夜空に浮かんだ満月が白く輝く。
私は丘の上の道路で愛車のレブル250を停め、その月を見上げた。
五月の満月は北半球では〈フラワームーン〉と呼ばれているそうだ。花咲く季節の月──実際少し前まで寒さ凌ぎにちょうど良かったレザーのライダースーツも、今は下だけ履いて上は黒いハイネックニットで済ませている。ヘルメットもフルフェイスではなく半キャップ型の黒いダックテールだ。
ふと風が吹いて、背中に伸びた髪を揺らす。
(気持ちいい……)
お母様は私がバイクに乗る事にずっと反対していた。私は決してスピード狂ではなくのんびりと風に吹かれたいだけ、お嬢様育ちのささやかな背伸びなのだと散々説明したのだが……
─貴女は子供の頃からおっちょこちょいですからねえ。ホラ、オモチャもすぐ壊しちゃって…。
そう言ってクスクス笑うお母様にとって、私はいつまでも積み木やぬいぐるみで遊ぶ小さな女の子のままなのだろう。しかし今乗っているレブル250は車体が黒で統一されていて、そのシンプルでヴィンテージライクなデザインが気に入っている。決して可愛らしいオモチャではない。お母様はそこにも口を出してきたが……
─
(いいえ、お母様…)
私はちょっとだけ笑って、アクセルを捻りクラッチレバーを離した。目の前に十字路があったが、まだスピードが上がっていないのでそのまま右折する。時刻は午後十時を過ぎて辺りに車の気配も無く、私は油断していた。
曲がった先に、人が立っていた。
(あっ……)
一瞬確認できたのは、相手が私と同年代の若い女性である事…その胸に両手で抱きかかえている白いドレスの人形……私は避けようとしてハンドルを切るが、バランスを崩す。ぶつかったかどうかもよく分からなかったが、人形の女性は道路に倒れ、レブル250も横滑りして、私はシートから放り出された。ダックテールが吹き飛んで、私は直接アスファルトに頭を打ち付けながら転がり、仰向けに止まった。
─…確かにおっちょこちょいなのかな……
最後に見たのは、真っ白なフラワームーン──
麗青学苑大学敷地内の奥にある通称〈文連ハウス〉には、文化部の部室が集まっている。僕─間嶋久作がキャンパスを駆け抜けてその入口前に辿り着いた時、慣れない全力疾走に脆弱な心肺機能は悲鳴を上げていた。五月にしては肌寒い曇り空だが全身の汗が止まらない。僕はしかしゼェハァ言う息を整えるのももどかしく、これも慣れない大声で叫んだ。
「だっ、誰かっ…人形に詳しいオタクの方はいませんかあっ?
人形の命が懸かっているんです!」
幾つかの部室の窓が開いて数人の学生達が顔を出す。時刻は間もなく正午─放課後に比べると人は少ないが、講義の間の時間潰しで部室に籠もる学生はそれなりにいるのだ。しかしどの学生も男女問わず、一様に怪訝な顔をしている。僕だって変な事を言っているのは分かっているが、仕方無い。緊急事態なのだ。
「お願いですっ…誰かっ…自分で人形を造ったり直せたりする方がいたらっ……!」
結月沙苗の入院する世田谷さくら総合病院に独り潜入したどーるが、一夜明けたら無惨な姿で病院の駐車場の隅に倒れていた。右腕は千切れ、左脚も曲がり、体も服もボロボロになって…。一体何があったのか分からない。気を失ってしまったどーるからは、まだ何も事情を聞けていないのだ。
僕は着ていたシャツでどーるを
そのどーるを看た真名が『これは素人では手に負えない』と辛そうに呟いたのを聞いて、僕はこの文連ハウスに走ってきたのだ。確証があった訳ではない。ただここには漫画研究会やミステリ研究会、SF研究会にあの希津水破一郎先輩が所属する映画研究会等、
「お、俺、フィギュア造るけど…?」
そう言って二階の窓から右手を挙げる男子学生がいた。上背があり小太り気味だがガッシリとした体格で、カーキ色のTシャツの袖から伸びる右腕は逞しい。丸顔で黒いボサボサの髪と顎髭が繋がっていて、眉毛も太いが決して強面ではなく、目は小さく優しげで黒縁眼鏡を掛けている。例えるなら『熊のお医者さん』といった風情だろうか。
「ホントですか!そ、その人形造る道具とか、どこにありますっ?」
「えっと…簡単な物ならここに…」
前のめりで尋ねる僕の勢いに気圧されつつ、その学生は部室の中を指差す。僕は藁にも
「お願いします!一緒に来てくれませんか?あのコを助けてくださいっ!」
あまりに意味不明過ぎるお願いだったが、その『熊のお医者さん』は曖昧に笑いながらも頷いてくれた。善い人だ。とにかく一緒に真名の下宿に行ってくれる事になったその人は大和田さんと言い、法学部の三年生だそうだ。文連ハウスから出てきた大和田先輩は下はジーンズだが白いジャケットを羽織り、手には茶色いボストンバッグを提げて、本当に往診に向かう医師の様である。この人ならきっとどーるを助けてくれる──
「それで大和田先輩はフィギュア同好会か何かでっ?」
「いや、居酒屋探訪倶楽部だけど」
「あ…そうなんだ……」
「うーん…これは酷い……」
大和田先輩の暗い声に、僕と真名は膝の上の拳を握りしめる。真名の下宿の六畳間で僕達三人はピンクの小さな丸テーブルを囲んでいた。
文連ハウスから早足で歩く事約二十分、セレブが住む丘の上から離れた駅の南側のこの辺りは古い家が多く、真名の遠戚が紹介してくれたというこの二階建ての日本家屋も築五十年を超えていた。そこに住む老夫婦が遠方に嫁いだ娘の部屋に真名を下宿させてくれているのだが、畳敷きで入口も押入れも襖、窓も木枠の格子窓の渋い和室だ。畳の上に白い
そんな部屋の中央のテーブルに向かって胡座をかいている大和田先輩は、腕を組んで難しい顔をしている。彼が見下ろすテーブル上ではどーるが目を閉じて横たわっていた。服は真名が脱がせて脇に置いてあり、裸の胴体には白いタオルが掛けられている。これも僕に見せない為らしい…何故?
