俺たちがスパーダを握ったのは、翌日のことだった。
朝から、高級ホテルさながらのステーキを嗜む。俺が肉に夢中になっていると、「ムギの料理は最高なのです」と、チロルが嬉しそうに語った。彼の屈託のない笑顔を見ると、こっちまで心が洗われる。
こんな純粋そうな青年が決闘に挑むなんて。ルプスに対して、多大なる嫌悪感を覚える。
朝食のあと、俺たちは庭に出た。剣の稽古をするためだ。
「こちらをどうぞ」チロルが、俺にスパーダを手渡す。「剣道は、このスパーダを使う武術とお伺いしました」
「正確には違うけどな、木刀とスパーダは」
スパーダの握り心地は、木刀のそれとなんら変わらなかった。色が黒みがかっていることと、痛みを増幅させる力があること。腰に差せるように金属の部品があることを除けば、もう瓜二つだ。
「純太さん。剣道では、どういった構えをするのでしょうか」
チロルは、右手だけでスパーダを持っている。軽くステップを踏み、俊敏さを露わにしている。剣道というより、フェンシングに近い。
「剣道の場合か。例外はあるけど、まず両手で握るんだよ」
地面から根が生えたかのように、俺は真っ直ぐと立つ。スパーダを握り直し、チロルに向ける。「こんな感じだ」
「珍しい構え方です。サピエンスとは、こういった武術を会得している種族なのですね」
「俺もまだまだだよ。でも、練習は手を抜いてない。俺ん家の庭でも、毎日素振りの稽古をしてるんだぜ」
「素振りの稽古ですか。剣道を教えてくれるサピエンスが、身近にいらっしゃるのですね」
「そういうわけじゃない。犬に見てもらってたんだ。ちょっとでも変な構え方をすると、あいつ、俺に吠えてくるんだよな」
チロルにも剣道の構え方を教えてみる。だけど、どうも弱々しく見えてしまう。指導しても直らない。やる気は十二分に感じられるから、きっと今まで習ってきた剣術の癖が抜けていないんだろう。きっとそうだ。才能がない、わけじゃないと思う。
「剣道、慣れないものですね」チロルが苦笑する。
「そりゃあ、一日で慣れれば苦労はしないよ」
チロルは、自信なさそうにスパーダを振るう。「やっぱり、ぼくに武道は厳しいのかもしれません」
弱音こそ吐くものの、チロルは挫けずに、両手でスパーダを振るう。諦めるつもりはないらしい。俺も教え甲斐がある。マロンのことは気にしちゃいたけど、目の前で困っている友達を見過ごすわけにもいかなかった。
しばらく稽古をしていると、ムギが庭に顔を出した。「稽古中のところ、失礼します」
「ムギか。もう昼食の時間かい」
「いえ、雲行きが怪しいもので」
てっきりチロルへの皮肉かと思ったけど、ムギがそんなこと言うわけない。話を聞くに、どうやら天気のことらしい。見上げてみると、灰色の雲が空を覆っていた。
「室内で稽古されてはいかがでしょうか」ムギが柔らかな声を出す。
「いいや、まだ庭にいるよ」チロルがスパーダを握り直す。
チロルによると、闘技場のフィールドは天然芝なんだという。だから、本番を想定して庭で稽古がしたかったんだとか。
ムギが歩み寄ってくる。「純太様、稽古を拝見してもよろしいでしょうか」
俺が二つ返事で承諾すると、ムギは晴れやかな顔をして歩み寄ってきた。
その途端、足元の何かに躓いたのか、ムギが勢いよく前方に倒れ込んだ。そういえば、ムギは目が悪いんだ。
それを見たチロルが、地面にスパーダを放り投げる。ムギに駆け寄り、ただならない様子で肩を叩く。「早とちりするな。目が悪いのだろう」
「ああ、ありがとうございます。わたくしのような、吹けば飛ぶような者を気遣ってくださって……」
「何を言うか」チロルが語りかける。「建前だとしても、あまり自分を冒涜するな。ムギは大事な存在だ」
ムギが照れ臭そうに顔をそむけたのを、俺は見逃さなかった。この家にチロルだけが残されても、召使いとして暮らしている理由は、もう言われなくたって分かっていた。
俺は黙っていた。チロルが剣の稽古をしているのは、ムギを守るためだってことを。そうすれば面目が保たれるんだって、どこかで聞いたんだ。
大人っていうのは、こういうことがサラリとできるらしい。
ムギをガーデンベンチに座らせてから、俺たちは稽古を再開した。とはいっても、俺が教えたのは「我慢しろ」ということだけだ。
