ふと目を覚ますと、薄暗さが目に飛び込んできた。
「あれ…、寝ちゃったんだ…」
透かして織られたカーテンから、柔らかな月明かりが青白く差し込んでいる。寝ている間に夜になってしまったんだと、キュッリッキはスッキリしない頭で思う。
顔を上げると、アルカネットの寝顔がある。枕に頭をあずけ、ぐっすりと眠っていた。
端整な寝顔には疲労の色が濃い。寝ていても常に隙がないアルカネットには珍しく、とても無防備である。よほど疲れていたのだろう。
ベッドに足を投げ出すようにして座り、大きな枕に上体を預けている。その膝の上に乗せられ、広い胸にもたれてキュッリッキは座っていた。
ベルトルド邸に帰り着いたあと、主治医のヴィヒトリが怪我の手当てに来てくれた。いつもなら冗談を言いながら、明るく笑いかけてくれる。しかしさすがに冗談は言わず、励ますように笑いかけてくれただけだった。
その後アルカネットに慰められながら、泣き疲れて眠ってしまったようだ。
キュッリッキの身体に回された手は、細い身体をしっかりと抱きしめていてる。腕や手から伝わる温もりを服越しに感じ、こうして抱きしめられていることで、心底安堵していた。
ゆっくりと上下する胸に再び顔をうずめるようにして、胸元のシャツをしっかりと握った。
意識がはっきりしてくると、頭を過ぎっていくのはメルヴィンの絶句した顔。自分の奇形の翼を見て、驚いたまま何も言ってくれなかった、あの顔を真っ先に思い出してしまう。
(メルヴィン…凄く、ビックリしてた…)
あの時のことを思い出すと、今すぐ記憶喪失になってしまいたい、なかったことにしたいと心が悲鳴を上げる。頭の中をグチャグチャに掻き回し、壊してしまいたいほど苦しくなるのだ。
形容しがたいほどの苦痛を心の中で繰り返し叫び、シャツを握る手は震えながら力がこもる。すると、キュッリッキを抱きしめているアルカネットの手が、更に抱き寄せるように動いた。
ハッとなって顔を上げると、アルカネットが穏やかに優しく見つめている。
「眠れませんか?」
キュッリッキは小さく首を横に振ると、僅かに表情を曇らせた。
「ごめんなさい、アタシ、起こしちゃった」
アルカネットは「かまいませんよ」と言って、自嘲するように笑う。
「起きているつもりでしたが、うっかり眠ってしまったようです」
つられてキュッリッキも小さく微笑むと、再びアルカネットの胸に頬を寄せた。
とくに話がしたいわけではないし、なにかして欲しいわけでもない。ただ、一人でいるのは嫌だった。辛い気持ちを埋めるように、こうして誰かに触れているとホッとする。
いまだ心の中は、色々な感情が渦巻いていて落ち着かない。
左側の翼を見られた羞恥、絶句したメルヴィンの顔、仲間たちに知られてしまった自分の本当の姿。
みんなには、自分は今、どう思われているのだろうか。そして、どんな顔でみんなの前に立てばいいんだろう。
(みっともない本当の姿を隠し続けてきて、ライオン傭兵団にアタシの居場所はまだあるの?)
バレちゃったことだし、これを機に全て打ち明けてスッキリしたいのか、果たしてきちんと話ができるのか。受け入れてくれるのだろうか。
そして。
(メルヴィンに嫌われてしまったかもしれない)
こんな自分を無様だと思っただろう。なにせ、左側の翼は残骸のような有様だ。
この左側の無様な翼のせいで、両親に捨てられ、同族たちから忌み嫌われた。
親や同族が嫌うものを、ヴィプネン族のメルヴィンが受け入れ、好きになってくれるはずもない。
飛べない不完全な自分を、好きになってくれるはずない。身一つで助けることもできない自分なんかを。
(アタシって、やっぱりダメだ)
そう思えば思うほど、心がギュッと締め付けられたように痛みだし、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。
「メルヴィンに…会いたいよ…」
しゃくりあげながら呟く。
嫌われたと思う反面、恋しさに会いたくて会いたくてたまらないのだ。
会ってどうすればいいのかも判らないし、メルヴィンがなにか言葉を発するのを聞くのは怖い。でも、あの優しく微笑む顔を見たいし、優しく名前を呼んでもらいたい。温かで力強い手の感触が、今でもはっきりと掌に残っている。
とにかくメルヴィンに会いたい想いに押しつぶされそうになりながら、キュッリッキはひたすら泣きじゃくった。
「リッキーさん……」
強くキュッリッキを抱きしめながら、アルカネットは柔和な面差しを険しく歪め、目の前の暗闇を睨みつけた。