「右腕も左脚も可哀想に…一体どうしてこんな事に?」
大和田先輩の問いに僕と真名は顔を見合わせるしかない。スッとこちらに視線を向けた先輩の目には、僅かに怒りが滲んでいる。僕達がどーるを壊したのではと疑っているのだろう。フィギュアを自作する彼にとって、人形をこんな風に乱暴に扱う人間は到底許せないに違いない。
「こ、細かい事情は僕達にも分からないんですが…あの、直せますか…?」
「君にとってこの人形は大切かい?」
大和田先輩のキッパリとした口調に、怯んでいた僕はハッとした。どーるの顔を改めて見る。
クルクルとよく変わる表情を思い出す。可愛い顔をしているくせに生意気で、お腹が空くとすぐ不機嫌になり、でも僕が落ち込んでいればニッコリと励ましてくれて……
『…またあんたが…あたしを見付けて…くれた……』
「…ハイ、とても大切なコです」
「──分かった」
しっかり目を見て答えた僕に大和田先輩はひとつ頷いて、脇に置いてあったバッグから様々な道具を取り出し始めた。
「幸い千切れた右腕は関節部分で綺麗に外れていて、部品が欠けてる訳じゃない。この球体になってる関節のそれぞれに細長い穴が開いてるだろ?この穴にゴム紐を通して関節同士を繋げるから動く訳だ。そうやって繋げた体のパーツは空洞の体内で吊るす様に固定する。例えば両腕は肩を通して吊るし、両足は股関節を通して吊るす。このコの右腕が取れたのはその吊るすゴム紐が切れたからだよ。それで右腕は関節から外れ、左腕はゴム紐が中で絡まってかろうじてくっついている。だから腕に関してはゴム紐を新しく入れ直してやればいい。
曲がった左脚の方が厄介で、こっちは関節ではなく本来曲がらないふくらはぎの所で捻れている。これはこの部分のパーツを作り直した方が早そうだが…うん、エポキシレジンでいけるかな…。全身の細かい傷はUVレジンで埋めて、磨いて着色すれば……」
ブツブツと修理の青写真を呟く先輩に、真名が遠慮がちに言う。
「ドレスは私が直していいですか…?一応演劇部でも衣装作ってるので…」
「ああ、お願いするよ。俺のはフィギュアだから、服も造型でやっちゃうんだ。裁縫とか出来ないし──」
真名が薄いピンクのレギンスの上にダブッとした白いワンピースシャツを着ているのもあって、二人はまるで患者の治療計画を確認し合う医師と
「ぼ、僕にも何かやれる事があればっ……」
「駄目ですよ。久作さんにはどーるちゃんの体、勝手に見せたら怒られちゃうんですから…」
だから何故─?そう悩む僕が納得できないまま真名に部屋を追い出されようとしている時、背後から大和田先輩が呼び止めた。
「ああ、久作君だっけ?ひとつ訊いてもいいかな?」
「ハ、ハイ、何です?」
「このコは、
真名の下宿を出た僕は、ひとつ息を吐いて道路脇のガードレールに腰掛けた。
出際の大和田先輩の質問を思い出す。咄嗟に答えられず『預かり物なので』と曖昧に誤魔化したが、よくよく考えれば確かにどーるは不思議な人形だ。見た目はノーブルな西洋人形の様でドレスもクラシカルだが、小顔でプロポーションも現代的、その素材からも最近造られたモノだと思われる。
大和田先輩の目利きでは人形としての完成度はなかなかのモノだが、名のある作家の作品ではなさそうだと言う。造ったのは駆け出しのプロか経験のあるアマチュアか─しかし全身の関節の数の多さと可動域の広さは、市販の子供のオモチャや着せ替え人形のレベルを遥かに超えているらしい。まるで意識が芽生えて自由に動き回るのを想定していたかの様な──
「さすがにそれは無いか…」
僕は独りごちて苦笑するが、すぐに真顔に戻る。どーるが何の為の人形なのかは確かに気になるが、今はそれより彼女が無事に元通りになるかどうかだ。と言っても体の傷に関しては、大和田先輩の修理の腕を信じていい気がしている。だから問題はそこではない。さっき目を閉じて動かないどーるを見ているうちに、気が付いてしまったのだ。
もう彼女はただの人形になってしまったのではないか…?
