ハウスキーパーのリトヴァを呼びに出たところで、ちょうど廊下の向こうからリトヴァが歩いてきた。
「あら、ちょうどようございました。アルカネット様、副官のヘイディ少佐がお見えになっておりますわ」
「おや…なんの用でしょう」
思いっきり迷惑そうに眉間を寄せる。
「詳しいことは仰っておりませんでしたが、すぐお目にかかりたいと申しておりました」
「……そうですか、判りました。ああ、それと、今すぐリッキーさんの入浴の介添えをしてあげてください。怪我のせいで、一人では不便そうなので」
「承りました」
にこやかに頷くと、リトヴァは小さく会釈をしてキュッリッキの部屋へ向かった。
リトヴァを見送り、アルカネットは玄関ロビーへ足を向ける。
「閣下!」
よく見慣れた副官のヘイディ少佐が、泣きそうな顔で椅子から立ち上がる。
「何か用でも?」
階段をおりながら、突っ慳貪ともとれる口調で促すと、ヘイディ少佐は気にした風もなく頷く。こういう上官の態度には、もう慣れっこなのだ。
「逆臣軍との戦争の件で、我々
「そんな事務的なことは、あなたが適当に処理すればいいだけのことでしょう。何のための副官です」
「雑務処理担当みたいなことを言わないでください閣下っ!」
適当でも処理できる程度の雑務は既に取り掛かっているが、長官であるアルカネットが決済せねばならない案件が山積みなのだ。いくら副官でも手に余る。事務処理をするだけが仕事ではないのだ、副官の任務は。
それに、今頃は元ソレル王国首都アルイールの王宮に仮設された本営で、総帥以下、大将や特殊部隊の長たちが首を揃えているはずである。
「私服に着替えて自宅でくつろいでいる場合か!」とヘイディ少佐はツッコミたくてしょうがない。いや、すでに目つきだけがそうツッコミを入れていた。
「すぐに支度なさってください。あがっている報告書に目を通していただいて、アルイールへ向かいましょう。総帥閣下との会議が午後にあるそうですから」
「あなたを代理にしますから、代わりに行ってきてください」
「無茶言わないでくださーーーーい!!」
キュートな顔を怒りで真っ赤にして、ヘイディ少佐は
世界広しといえど、アルカネットに面と向かって怒鳴れるのは、ベルトルドとヘイディ少佐くらいなものだ。
近辺にいたメイドたちが、何事かと物陰で様子を見ている。
涼やかな表情をぴくりともせず、副官を見おろすアルカネット。ウサギのように頬がちょっとぷっくりと丸い、可愛い顔を真っ赤にして、アルカネットを睨みながら見上げている、ヘイディ少佐の組合せがなんともおかしい。
「とにかく閣下の我が儘も、今回ばかりはダメです! 今すぐ着替えて出仕なさってください」
「リッキーさんを一人にするわけには、いかないのですよ」
誰だっけそれ?と、ヘイディ少佐は小さく首をかしげた。そして「ああ」と思い出す。
「召喚士様のことですか? 出兵前の式典の時にお披露目なさった」
「そうですよ」
途端、アルカネットの相好が優しく崩れて、ヘイディ少佐は目を真ん丸くした。
(ウソッ、閣下のこんな
「彼女は今、心にとても酷い傷を負っているのです。雑務なんかのために、一人にしておくわけにはいかないでしょう」
金髪が綺麗な、とても華奢な美少女だったなあと、ヘイディ少佐は頭に思い浮かべた。
「でしたら、その召喚士様も一緒にお連れしてはどうですか?」
何気なく言ったつもりだった。テコでも動かない理由がその召喚士の少女ならば、一緒にくればいいだけのことだと。
何か天啓でも受けたような顔で副官の顔をまじまじと見つめると、アルカネットは深々と頷いた。
「そうしましょう」
「へ?」
ヘイディ少佐はポカンと口を開けて固まった。
* * *
「は~い、リッキーちゃんどうぞっ」
「あ…ありがと…」
