6.惚れたのか?


 「どうした? ジジイたちが嘆いてるぞ」


 「ああ、カゲなの」



 ヒカリが気の抜けた返事をする。無断で入室したことを咎める様子もない。余程の放心状態とみえる。カゲは、バルコニーへ出ると柵に背を預けて腕組みした。



 胡桃沢くるみざわ邸。

 ヒカリが帰宅するなり部屋に閉じこもってしまったので、祖父及び使用人たちも意気消沈している。



 「お前、あの坊やみたいな先生と何かあっただろ?」


 「な、何も!」



 カゲが揶揄うような笑みを浮かべた。ヒカリは、ますますムキになる。



 「先生がピアノ弾いてるの見てただけよ! 知ってる曲だったし」


 「ほぉ。ピアノをねぇ」



 カゲは薄笑いを崩さない。なんか腹立つ顔である。


 

 (不覚にも泣いちゃったことは、誰も知らないはず)



 あの後、すぐに始業のチャイムが鳴って。奏人かなと先生とはそれきりだ。ずっと心配そうにこちらを見ている気がしたが、結局何も言われなかった。



 奏人先生が弾いていた曲、“Part of Your World ”。

 本能みたいに、ヒカリの耳に残っているメロディーだった。



 あの頃は、物語の意味なんて分かっていなかった。ただ、キラキラした水中の世界と、王子様に憧れた。唐突に両親を喪った現実から逃れるように。



 “Part of Your World”は、そんな現実の傍に、ごく自然に在った。その曲を、奏人先生が──。



 「なにボケッとしてんだよ?」



 カゲの声で現実に立ち戻る。彼はバルコニーの柵に肘をつき、ヒカリを覗き込んでいた。



 「……っ」



 カゲがこんなに近いのは出会った夜以来だ。男の顔をここまで至近距離で見たことはない。祖父や使用人を除いては。一見細面なのに、明るい場所で見るカゲは男の骨格だった。



 「惚れたのか?」



 何を言われているのか分からなかった。ただ頬が熱くなっていく。



 「ピアノが弾ける坊ちゃん先生に」



 ──バリッ。



 「痛えな! 何しやがる!」



 カゲが、顔を押さえて怒号を上げる。ヒカリが、カゲの顔に爪を立てたのだ。



 「ヘンなこと言わないでよ!」



 ヒカリは憤慨して踵を返す。



 「橋倉ぁー」



 ヒカリは、部屋を出ると執事を呼んだ。ほどなくして、祖父と万能執事が満面の笑みで駆けてくる。令嬢が部屋から出てきてくれたのが嬉しいのだ。



 「宿題やってー。今日数学なの」


 「かしこまりました。私がいたしましょう」


 「ヒカリ。獅子屋の羊羹があるぞ」


 「やったー!」



 カゲを引っ掻いて、ヒカリはすっかり己を取り戻した。



 どうして忘れてたんだろう。奏斗かなと様のこと。私の王子様のこと。



 (私、どうして先生のことなんか……)



 今日はまだ、奏斗様の写真集を拝んでいなかったことを思い出す。羊羹の後にしよう。ヒカリは大きく頷くと、祖父と並んで歩き始める。



 バルコニーに残ったカゲは、一人不貞腐れて大きな庭を見下ろしていた。