普通の人間なら死んでいるのか気を失っているだけなのか、脈や呼吸を確認すれば分かる。しかしどーるの場合、脈も心臓の鼓動も元々無いし、お腹が空くくせに酸素や水分を補給している様子は無い常識外れの存在なのだ。僕は胸が締め付けられる思いで呟いた。
「どーる…戻ってきてくれるのか……?」
俯く僕の足元に、ペットボトルの赤いフタが転がっていた。顔を上げて振り向くと右横に飲み物の自動販売機がある。落ち着く為に何か……
「私はこの〈エクストラブレンド珈琲〉でいいぞ!」
そう言って自販機の前でニカッと嗤ったのは、全身黒装束でシャツのボタンだけ赤い長身のチェシャ猫─希津水破一郎先輩である。
「わっ、どうしてここにいるんです?」
「馬鹿者、昼休みに麗青みどり公園に集まる予定だったではないか。それが見当たらないし、貴様が文連ハウスから居酒屋探訪倶楽部の部員を連れ出して駅方面に向かったとの目撃証言も得てだな、ならば以前どーる嬢を預けた時に住所を聞いていた真名嬢の下宿に向かったのではと推測して来たのだ。
人形を直せないかと泣いていたそうだが、さてはどーる嬢が壊れたのだな。それで元通りになるか心配しているのだろう?」
流石─とは褒めたくないし泣いてもいないのだが、やはり破一郎先輩は一を聞いて十を知る。僕はどーるを発見した時の状況と傷の状態をざっと説明した。
「なるほど…何があったかは本人の口から聞かないと分からんな…」
「ハイ…先輩はどう思います?傷が治ったら、どーるはまた目を開けてくれるんでしょうか…?」
「そうだな…」
先輩は目を閉じて考え、やがて眉根を寄せて言った。
「とりあえずエクストラブレンド……」
「分かりましたよっ!」
僕が渋々自販機の前に立って見ると、エクストラブレンド珈琲の缶コーヒーは値段が一番高い。ふざけてる…ストレスメーターが上がるのを我慢しつつ買ったコーヒーを渡すと、先輩はグビッとひと口飲んで語り出した。
「んむ、美味い…以前にも検討したが、どーる嬢にはただ持ち主の念が込もっただけの生き人形とは到底思えない、
彼女は『人形に霊が乗り移った人間』という事だ」
先輩の言葉に僕は唇を噛む。僕もどーる本人もずっと避け続け、同時に心の奥底で囚われ続けていた推測を、先輩が遂に口にした。僕は言いたくない言葉を絞り出す。
「つまり…人間のどーるはもう死んでるって事ですね……」
「んぐ…それはどうかな」
「は?」
コーヒーを飲みながら軽く返す先輩に僕はポカンと口を開ける。
「どうかなって…死ななきゃ霊になれないでしょ?」
「これだから三文小説家予備軍は困るなあ…私がいつ〈
〈シャーマン〉─
面白いのはそんな宗教的職能者であるシャーマンの作法に二種類あってね。〈脱魂型〉と〈憑依型〉なんだが、これがある意味真逆のやり方なんだ。
〈脱魂〉はトランス状態で自らの魂を解き放ち、霊界に飛ぶ。そこで様々な霊とコンタクトし、色々な体験をして知識を得て、それを現実世界に持ち帰って活用するんだ。シャーマニズムの概念を広く知らしめたルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデによると、伝統的なシャーマンはこの脱魂型がほとんどだったらしい。
一方〈憑依〉はトランス状態に入っても自らは動かず、霊の声を聴いたり、逆に霊を自分の肉体に乗り移らせて喋らせたりする。所謂〈降霊術〉だな。日本ではむしろこちらのやり方の方が馴染みがあるんじゃないか?テレビでも見かける霊媒師とか、恐山のイタコとか…。
そうだな、脱魂がアウトドアなシャーマンで、憑依がインドアなシャーマンって覚えれば──」
「ま、待ってくださいっ!」
先輩の魂トークにトランス状態になりかけていた僕は、必死の思いで正気を取り戻した。
「何の話をしてるんですかっ?僕が訊きたいのはどーるの事でっ……」
「だからどーる嬢の話をしているのだが?」
「どこがっ?」
「聞いていなかったのか?
シャーマンは脱魂して、
生きている人間が他人に取り憑いたり心霊写真に写ったりする〈
人形に魂を移したどーる嬢の
僕は呆然と先輩を見返す。生霊?どーるの本体が生きている…?もしもそれが本当なら──希望の光が差した様な気持ちになっていた僕に、コーヒーをグビグビと飲み干した破一郎先輩は満足げに続けた。
「ぷはぁ〜…そうやって誰かの魂が乗り移れたのは、どーる嬢が良く出来た〈
日本のアニミズム信仰では森羅万象あらゆるモノに霊が宿ると考えられてきたが、その現象を意図的に起こしたい時、霊が入る
そして神霊や祖先の霊を依り憑かせたければ当然人間を模して造る訳で、縄文時代の〈土偶〉、弥生時代の〈人面土器〉、古墳時代の〈人物埴輪〉等、全て人間型の形代─
どーる嬢の意識が失くなったのは、腕や脚が壊れたせいでヒトガタとしての完成度が落ち、魂が抜け出たからかもしれん。その魂がそのまま元の人間の体に戻れればいいが、人間本体がホントに生きてるかどうか分からない現段階では、器としての人形から迂闊に離れない方がいい。下手したら行き場を無くして、魂が消滅してしまうかもな。
とりあえずどーる嬢をなるべく綺麗に直してもらってヒトガタに復帰させ、魂を呼び戻した方がいいぞ♪」
「あれ、何やってるんです…?」
下宿先の玄関から出て来た真名が、自販機の横で立ち尽くす僕達に目を丸くする。すっかり青褪めた僕をよそに破一郎先輩が陽気に応えた。
「やあやあ真名嬢。ネガティブな間嶋久作が本領を発揮して、悪い想像に支配されているところだ!」
誰のせいだ─僕が抗議する前に真名が困った様に言う。
「あ…破一郎先輩、いらしてたんですね…。何だかよく分からないけど…私、皆さんのお昼ご飯買ってきます。大和田先輩もお腹空いてるって…」
「じ、じゃあ、僕が
突然復活した僕に真名が驚く。
「任せてください、
早口で
「鰻重がいいな、ATM・間嶋久作!」
先輩の言い草には顔を
その時、沙苗の顔が頭に浮かぶ。
今朝慌てて病院を飛び出した僕は、沙苗の病室には行っていない。
(そうだ…彼女なら昨夜何があったか知ってるかも……)
昨日一緒に病院の庭を散歩した事を思い出す。
─風が気持ちいいね……
髪を揺らして笑う沙苗は優しい目をしていた。どーるのうなじに刻まれた『To Sana』の文字─沙苗は『知らない』と言ったが、何か事情があるのかもしれない。だが彼女ならきっと僕達の味方になってくれる。もう一度沙苗とちゃんと話そう。ずっとトモダチになりたかったのに、入学以来出せなかった勇気を今こそ出して……
