朝顔の間にベルトルドとアルカネットが現れると、ピタッと雑談がやんで静まり返る。
「なんだ、急に静かになって不気味な。露骨な奴らだな」
ベルトルドは頭を傾げ、いつものキュッリッキの隣に座った。
「おはようリッキー」
にっこりと無邪気な笑顔を向けるが、キュッリッキは心底怯えた顔をベルトルドに向けてきた。
「どうした? リッキー」
「昨夜の、あなたのおとなげない殺気に怯えてしまっているのですよ。可哀想に。ね、リッキーさん」
反対側に座っているアルカネットが、優しくキュッリッキの肩を抱き、ベルトルドから遠ざけるように自らに寄せる。
「リッキーに向けたわけじゃないんだぞ? もう怒ってないから、怖がらないでくれ、な?」
「ふにゅう…」
キュッリッキは上目遣いで、恐る恐る小さく頷いた。
鳳凰の間でメルヴィンと一緒に寝ていると、大きな地震かと思えるような震撼と、全身総毛立つほどの殺意が一度に襲ってきて目が覚めた。
座布団の上で丸くなって寝ていたフェンリルとフローズヴィトニルも、飛び上がって目を覚ましていた。
それがベルトルドの殺意であると、すぐに気づいた。彼の気配が漲っていて、間違えようがなかったのだ。
強烈な殺意は一瞬だったが、暫く身体の震えはおさまらず、同じように動揺するメルヴィンに必死にしがみついていた。
みんなも似たり寄ったりで、お陰で寝不足である。
一体誰に向けた殺意なのか判らない以上、落ち着いて眠れなかったのだ。
(あれは、ホントに怖かったの…)
今の様子を見る限り、この部屋にいる誰かに向けていたものではないことに、少なからず安堵した。
では、誰に向けたのだろう? そう思った瞬間、頭をよぎった名前があった。
(まさか…、違うよ…ね?)
アルッティが宿のどこで働いているのか知らない。聞けば呼んでもらえるだろうが、もしいなかったらと思うと怖い。
自分のことを、本当に大事に愛してくれているのは判る。しかし、そのせいで誰かが死んだり傷ついたりすることは、絶対に嫌だ。そして、自分のためにベルトルドの手が汚れるのも辛い。
憤りを感じても、何もしないで欲しいのがキュッリッキの本音である。
報復や復讐などしても虚しいだけだ。ずっと辛く苦しい日々を送ってきたが、今はライオン傭兵団、ベルトルドやアルカネット、そして最愛のメルヴィンがいる。毎日幸せだと思えるほど、愛に包まれているから。だから、もう大丈夫。
「可哀想に、よほど恐ろしかったのですね。こんなに塞いでしまって」
物思いにふけっていると、いつの間にかアルカネットに抱き上げられて、頭に頬ずりされていた。
「狡いぞアルカネット! この俺が抱きしめれば、リッキーの憂いなど吹っ飛ぶ!」
「誰がこんなふうにしてしまったのでしょうね~? 昨夜の今ですよ? アナタがこの部屋にいるだけで、みんな怖がっているのです。自重しておとなしく朝ごはんを食べていればいいんですよ」
「ぐぬぬ…」
「ほらベル、ちゃんとお食事なさい」
「いでで」
リュリュに耳を引っ張られて、ベルトルドは子供のように両頬を膨らませて箸を取った。
* * *
「さて、食事が終わったら、11時までは自由行動よ。11時には荷物持ってロビーに集合ネ」
「出発そんな遅くていいんですかぃ?」
「ええ、帰りはベルにハーメンリンナに転移してもらうから、チェックアウトまでゆっくり堪能してらっしゃい」
おお!っと歓喜が上がる。
ここへ来るまでの道のりを思い返すと、あれをこれから「マタカ」という気分なのだ。それをベルトルドの空間転移で帰れるのが、嬉しくてしょうがないライオン傭兵団だった。
しかし、
「ええ、もう一度港行きたかったなあ…。お土産屋さんいっぱいあったし、ちょっと見たかったかも」
キュッリッキだけが酷く残念そうに呟いた。
「よし、予定を変更して、港で昼飯を食べて帰ろうか」
「ホント?」
「ああ。リッキーがそうしたいなら、そうしよう」
「ありがとう、ベルトルドさん」
港に立ち寄れることになって、キュッリッキはベルトルドに抱きついて喜んだ。
「リッキーのためなら、なんだってしてやるからな」
キュッリッキを素早く自分の膝の上に抱き上げ、これでもかと額にキスの雨を降らせる。
「ずーずーしー」
ドヤ顔のベルトルドに、アルカネットは舌打ちした。
朝食のあとは、みんな温泉に浸かりに行った。
もう二度と来れないかもしれないと思うと、最後にしっかり入らないと気がすまない。
「たった2日だったけど、随分と肌がつるつる綺麗になったわよね」
ファニーが浴衣の袖をまくり、腕を見せる。
「それに、腰痛や脚の痛みが、なくなったような気がしますよ」
キリ夫人が嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしもリフレッシュできました~。お嬢様のおかげです」
「よかったね、アリサも」
女性陣はみんな揃って、肌が綺麗になるという露天風呂に入った。
一方男性陣は各自散って、それぞれ好きな温泉に入っていた。
思い残すことがないくらいギリギリまで温泉を堪能し、最後にベルトルドがきて全員揃った。
「あれ、御大仕事ですか?」
軍服を着て現れたベルトルドに、ギャリーは目を丸くする。
「当たり前だ! 仕事が溜まりに溜まってるらしいからな、帰ったらすぐ宰相府行きだ…」
「総帥本部でもお仕事ヨ」
リュリュもアルカネットも軍服を着ており、シ・アティウスは白衣をまとっていた。
ハーメンリンナに行く前に、エルダー街で下ろしてくれ、とギャリーは言いたかったが、軍服を着ているのを見るとそれは言えなかった。
見送りのため、女将のシグネと従業員数名がロビーに姿を現した。
「またのお越しを、お待ちしております」
艶やかな笑みを浮かべ、シグネはゆるりと頭を下げる。
「料理も温泉も宿も、何もかも素晴らしかった」
ベルトルドの言葉に、シグネは更に笑みを深めた。
「貴様ら、忘れ物はないな」
ういーっす、という返事をもらい、ベルトルドは顎を引いて意識をこらす。
「まずは港へ飛ぶ!」
ベルトルドが叫ぶように言うと、皆の姿はその場から消えた。