こうして抱きしめ、慰めている自分が在りながら、キュッリッキの心はメルヴィンを求め続けている。
そもそもメルヴィンが床から放り出されなければ、咄嗟に翼を広げてまで助ける行動を起こさなかっただろう。
原因を遡れば、ベルトルドがEncounter Gullveig Systemを止めるのが遅れたことにある。しかし助ける方法ならいくらでもあっただろうに、あんな助け方をしなければ、キュッリッキが翼を広げることもなかったのだ。
キュッリッキをこんなに苦しめているメルヴィンの存在を、アルカネットは心の底から激しく憎悪していた。
(あの男が存在していること自体、許せないことです)
出来ることなら今すぐ殺してやりたい。筆舌に尽くしがたいほど残酷に。しかし、ラクには殺さない。キュッリッキの心に巣食うメルヴィンの
(リッキーさんはショックを受けるかもしれませんが、それは一時的なこと。綺麗に忘れてしまうくらい、深く深く愛してやればいいだけのことです。心の中が私への愛だけで満たされるほど、強く、激しく)
メルヴィンさえ居なくなれば、キュッリッキはこんなに苦しみ、悲しむことはないのだから。
キュッリッキが泣きつかれて再び眠ってしまうと、ベッドにそっと寝かせ直して、アルカネットは一旦自分の部屋へ戻った。
ソファの上に雑に衣服を脱ぎ捨てると、浴室に飛び込むようにして入り、冷たいシャワーをかぶった。
煮えたぎるように熱い頭を冷やすためだ。
メルヴィンへの殺意が膨れ上がりすぎて、少々感情を抑えきれなくなってきたためである。その感情はメルヴィンの名を呟き泣き続けるキュッリッキへも、怒りという形で向きかけ、このままだと怒り任せにキュッリッキを犯しそうになって慌てたのだ。
あんなに心が傷ついてまで、尚メルヴィンを恋しく求めるキュッリッキ。そのいじらしいまでの想いも、今のアルカネットには怒りを煽る何ものでもない。
壁に両手をついて身体を前に折り曲げると、背中に冷たいシャワーを叩きつけた。
やや痩身だが、筋肉がほどよくついて、よく引き締まった体躯をしている。腕力などは十分あるが、戦闘
「いつ、殺してやろうか……」
身体中を苛んでいた火照りは冷めている。だがメルヴィンへの殺意は、少しもおさまってはいない。心の中でじわじわと燃え盛り続けていた。
激しい殺意と激しい憎悪。そして、それらも凌駕するほどの激しい嫉妬。
何者にも代え難い、愛おしいキュッリッキ。彼女を苦しめるものは、なんであろうと許せない存在だ。
普段アルカネットは、本音の感情を表に出さないようにしている。温厚な笑顔と、そつのない立ち居振る舞いの中に隠して。しかし抑制し続けていると、一度暴発すると鎮めるのに物凄い労力が要る。
いつもはベルトルドがそばにいるので、どうしても抑えきれなくなればベルトルドにぶつけることができた。ベルトルドも全てを承知のうえで、全力で受け止めてくれる。しかし今、ベルトルドはいない。遠く離れたモナルダ大陸にいるのだ。
アルカネットは長い時間水に打たれながら、感情をどうにか鎮めると、タオルを手に取り髪を拭きながら浴室を出た。
開けっ放しの窓から、蒸れた風が流れ込んでくる。温度管理のされたハーメンリンナの中でも、夏を感じさせる風は容赦なく吹くのだ。
すでに陽の光が部屋の中に差し込んでいて、アルカネットの裸身を明るく照らしていた。
そこへノックもなしに部屋の扉が開かれ、メイドが入り込んできてアルカネットは小さく首をかしげた。
「きゃっ、あ、あの、アルカネット様」
チェインバーメイドのブリッタは、アルカネットはてっきりキュッリッキの部屋で寝ているものとばかり思っていた。着替えのためにアルカネットが戻る前に、簡単な掃除とシーツ替えなどをやっておこうと入ってきたのである。
キュッリッキと同い年のブリッタは、主の裸体を目にして、心臓が跳ね上がるほどびっくりしてしまった。キュッリッキほど世間知らずではないが、男の裸をそんなに目にすることなどないし、恥ずかしさの方が上回る。密かに憧れているのだから。
前も隠そうとせず裸身をさらして立っているアルカネットに、目のやり場に困ってしどろもどろしていると、
「お前でもいいか」
感情の伺えない声が、ぽつりと耳に飛び込んでくる。そして唐突に乱暴に手を掴まれ、ベッドの上に放るようにして投げられた。
あまりに突然のことに悲鳴を上げるのも忘れて、ブリッタは慌てて身体を起こそうとすると、アルカネットの顔が至近距離にあって「ひっ」と喉で引き攣れた悲鳴をあげた。
アルカネットの顔は普段見慣れた温厚な笑みではなく、殺伐とした昏いものを浮かべていたからだ。足元からザワッと冷たい恐怖が這いのぼってくる。ブルブルと身体が震え、ブリッタは小さく身をすくませた。