僕は沙苗にメールを送った。
三日後─金曜日の夕暮れ時。
「あ、久作クン!ホントに来てくれたんだ!」
世田谷さくら総合病院の正面玄関を出て来た沙苗は、僕に向かって笑顔で右手を振った。両腕の脇の下からアルミ製の松葉杖を突いているが、右足の包帯は外れて普通に白いスニーカーを履いている。着ているのも入院着ではなく、細身の青いデニムの上に袖や裾がフワッと広がった白い長袖のブラウスを重ねていた。
彼女は今日、二週間以上入院していたこの病院を晴れて退院する。僕はそのお迎えに来たのである。
澄んだ空の地平近くまで傾いた西陽が僕の背中から差して、金色の光に照らされた沙苗の髪はキラキラと輝いていた。
僕はそんな彼女にゆっくりと近付いていく。黒いジーンズの上にはカーキ色のフライトジャケットを着込んでいるが、そのMAー1というジャケットは借り物なのでだいぶサイズが大きい。逆光になる沙苗には、膨らんだ上半身が逞しいシルエットに見えたかもしれない。
「どうしたの?今日は雰囲気違うね」
「いや、あの…気分転換って言うか…変かな…?」
目の前まで来た僕の顔を小首を傾げて見上げる彼女に、ドキドキしながら曖昧に応える。沙苗はパッツン前髪の下の目を二度ほど瞬かせて、小さく笑った。
「フフ…ちょっとカッコいいかも」
僕の心拍数は超速で上がる。セレブな〈麗青の御令嬢〉と比べると化粧っ気の無い沙苗だが、打ち解けてから見せるようになった笑顔は何とも魅力的だ。僕同様に入学以来居場所が見付けられずに俯いていた彼女が、前を向いて笑ってくれている──
三日前『話があるのでお見舞いに行きたい』と送ったメールに、沙苗は『もうすぐ退院だからその時にゆっくり』と返信してきた。退院直前はバタバタして忙しいだけかもしれない。しかし彼女が僕とあえてゆっくり話したがっているとも捉えられる内容に、すっかり舞い上がって迎えに行く約束をしたのだ。
─トモダチになれたんだよね…?
「それじゃすぐタクシーが来ますから」
見送りに出てくれていた医師はそう言って頭を下げ、一緒にいた看護師と共に院内に戻っていった。僕は沙苗と並んで玄関先に立つが、ふと目線を落とすと足元にはベージュのトートバッグが置いてある。あの転落事件の際に持っていたモノだ。そのまま救急車で運ばれて入院したのだから持っていて当然だが、彼女の服装の方はあの日とは違う。
「今着てる服、誰の…あ、いや……」
喋り出してから女の子の服装をとやかく言うのはどうなのかと気付く。破一郎先輩がいたらまた『流石童貞!』と責め苦を負う場面だが、沙苗は特に気にしていない様だ。
「看護師さんから借りたの。転落した時の服は破れてたしもう着たくないから…アパートの大家さんに今日退院するって電話で伝えたら、私の部屋から服持って迎えに来ようかって言ってくれたけど……」
沙苗はそこで僕を見て、意味ありげに笑う。
(二人きりがいいって事…?)
心臓が跳ね上がるのを自覚しながらも、僕は考える。沙苗がこの春新潟から上京して独り暮らしなのは知っていた。地元の友達もおらず、大学で孤立している彼女の見舞いに僕以外の学友が見当たらなかったのは仕方が無い。しかし当初は意識不明の
「結月さん、家族は…?」
「うん…まあ、色々あって…」
悩ましげな表情で目を逸らす女子にそれ以上質問する事は、非モテコミュ障の僕には到底出来ない。二人共しばらく黙っていたが、やがて彼女が先に口を開いた。
「久作クン、私に話があるってメールしてきたよね?何…?」
「ああ、いや……」
沙苗は口ごもる僕の顔をジッと見つめてくる。ちょうど正門から入ってくるタクシーを視界の隅に捉えた僕は、意を決して告げた。
「…ちょっと付き合って欲しい所があるんだ…」
サワサワサワ……
「ウフフ…」
僅かに吹いた風が木々を揺らす。葉擦れの音と共に漂ってきた草の香を、沙苗は目を閉じて気持ち良さそうに吸い込んだ。薫風はそんな彼女の髪を撫でて過ぎていく──
夕暮れの麗青みどり公園は
沙苗は遊歩道に立ち松葉杖で体を支えながら、頭上の木を見上げていた。公園前でタクシーを降りた時にはまだ彼女を淡く包んでいた光の粒も今は剥がれ落ち、その輪郭は昏く曖昧に溶けていく。沙苗のトートバッグを持ち一歩後ろに立つ僕は、軽く目眩を覚えていた。
今は目の前の相手が誰か分からない黄昏時か…それとも魔物と見紛う逢魔が時なのか……
朧げな彼女が振り向くが、樹影で表情は分からない。
「…で、話ってなあに、久作クン?」
「…
自分でも声が上ずっているのが分かる。沙苗は何も応えないが、僕は構わず続けた。
「キャンパス中に『人形の命を助けてって騒いだ変態がいる』って僕の噂が広がったのは、むしろ幸いだった…もう恥ずかしい事は何も無い。
この三日間、僕と同じ文芸学部は勿論、法学部や政経学部、教育学部なんかの全学部の学生、教授や准教授に講師の先生、事務職員から図書館の司書さん、果ては警備員さんにまで話を訊きまくったんだ。皆に怪しまれ、特にお嬢様達にはドン引きされる事も多かったけど…どうせ変態だもの…」
「…何を訊いたの…?」
「キミと人形をセットで見た人がいないか、写真見せて回ってね。キミとのツーショット撮っといて良かった…」
「私、あんな人形知らないって言ったよね?」
「そうだけど…でも誰かが人形をこの公園に持ってきて、落としたか置いていったかしたのは間違いない。それも袋とかに入ってた訳じゃなく、剥き出しだよ?あの人形、子供が忘れたオモチャにしては精巧過ぎるからね。それを外で剥き出しで持ってる人─目立つと思わない?だからこの公園でじゃなくても見かけたら、きっと二度見して記憶に残るはず…そう思ったんだ。訊かれた方は僕の正気を疑っただろうけど…どうせ変態だもの…」
自虐気味に笑う僕を沙苗はジッと見ている様だ。
「…それで、私と人形が一緒にいるのを見た人がいたの?」
「うん、いたよ。
そして、あの人形が何の為の人形なのかも同時に分かった。
キミが人形に色んなポーズを取らせて、建物や花壇なんかの前に立たせてるのを見た人が何人かいた。それをスマホで写真撮ったり、スケッチブックに絵を描いたりしてる目撃証言も取れたよ。
キミは絵を描くのが好きなんだね?
