5.Part of Your World


 「えー……17世紀……バ、バロック時代……ポイント……として……は……」



 奏人かなと先生の実習三日目。今日は初めての音楽の授業だ。



 「……で、次第に現代の……クク、クラシックの、形式、に……」



 実習が始まって数日経つというのに、奏人先生は相変わらずだった。教室の隅で、担任が頭を抱えている。



 「こ、この頃に活躍した……さっ……作曲家……は……」



 奏人先生をよそに、お嬢様たちはヒソヒソとお喋りに興じる。ヒカリは欠伸を噛み殺した。一応はお嬢様なので、人前で大口を開けて欠伸をするようなことはない。どこからかクスクスと忍び笑いが漏れると、奏人先生は目を泳がせて何も言えなくなってしまった。





 ランチタイム。お嬢様たちは食堂へ移動する。



 教室の端の方で、奏人先生が担任に説教されている。あのヒステリックな担任にガミガミ言われたら、余計に萎縮しそうだ。



 (あーあ、あんなに肩を落としちゃって)



 ヒカリの横を、姫華と金魚のフンたちが通り過ぎて行った。今日も華美なドレスを身につけている。ヒカリは肩をすくめた。



 この学園でいう食堂とは、普通の学生が思い浮かべる学食とは違う。いざとなれば要人の晩餐会が開ける広さと装飾だ。お嬢様の給仕は護衛が行う。



 カゲが呆れたように言った。



 「昼からそんなもん食ってたら太るだろ」



 フォアグラのステーキを堪能するヒカリお嬢様である。温厚で職務に忠実な護衛、鈴木さんが青くなる。お嬢様に向かって何てことを。



 「大切なのはバランスよ」



 ヒカリは素っ気なく言い返す。



 「それにしてもお前、友だちいねえな」



 少し離れたテーブルでは、姫華を囲むように多くの取り巻きが席についている。ヒカリは一人だ。



 「泥棒さん、もうその辺で……」



 優しい鈴木さんが遠慮がちにカゲを止める。胡桃沢くるみざわ家で、カゲを「カゲ」と呼ぶのはヒカリだけだ。泥棒に「さん」を付けてくれるところに、鈴木さんの優しさが垣間見える。



 「ああいうのは友だちって言うのかしらね?」



 姫華たちのテーブルにチラリと目をくれ、ヒカリは満足そうにフォアグラを口へ運ぶ。カゲはフンと鼻を鳴らすと、ちょっと口の端を歪めた。



 (こういうところは嫌いじゃねえんだよな)





 今日は食後のお紅茶をいただく気にならず、ヒカリはみんなよりも一足早く食堂を出た。濃いグリーンのカーペットを進んでいくと、2年A組の手前に音楽室がある。音楽鑑賞も座学も教室で事足りるので、滅多に使われることはないが……。



 特殊なガラス張りの音楽室。ヒカリの目にグランドピアノが映る。



 (奏斗様に逢いたいなぁ……)



 生のピアノ演奏は、どんなだろう。至近距離で見る奏斗様は。ヒカリは、考えるだけで胸がドキドキした。



 (えっ?)



 ピアノのあたりに誰かいる。よく見ると、先生だった。



 グランドピアノの前に立つ奏人先生は、いつもと様子が違う。いつもオドオドしているのに……。



 外からヒカリに見られているのにも気づかない様子で、奏人先生はピアノの椅子に腰掛けた。程よい距離に椅子を開いてスッと椅子の高さを調節し、鍵盤の上に静かに指を乗せる。そこまでの所作は、何気ないようでいて流れるように美しかった。



 奏人先生の指が動き始めると、ヒカリの足は音楽室に吸い寄せられていく。



 「先に行ってて」



 後ろに控えるカゲたちに早口で伝えると、ヒカリは音楽室のドアを開けた。



 先に行けと言われても、お嬢様を守るのが護衛の務めである。職務に忠実な鈴木さんは、律儀にも音楽室の前で姿勢を正す。



 カゲは驚きをもってヒカリの後ろ姿を見送った後、ニヤリとした。



 (ますます面白れぇことになりそうだな)



 忠実な鈴木さんが音楽室の前に張り付いているのをいいことに、カゲはフラリと姿を消す。



 (トイレ……)





 音楽室に入った途端、圧倒的な音がヒカリを包んだ。繊細でありながら、胸の奥には強く響く。音が呼吸してるみたい。昼の陽がたっぷり注ぐ音楽室が、奏人先生の音で満たされていく。



 これが、本当のピアノの音。

 CDじゃなくて。



 奏人先生が奏でるメロディー。

 “Part of Your World “



 映画『リトルマーメイド』のテーマ曲だ。童話の『人魚姫』を元にした、人間の王子様に恋をする人魚のお話。



 ヒカリは、我を忘れてピアノに駆け寄った。メロディーが急に途切れる。



 「ご、ごめ……」



 いつものオドオドした奏人先生が、そこにいた。



 「あ、違うの!」



 胸の中に言葉はたくさんあるのに、先が詰まったみたいに何も出てこない。咎めに来たんじゃないの。



 「君は……く、胡桃沢さん……?」



 奏人先生は、恐る恐るといった感じで声を出した。



 「えっ、ど、どうしたの? 胡桃沢さん?」



 いつの間にか、涙がヒカリの頬を濡らしていた。