
「よその葉巻なんぞいらねぇ」
「これはおじいちゃんが作った葉巻ですよ。うっとりしちゃうぐらい甘い香りなんです」
「いらねぇ、さっさと帰れ」
カルロスに受け取る気がなくても、ぐいぐいと差し出す。
「吸わなくてもいいんです。まだありますし」
「しつけぇな……ちっ分かった分かった、変なガキだ」
カルロスは渋々と葉巻を受け取る。
「褒めてもこれ以上出ませんよ」
「褒めてねぇよ」
カルロスは口をへの字にして、苦い表情を浮かべた。
「ったく、どけ」
荷台から食料が入った箱を小屋の中へ運んでいくカルロス。
扉が全開になり、室内がはっきり見えるようになる。
ベッドは乱雑で、シーツや布団が床に放り投げられていた。
壁掛け棚に飾られた写真立てには若い女性と、照れくさそうに写るカルロスの写真。
他にもショットガンが壁に掛けられている。
「用は済んだだろ、もう帰んな」
「失礼ですが、人食い狼さんがいる森にどうして暮らしているんですか?」
「ここが俺の家だからに決まってんだろ。人食い狼なんぞ大したことじゃねぇ。じゃあな」
扉が強く閉まる。
「あらら」
『おい、人食い狼じゃない奴が来てるぞ』
先ほど来た道を振り返った狼。
リボルバーを抜き、足の指先から捻るように振り返り、銃口を向ける。
髭をたくわえた恰幅のいい男も、リボルバーを構えていた。
「なんの御用でしょうか?」
「お嬢さんにじゃない、小屋にいる奴に用があるんだ。そこをどいてくれ」
「物騒ですね。今から立ち去るところですよ」
「どっちが物騒だか……」
そんな会話が飛び交うなか、再び扉が強く開いた。
散弾銃を両手に、険しい表情。
「おぉカルロス、会いたかった」
「黙れ盗人が、今さら何の用だ!」
間に挟まれた赤ずきんと狼は一歩下がって、様子を見守る。
「落ち着け、アンタに手紙を届けに来たんだ」
「手紙?」
ポケットから未開封の手紙を取り出した男。
「近づくんじゃねぇ!」
「おーおーこれだからお前は厄介なんだ。手紙はここに置く。お嬢さん、こいつが俺の背中に弾をぶち込まないよう見ていてくれ」
「それぐらいなら」
一歩、二歩下がり、男はカルロスの動きに注意しながら立ち去っていく。
興奮気味の呼吸を整え、カルロスは手紙を拾う。
「知り合いですか?」
「まだいたのか。あいつは……葉巻職人、仲間だった」
「ずいぶんと物騒な再会でしたね」
「娘の腹に赤ん坊がいなきゃ撃ち殺してたさ、くそ、手を出しやがって……」
文句を言って封を開けると、中には写真と手紙。
カルロスの険しい表情は氷のように溶けだし、これでもかと眉も目も垂らす。
『なんだ?』
「しっ、きっと娘さんからだよ」
ぼそぼそやり取り。
「くそくそくそ……似やがって。今度、あぁ、来るのか」
明るく目を輝かせて、独り言を漏らす。
『次はなんだ』
「娘さんが孫を連れてくるんだよ、こりゃ邪魔するとダメだから行こう」
台車を押し、静かにお店に戻った。
「あぁお嬢さん配達ありがとう、なかなか頑固で変な奴だったろ?」
店主は依頼を終えて戻ってきた赤ずきんにニコニコと訊く。
「はい。でも、葉巻を貰いました、面白くて、とっても愛情深い方でしたよ」
店主は驚いた。
赤ずきんは商品の棚を眺めた後、
「それでは、配達の報酬にこれください。それと、干し肉と赤ワインは買います」
棚を指す。
川沿いのワンポールテントに戻る。
イスに腰掛け、吸い口をカッターで切るとライターで火をつけ、灰皿に置く。
濃厚な甘さが漂い、赤ずきんは、「おぉ」と漏らす。
狼は水飛沫が上がる流れの強い川を眺めている。
「お気に召した? 狼さん」
狼の足元には新しい折り畳みの釣り竿。
『……まぁな。高かっただろうに』
「ふふ、貴方のためなら、なんだってしてあげるよ」
『こそばゆい台詞だな』
「そう? 狼さんも私に言ってくれていいのに」
『あーそうだな、また、機会があればな』
そっぽを向いて伏せてしまう。ふさふさの尻尾がゆらゆらと横に動く。
赤ずきんは静かに微笑み、赤ワインを一口。
『変な奴だったな、カルロスは』
「んー家族を大切にしてる素敵な人だと思うよ」
『どこかだ』
「愛してるじゃない、手紙を読んだ時のあの表情、娘さんのことを凄く愛してる」
『また愛か……どうだかな、さっぱり分からん』
「さすがにカルロスさんの気持ちまでは分からないけど、伝わってくるものだから」
『ふん、そうか』
「うん」