あれはその為の、
どーるがデッサン
沙苗はしばらく黙っていたが、やがて頷く。
「この公園でスケッチをした時、あの人形を置き忘れたのね。どこで失くしたか分からなくて…見付けてくれてありがとう」
「いや…でもどうして最初僕が人形を見せた時、『知らない』なんて言ったの?」
「うん……私、よく知らない男に呼び出されて、屋上から突き落とされたでしょ?久作クンの事も警戒しちゃって…関わりたくなくて知らないフリしちゃったの。貴方が善い人だって分かっても今さら言い出せなくて…ゴメンなさい…!」
沙苗はピョコンと頭を下げた。
僕は質問を続ける。
「絵は趣味?…いや、あんな本格的なデッサン人形持ってるんだ、画家とかイラストレーター目指してるんじゃない?」
「まあ、ね…」
「美大とか、そういう系の専門学校に行こうとは思わなかった?」
「あ、うん…ウチの大学、芸術学科もあるから」
「でも結月さん、国文学科だよね?」
「…だからプロになれたらってくらいで、そんな……」
沙苗は言葉に詰まる。僕は緊張がピークに迫るのを感じながら、無理に笑顔を作る。
「結月さんの描いた絵見たいな。あの人形をどんな風に描いたのか…油絵?水彩画かな?アパートの部屋にはキャンバスもあるんでしょ?」
僕の笑顔が彼女からは見えるのか、ホッとした様な声が返ってきた。
「ウフフ、今日は散らかってるから恥ずかしいかな。また今度で良ければね」
「そっか……」
僕はギュッと拳を握った。
「…やっぱりキミは嘘つきだ……」
沙苗のシルエットが昏さを増した。
「キミはこの公園に人形を置き忘れたんじゃない…新宮妃鞠というウチの学生のバイクと接触事故を起こして、人形だけ飛ばされたんだろ?それで急いでその場を離れる為、救急や警察に通報せず人形も捜さず立ち去った…翌日ストーカーしてる相手─麻浦って茶道部員と会う約束してたからね、警察なんかに関わる訳にはいかなかった。
…いや、他にも知られたらマズい事が色々あったんだろ?デートサークルの事…恋愛詐欺の事…そして、蕗村珠子の殺人教唆……
キミは悪質な、は、犯罪者だっ…!」
ゆらり…と沙苗の体が左に傾いた気がして、僕もつられてそちらに視線を流した瞬間──
「久作、危ないっ!」
ハッとした時には遅かった。
バキッ!
「ぐあっ…!」
左膝の外側に衝撃を受けて、僕はよろめく。激痛で手にしていたトートバッグも取り落とし、痛む左膝を手で庇おうと前屈みになる。
「顔上げてっ!」
その声に反応して上げた顎のすぐ前を、ヒュッと何かが掠めていく。僕は「ひっ」と情けない悲鳴を上げて、そのまま尻餅をついた。
目の前の彼女は右手の松葉杖を横薙ぎに振り抜いた姿勢で止まっている。その時遊歩道の街灯が点灯し、仄かに照らされた表情が見えた。
沙苗は面白いモノを見付けた子供の様に、目をキラキラと輝かせていた。
「今の声…いるのね…?」
「あんたみたいな危険な女のとこに、久作独りで行かせらんないからね!」
そう叫んで僕のMAー1の胸元から勢い良く顔を出したのは、どーるである。
大和田先輩が丁寧に直してくれた結果、彼女は再び魂が依り憑くヒトガタになれたのか、生ける人形として甦ったのだ!
「ウフフ…何で久作クンが私の事色々知ってるのかと思ったら…やっぱりお喋りなお人形さんねえ…」
嬉しそうに見下ろす沙苗を、どーるは怒気を孕んだ目で睨み返す。
「二時間位前に目を覚ましてさ、あんたがとんでもない悪魔だって事、全部話したんだ。そしたら久作、これから退院するあんたを迎えに行くって言うじゃん?危ないからって止めたのに…」
「じ、自分で確かめたかったんだ…僕はキミが悪魔だなんて、信じられなくてっ……」
僕の声は震える。膝の痛みもあるが、沙苗を『犯罪者』と呼んだ時からずっと心が張り裂けそうになっていた。勿論、どーるを信じていた。だけど沙苗も信じたかった。だって僕は春からずっと彼女を──だからどうしてもついてくると言うどーるを隠す為に、体格の良い大和田先輩のジャケットを借りてきたのだ。
沙苗はそんな僕を憐れむ様に見て、そして…ニタァと嗤った。
「あ〜あ、久作クン傷付いちゃった…これも全部、お人形さんが余計なお喋りしたせいよぉ…?