目の前の応接テーブルの上には、誰が食べるんだろうと思える程の、大量のお菓子が所狭しと並んでいる。生クリームやスポンジの甘い香り、フルーツのフレッシュな香りなどがあたりに充満している。
キュッリッキの膝の上では、フローズヴィトニルが水色の目を輝かせてブンブン尻尾を振り、目の前のお菓子を食べたくて食べたくてうずうずしていた。
「おかわりたーっくさんあるから、どんどん食べてね」
語尾にハートマークでも付きそうなご機嫌のヘイディ少佐にすすめられ、キュッリッキはゲッソリしつつ銀のスプーンを手に取る。食欲は一切なかったが、取り敢えず手前にあるヨーグルトババロアにスプーンをつき入れた。
フローズヴィトニルが待ちきれなくなって、膝の上で跳ねたりクルクル回ったりと落ち着かないので、ババロアを口に放り込んでやった。
ヘイディ少佐はにこやかに見ながら、心の中でガッツリ握り拳を掲げる。
(閣下が素直に出仕してくれるなら、もう毎日でも召喚士様に同伴してもらえば万々歳だわ!! 事務仕事もすぐ片付くし、残業もしなくて済むもの!)
チラリと奥のデスクを見ると、書類の山に囲まれたアルカネットが、次々書類を処理していた。
(これで午後の会議には間に合いそうね! ありがとうございます、ありがとうございます神様召喚士様!!)
キュッリッキに土下座でもしたいくらいの大感謝で、ヘイディ少佐は心で滝の涙を流した。
副官の何気ない一言で、
フローズヴィトニルにお菓子を食べさせているその様子は、傍目にはいつも通りだが、心の中はまだまだ痛みでいっぱいだろう。独りきりにすれば、悲しみにまた涙を流すに違いない。こうして外に連れ出してやれば、気も紛れて笑顔を見せてくれるだろう。
泣いている顔よりも、笑顔の方が何倍も素敵な少女なのだから。
キュッリッキを想いながら、書類の内容に目を通していると、リュリュから念話が入った。
(はーい、アルカネット。小娘の様子はどうなの?)
(とても深く傷ついています。一人にしておけないくらいに……)
(……まあ、そうでしょうね)
さすがのリュリュも、何と言っていいのか調子の狂うような雰囲気を、声に滲ませていた。
(ところでどうしました、何か御用でも?)
(ああ、そうそう。今日の午後に控えてる会議だけど、
(おや。――まあ、あまり戦争では出番がありませんでしたからねえ。あまりというか全く)
(正規部隊とダエヴァくらいで、この後動くことになるのも彼らと別の特殊部隊だし。てことで、ハーメンリンナに残って事務処理に精を出してン)
(ええ、助かります。リッキーさんを一人には出来ませんしね)
(ベルに何か伝言ある?)
アルカネットは暫し考え込むと、にっこりと笑顔を浮かべた。
(こちらのことは心配せず気にせず余計なことは粉微塵も考えず、しっかり現地で仕事に励んで、永遠に帰ってこなくていいです。そう、お願いします)
(………今すぐ飛んで帰りそうなコトを言ってるわね、あーた……)
(せっかリッキーさんとく2人きりだというのに、邪魔されたくはありませんから)
(一応、一言一句正しく伝えとくわ。じゃあねん)
リュリュからの念話が切れると、自分のデスクに齧り付いて仕事をしているヘイディ少佐を呼んだ。
「今日の午後の会議には出席の必要なしと、リュリュから連絡がきました」
「あら」
意外そうに目を見開くと、ヘイディ少佐はガッカリしたように肩で息をついた。
「事務処理が立て込んでいるので、出席しなくていいのは助かりますけど。総帥閣下のように空間転移出来るわけではないですし、移動にも時間がかかりますから」
「そういうことです。一応現地へ誰かやって、会議の報告書などを受け取ってくるよう指示を出しておいてください」
「承りました」
ヘイディ少佐は敬礼すると、颯爽とオフィスを出て行った。