「すぐに済むから、おとなしくしていなさい」
そう言ってアルカネットは身を起こすと、ブリッタのスカートを勢いよくまくりあげて、閉じている足の間に強引に膝を割り込ませ、払うようにして乱暴に押し広げた。
* * *
「ん……」
キュッリッキは目を覚ますと、飛び込んできた陽光に再び目を閉じる。
「目に滲みる…」
ゴシゴシと両手で目をこすって再び開くと、今度はなんとか目を開くことができてホッと息をついた。
夕べ散々泣いたせいで、目が腫れている。
きっと酷い顔をしているんだろうな、と思い身を起こすと、アルカネットがいないことに気づいた。そして時計を見ると、もう8時を過ぎている。
「やだ、スゴイ大寝坊だ」
慌ててベッドから飛び降りて、しかしふいに立ったままガックリと顔を俯かせた。
「……起きて何をするんだろう、アタシ」
ベッドにすとんっと座り込み、膝に両肘をついて掌に顔を置いた。そんなキュッリッキのそばに、フェンリルとフローズヴィトニルが近寄ってきて膝の上に飛び乗ってきた。
「ベルトルドさんに忘れられずに、ちゃんと一緒に飛ばしてもらえたんだね」
甘えるようにお腹を見せるフローズヴィトニルと、キュッリッキの腕に顔を何度も擦り付けるフェンリル。心配しているとき、フェンリルはいつもこうする。フローズヴィトニルは単に、キュッリッキにかまってほしいだけのようだ。
「ついにバレちゃった…。みんなに見られちゃったよ、翼…」
フェンリルとフローズヴィトニルを腕に抱きかかえると、そっと頬ずりする。
「いつかはね、ちゃんと話すつもりだったんだよ。きっかけが中々なくって、それでずっと黙っていたんだけど…。でもあんな形で見られちゃうなんて、アタシのドジ」
グルル、とフェンリルが喉を鳴らす。
「うん…、みんながどう思ったか知るのが怖いの。…メルヴィンがどう思ったのか、知るのがとっても……怖い」
嫌われたかもしれない。そして、嫌われているのを知るのが怖い。会いたくて、知りたいのに、怖くて足がすくむのだ。
それきり黙り込んだキュッリッキを励ますように、フローズヴィトニルがぺろりとキュッリッキの鼻先をなめた。そのくすぐったさに、キュッリッキの顔に小さな笑みが浮かぶ。
「シャワー浴びてこようか、顔も洗わなくちゃね」
フェンリルとフローズヴィトニルをベッドの上に置くと、キュッリッキは立ち上がって上着を脱いだ。そして両方の二の腕に巻かれた包帯を見て、ヴィヒトリに言われたことを思い出す。
「そういえば、今日一日お風呂我慢しなさいって言われてたんだっけ……」
仕事明けで頭や身体を洗ってスッキリしたいし、お風呂を我慢するのは辛い。
「どうしようかな~」と呟きながら考え込んでいると、ノックがしてアルカネットが入ってきた。
愛しい少女の思わぬ艶姿に、アルカネットは満面に笑みを浮かべた。
「朝から眼福ですね」
にっこりと言われてキュッリッキは首をかしげたが、フェンリルが喉を鳴らして喚起してやっと気づく。
「み、見ちゃダメなのー!」
顔を真っ赤にして、キュッリッキはベッドに放ってある上着を掴んで前を隠した。
以前、寝ている間に散々身体を弄ばれていたことなど知らないので、アルカネットに初めて下着姿を見られたと思い込んで、ひたすら焦った。
キュッリッキの慌てた様子があまりにも可愛らしく、またおかしくて、アルカネットは吹き出したいのを堪えつつ、くるりと後ろを向いた。
「ずっと眺めていたいのですが、我慢しましょうか」
「アルカネットさん意地悪なの」
困ったように立ちすくしている姿が気配で容易に感じられ、アルカネットはくすりと微笑んだ。
「何か考え事をしていたようですが、どうかしたのですか?」
「あ、うん。お風呂に入りたかったんだけど、昨日ヴィヒトリ先生が、今日一日我慢しなさいって言ってて。でも身体とか綺麗にしたいし、どうしようかなーって」
「私がお手伝いして差し上げますよ?」
「だ、ダメなのっ!」
「ふふ、それは残念ですね。では、リトヴァを呼んできますから、彼女に手伝ってもらうといいでしょう」
「うん、そうする!」
キュッリッキが嬉しそうに返事をすると、アルカネットは再びキュッリッキを振り向いて、慌てる姿をにこやかに見つめながら近寄ると、おでこに優しくキスをした。
「お風呂ですっきりしたら、必ず食堂へ降りてくるんですよ。少しでもいいから朝食をいただくように」
「はーい」
「では呼んできます」
アルカネットは名残惜しそうにしながらも部屋を出て行った。