久作クン、私の事好きでしょ…?私も貴方の事気に入ってるのにぃ…私のお願い聞いてくれたら、色々楽しい事いっぱいしてあげるんだけどなあ……?」
沙苗は僕を意味ありげに見つめながらニチャニチャと言った。赤い舌がチロチロと舌舐めずりする。その目は僕が魅入られたあの日の輝きとは真逆の、邪悪な光を発していた。
「ふざけんな!」
ジャケットの内側で立ち上がったどーるが、両手を大きく広げた。僕を邪眼から護るかの様に──
「あんた童貞の久作騙して
「このオモチャ黙らせたらいいコトしようね、童貞クンっ…!」
沙苗が狂気を孕んだ笑顔で、どーるに向かって松葉杖を振り下ろす。ショックなワードが連発されて固まった僕は一瞬反応が遅れた。
─どーるっ…!
ガシッ。
しかし
「待たせたな!」
僕のすぐ横に破一郎先輩がしゃがんでいた。
「先輩っ!」
「あっ…破一郎っ?血がっ!」
僕が叫んだ直後にどーるも振り返って叫ぶ。
「離しなさいよっ…!」
沙苗は掴まれた松葉杖を引き抜こうとするが先輩は離さない。頬からの血がボタボタと地面に落ちても、チェシャ猫は笑顔のまま怯まない。沙苗は更に身を
「おい止めろっ!」
「大丈夫、久作さんっ?ゴメンなさい、遅くなってっ……」
僕の背後から遊歩道に駆け込んできたのは、大和田先輩と真名である。
僕にMAー1を貸してくれた大和田先輩は白い丸襟のシャツに白いズボンで医者っぽさが増していて、今日の昼間真名の下宿でどーるの修理が終わった時、僕はつい患者の家族の気分になって『これでこのコは目覚めますかっ?』と口走ってしまった。怯えた顔で固まる大和田先輩に、真名が真剣な顔でどーるは意思を持つ人形なのだと訴えた。一緒に修理をする中で、人形愛に溢れるこの人なら信じてくれると思ったのだろう。そしてその後どーるがゆっくりと目を開けた時、真名は『意識が戻りました!』と看護師モードで笑い、大和田先輩は『うはっ、ホントに生きてる!』と大興奮していた。
そしてどーるから沙苗の正体を聞いて、大和田先輩も真名も僕と一緒に病院まで来てくれると言ってくれた。しかし二人には別に調べて欲しい事があり、公園で合流する約束をしたのだ。真名もサーモンピンクのカットソーに黒いスパッツという動きやすい格好をしていて息が荒い。頼んだ調査に奔走してくれたのだろう。
松葉杖を掴む破一郎先輩、僕の背後から様子を窺う真名と大和田先輩─突然三人も助っ人が現れたので、沙苗も動きを止めている。しばらく僕を無表情に見つめていたが、不意に泣きそうな顔になった。
「ゴメンなさい…私、バイク事故とか転落事件とか色々あって、混乱してるの…。助けて、久作クン…貴方しか頼れる人いないの……」
僕も顔を歪める。
「…僕も結月さんを助けてあげたいよ……」
「ホント?じゃあ──」
「しかし君は、沙苗嬢じゃないからなあ〜!」
素っ頓狂に割って入った破一郎先輩の言葉に、沙苗が目を見開く。先輩はゆっくりと松葉杖から手を離して立ち上がり、固まっている沙苗と対峙する。
「さて、君は誰かな?」
「誰って…久作クンと同級生の結月沙苗よ?」
「いやいや、この変態の間嶋久作がさっき自ら確かめたいと言ってネチネチ質問しまくり、その結果君を『嘘つき』と断じたではないか?」
「でも久作クン、私とは元々友達じゃなかったのよね?私をあまり知らなかったはずなのに、何でそんな事言えるの?」
沙苗の口調がキツくなっていくのを感じながら僕は応えた。
「言えるよ…大学中の人に話を聞いたって言ったろ?」
「大学に私と親しい人はいないでしょ?入院してる間、お見舞いに来たの久作クンだけだもの…私の事知ってる人なんて……」
「いたんだ。親しくはないけど、キミの一番大事な事を知ってる人が…」
僕の言葉に沙苗は首を捻る。
「一番大事な事…?」
「キミはさっき、画家とかイラストレーター目指してるって言ったよね…?」
「え、ええ…」
「入学してすぐ、キミは文連ハウスにある
「漫画…?」
沙苗は呆然と繰り返す。
真名も口を開いた。
「私、結月さんのアパートに行って、大家さんに話を聞きました。結月さんにはおかずのお裾分けとかした事もあるけど、パッと見キャンバスに描いた絵なんか見当たらなかったって…。
だから緊急事態だって無理言って、私もお部屋を見せてもらったんです。そしたらあったのは、スケッチブックや原稿用紙に描かれた人形の様々なポーズの絵と、完成した漫画の原稿のプリントアウト、そしてそれを描くのに使っていると思われるペンタブレット……」
真名の言葉に僕は頷く。彼女にはその確認をお願いしていたのだ。
「結月沙苗は漫画家を目指してるんだ。
だから絵だけじゃなくストーリーを作る為に様々な勉強をしようと、文芸学部の国文学科に入ったんだ。僕も文章を書くプロになりたくてここに来たからよく分かる。〈表現者〉は自分の得意分野だけに偏らず、色んな知識を身に付けなきゃダメだって…だから結月さんは入学後のオリエンテーションで、講義の説明を受けてる時言ってたんだよ─『寄り道したい』って…。
確かにあの人形はデッサン用かもしれないけど、ただ絵を描く人じゃないんだよ彼女は。自分の目標に向かってひたむきに生きている。真っすぐで真剣過ぎて、孤独になっちゃうくらい…それを知らないキミは、結月沙苗じゃない……
キミは誰だ…!」
沙苗は答えない。
「考えられるのは一人だけよ」
代わりに声を上げたのはどーるだ。腰に手を当て沙苗をビシッと指差す。
「貴女は──」
「
「おいっ!」
決め台詞をしれっと盗られたどーるが破一郎先輩にツッコんだ。しかし先輩はどこ吹く風である。
「生きたまま脱魂するのに〈生霊〉は強い執着が必要だし、〈幽体離脱〉にもコツが要るが、他に誰にでも魂が飛ばせるお手軽なフライトプランがあってだな──」
「聞け、破一郎ーっ!」
「破一郎?」
大和田先輩が呟くが、破一郎先輩は構わず続ける。
「ご存知〈臨死体験〉だよ!
死にかけた人間が美しい場所に行ってきたとか、亡くなった家族に遭ったとか、そんな不思議な夢を視たという話は世界中で昔からあったがね…研究の対象になったのは、1892年にスイスの地質学者アルベルト・ハイムが登山時の事故で臨死体験をしたと発表したのが始まりとされる。それから現在までの調査で、例えばオランダでは心停止から蘇生した人の18パーセント、アメリカでは千三百万人が臨死体験をした事があるという証言データが取れたそうだ。
だがせっかくそういう体験をしてもそのまま亡くなってしまっては、その証言はまさに墓場まで持っていかれてしまう。高度な救急医療が発達し蘇生技術が進歩した現代こそ、臨死体験の報告例は増え続けているのだよ。
その体験の内容は人によって細かい違いはあれど、『自分の死の宣告を聞いた』『ブゥーンという耳障りな音が聴こえる』『昏いトンネルの中に入った』『そこから抜け出して光の国に行った』等の共通点が多い。その中でも特によく聞くのが〈体外離脱〉─死んだ自分の体を抜け出して、上から見下ろしてるってやつさ。ホラ、魂が飛んじゃってるだろ、見事に。
つまり、バイク事故を起こして頭を打った妃鞠嬢の魂は、臨死体験で飛び出して──」
「それで沙苗の体に入っちゃったって事でしょっ?」
さっき自分で言いたかった事を途中で遮られたどーるが、意趣返しとばかりに口を挟む。
それを受けて大和田先輩が話し始めた。
「そう、俺も久作君に頼まれてね、〈結月沙苗〉を突き落とした犯人の麻浦と、真名さんに色々やらかした演劇部の青木さんについて調べたんだ。
麻浦は勾留中だけど友達連中が言うには、ヤツがストーカーに遭ってたのは確かに去年の冬かららしい。でも盗撮写真を送り付けたり無言電話を繰り返す犯人が誰か、麻浦自身相手の名前も顔も分からないって言ってたそうだ。
青木さんの方は本人から話を聞けて、
ストーカーとデートサークルの謎の主催者─どちらも今年入学したばかりの結月さんだとは考えにくいよな。その点、新宮妃鞠は経済学部の二年生だそうだ。
「グッジョブ、大和田センセ♪」
「うはっ、ウィンクも出来るんだ、どーるちゃんっ…!」
どーるに笑いかけられてまた興奮する大和田先輩。ニヤケてクネクネしてるので僕が後を引き継ぐ。
「家族の事を訊かれて話を濁したのも、
「『今日退院でタクシー使うからアパートの住所確認させて』って、電話で訊かれたそうですよ、大家さん…」
補足してくれた真名に僕は頷く。
「だからキミはバイク事故のあった晩はアパートに帰れなくて、絵を描いたキャンバスが無い事も分からなかったんだ。それでひと晩どこかで過ごして、翌日とりあえず麻浦と待ち合わせてた文連ハウスに行ったら、そこで転落事件に遭ってしまった。それでまさか、入れ替わった二人が同じ病院に入院するなんてね…。
もう言い逃れは出来ない。認めた方がいいよ、新宮妃鞠さん!」
「…フッ…ウフフッ……」
そこまで黙っていた〈沙苗〉が嗤い出した。
「ええそうよ、私は新宮妃鞠!
お人形さんの言う通り、事故って気失って、ハッと目が覚めたらもうこの体だった。バイクで轢いた時、ちょうど結月沙苗も気失ったのかな?それで入れ替わって向こうは目覚めないんだから、私ってばラッキー♪アハハハッ!」
「何がラッキーよ、悪魔っ…!」
どーるが睨み付けるが〈沙苗〉の哄笑は止まらない。
「アハハッ…悪魔と入れ替わった可哀想な女の子?そんな話、誰が信じるの?ストーカー?デートサークル?そう、それは今死にかけてる妃鞠って馬鹿な女がやった事。そいつが全部悪い、それで解決じゃない。
「なっ……」
僕達は皆絶句した。そんな…確かにこのままじゃ…!〈沙苗〉は憎々しげに舌を出す。
「私は事故で頭を打って色々忘れた沙苗ちゃんで〜す!漫画は描けなくなっちゃうかもしれないけど、これからまた楽しい事見付けて──」
「あー、ところで間嶋久作」
全く空気を読んでいない呑気な口調で、破一郎先輩が話しかけてきた。
「妃鞠嬢はどんな事故を起こしたと思うかね?」
「え?バイク事故でしょ…?」
僕は虚を突かれて思わず答える。〈沙苗〉も目を丸くしているが、先輩の応答は更に彼女の毒気を抜いた。
「いや、
「はあ?」
「何言ってんの?」
僕だけではなく〈沙苗〉まで間抜けな声を上げたが、どーるが場の緊張感を吹き飛ばした張本人に食ってかかる。
「ちょっと破一郎!玉突き事故って何台もぶつかるやつでしょ?今回はバイクと人の衝突だってっ……」
「そのショックで妃鞠嬢の魂が飛び出して、沙苗嬢の体に入る。それで弾き出された沙苗嬢の魂は、妃鞠嬢の体よりもっと入りやすい所に、つい入っちゃったんだと思うけど?
お誂え向きのヒトガタにね」
破一郎先輩の言葉にその場の全員の目が一点に集まった。
視線を受けたどーるは、碧い目を大きく見開く。
「沙苗の魂が…あたしに…?」
破一郎先輩は優しく笑いかけて言った。
「〈
刹那、僕は〈沙苗〉に飛び掛かった。
「どーるの体を返せーっ!」
「なっ、何よあんたっ……」
〈沙苗〉は後ろに
「久作さんっ!」「久作君!」
背後から真名と大和田先輩の声が聴こえる。〈沙苗〉を逃してはならない─僕は必死に叫んだ。
「破一郎先輩!もう一度彼女を捕まえてっ…!」
〈沙苗〉も叫ぶ。
「何なのさっきからっ…
何
─え?
一人で会話…?
僕は何を言われているのか理解できず、頬を伝う汗を手で拭った。
掌は、真っ赤に染まっていた。
「久作ぅーっ!」
どーるの声にハッと我に返ると、〈沙苗〉が遊歩道の脇の林を抜けて公園から出ようとしていた。右足はまだ治りきっていないはずだが、お構いなしに走っている。
「ホントにあたしの体ならやめてーっ!」
胸元でどーるが悲鳴を上げる。何だか分からないが、破一郎先輩がいないのなら僕がやるしかない。
「か、返せってばーっ!」
慌てて追い掛けた僕が〈沙苗〉に続いて公園を出ると、彼女は公園前の道と車道との交差点に向かっている。そこには押しボタン式の信号機があるが、今は歩行者信号は赤─乗用車が一台、二台と通過していくのが見えた。
〈沙苗〉はチラッと僕を振り返ると、ゲラゲラ嗤いながら叫ぶ。
「返せって言われると返したくなくなるねっ…面倒くさいから、もう終わり!」
〈沙苗〉は押しボタンを押さずにそのまま車道に走り出た。
「わああーっ!」
僕も絶叫しながら続く。
パァーッ!
クラクションが鳴り響く中、〈沙苗〉はクルリと振り返って足を止めた。僕は彼女を突き飛ばそうと両手を伸ばすが、〈沙苗〉はそれを受け止めるべく腰を落として身構える。このまま二人揃って車に轢かれる気だ。
真っ白なライトに照らされた悪魔が嗤う──
「ちぇすとぉーっ!」
バスッ!
「ぎゃっ!」
僕の胸から飛び出たどーるが、〈沙苗〉の肩にドロップキックを決めていた。真名が直したドレスは破れた部分を切ったので、元よりだいぶ短いミニスカートになっている。お陰で動きやすくなったどーるの両脚がスラリと伸び、綺麗に揃った見事な一撃だった。
怯んで
ドンッ。
「んげっ…」
背中を強かに打ち付けて一瞬息が止まる。
ギャアンッ……
耳元を激しいブレーキ音が通り過ぎていく。車道は二車線で、僕と〈沙苗〉はその反対車線を抱き合ったまま転がり、向かいの歩道の手前でようやく止まった。
「久作さーんっ!」
間髪入れずに駆け付けた真名と大和田先輩が、ボタンを押して信号を変えた。これで反対車線から他の車が来ても停まる。僕は朦朧として自力では動けず、〈沙苗〉も体を預けてグッタリしている。僕は眼鏡が吹き飛んで視界も曖昧だが、気力を振り絞って周囲を見回した。二メートル程先の路上にどーるが俯せに倒れている。
「どーるっ……」
僕は仰向けで〈沙苗〉をラッコの様に腹に載せて、どーるに向かって背中でズルズルと這う。そして右手は〈沙苗〉を抱いたまま、左手でどーるを拾い上げた。見たところこの間の様に壊れてはいない…僕はホッとしてその小さな体を抱き寄せる。
僕達を轢きかけた車は黒いバンだったが、だいぶ先まで進んで停まっていた。真名と大和田先輩が僕達を歩道に引き上げている間に、運転席から血相を変えた中年男性が降りてくる。
「何やってんだ!死ぬ気かっ?」
「す、すみませんっ…!」
真名と大和田先輩が必死に頭を下げてくれて、当初怒っていた男性の態度も徐々に軟化していった。
「…まあとにかく、事故らなくて良かったが…あんたら大丈夫か?怪我したなら救急車呼ぼうか?」
「えっと……」
真名はチラリとこちらを見るが、僕は〈沙苗〉とどーるを抱いたまま歩道に座り込んでいた。運転手からは恋人を庇っているナイスガイか人形に恋する人でなしか判断が付かなかっただろうが、とりあえず〈沙苗〉を逃さないつもりだった。〈沙苗〉は
「無茶しやがって…ホントに事故らなくて良かったよ…」
大和田先輩が呆れた様にそう言い、真名もフウッと深く息を吐いた。
「…あたしは…事故った…みたい……」
微かにどーるの声が聴こえて、僕は慌てて左手の彼女を見る。
「どうした?やっぱりどこか壊れてっ…?」
「足は…痛いけど…そう…じゃなくて……」
どーるの足を見ようとして気付いた。確かにどーるの声だと思った。しかし喋っているのは人形じゃない──
「また…
(まさか……)
僕はゆっくりと右手に視線を移す。
目に力が戻ってきた沙苗が、僕を見上げていた。
「……どーる…?」
震える声でそう尋ねると、沙苗は小さく頷く。僕は一瞬笑いかけて、ハッとする。
〈沙苗〉の演技ではないのか──?
疑う様な目付きに気付いたのだろう、沙苗はちょっと眉根を寄せて、やがて右手の人差し指を自分の唇に当てる。そしてその指を動かして、そのまま僕の唇に当てた。
「…間接キッス」
そう言ってニッコリした