自分が武器を持っているように、相手も武器を持っている。単純な力勝負で天秤は傾かない。勝つのは、より暴れ回った方じゃない。より冷静だった方だ。我慢さえできれば、すぐに冷静になれる。たとえば、相手が隙を見せたとしても、自分が万全じゃなければ攻めない。勝利に枯渇せず、戦況を見極められるやつが生き残る。
ざっとこんなことを喋る。チロルは「なるほど」と何度も頷いて、より一層張り切ってみせた。もっとも、これは俺の言葉じゃない。俺を指導してくれた先生の教えだ。
我が物顔で言ったって、きっと大丈夫だろう。チロルの先生は俺なんだから。
チロルの構えが様になってきた頃に、小雨が降ってきた。丁度休憩しようと思っていた頃合いだ。目の悪いムギを気遣いながら、俺たちは玄関に避難した。
「わたくしは昼食の支度をします」ムギが廊下を小走りする。すぐに見えなくなった。
俺たちは、休憩がてら、たわいもない世間話で盛り上がった。互いの国の文化とか、家のこととか。どうでもいいことを、さも面白いことのように話した。それとなく訊いてみたけど、チロルは、やっぱりムギのことが気になっているようだった。
今の今まで、何度も凛空のことを思い返した。生きているか不安だった。チロルと話し合って、少しでも希望を持ちたかった。
だけど、凛空を見捨ててしまったチロルを前にして、あいつの話題を出す勇気はなかった。チロルはあんなに臆病なのに、自分だけで逃げずに、俺だけでも助けようとしてくれた。傷口に塩を塗りたくなかったんだ。
「寂しいものです」外に目を遣りながら、チロルが口を開いた。
玄関の外は、依然として雨が降り注ぐ。もう少し休憩を取ろう。
「家族が連れて行かれたのも、このような雨の日でした」
「連行されたんだよな。闘技場に」
チロルが大きく頷いた。黒い髪が大きく揺れた。
「雨、雪、湖……。水は、さよならの暗示。ぼくのお父様の言葉です」
「ああ、そんなこと、あいつも言ってた気がするよ」
あいつとは、もちろん凛空のことだ。いつだっただろうか。小三か小四の、凛空がまだ秘密基地に寄っていた頃だったのは覚えている。
そうだ、秘密基地の途中にある、あの小さな池を横切ったときだ。
「水が怖いんだ。また、大事な誰かを失いそうな気がして」
それは独り言に近いようで、だけど確かに、俺に対して投げかけられた言葉だった。そのとき、「また」という言葉が妙に引っ掛かった。たまらず訊き返したけど、凛空は、さっきまでの記憶がないといった風に、ポカンとした表情を浮かべていた。
あいつは、あの池で溺れたことがあった。誰かに助けられたと語った。その誰かは、きっとお前なんだと言った。
でも俺じゃなかった。
今でも考える。凛空が失ったのは、溺れた凛空を助けたやつなんじゃないかって。
「さよならなんて、ズルいじゃありませんか」
チロルの声で我に返る。雨の打ち付ける音が、耳に入ってくる。
「ぼくは願うのです。雨の音に紛れて、いくつもの足音が響いてこないかと。ノックもなしに扉が開いて、『ただいま』の声が聞こえてこないかと」
チロルが顔を伏せる。
「願いは、二度と叶わないでしょう」
チロルが、目に手を当てる。
「雨は、さよならの暗示なのでしょうから」
俺は、チロルを抱きしめたり、肩を組んだり、そういったことは絶対にしないと決めていた。都合の良い誰かが、彼のそばにいちゃいけないと思った。臆病だからこそ、自分の足だけで前に進む必要がある。これは先生の言葉じゃなくて、俺の考えだった。
俺は「違うだろ」と叫んだ。
チロルが尻込みしているのは、今でも家族を求めてしまうからだ。「願いは叶わない」と口では言ったって、心じゃ可能性を断ち切れずにいるからだ。
ずっと待っていれば、いつか絶対に家族が戻ってくると信じている。その考え自体を否定するつもりはない。むしろ、素敵だなって思う。チロルの純粋さと優しさが表れていると感じる。
でも違うだろ。チロルは剣道の稽古をしたんだ。一度でも、決闘で勝とうと思ったんだ。ルプスに抗おうとしたんだ。それならば、チロルの優しさは間違っている。
力を得ようとした者が、都合の良い言葉を受け入れるだなんて、あってはならないことなんだ。誰かを傷付ける力を得ようとしたのなら、傷付けてまで手に入れたいものを見つけろ。貪欲でいることは、武術を志すのにこの上なく適している。
これらの言葉も、もちろん俺の先生のものだった。俺に当てはまるところもあるかもしれない。だけど、さも自分の考えた台詞のように喋ってやった。チロルに対する想いは、嘘偽りのないものだったからだ。
「諦めないで、チロル」俺は、チロルの目を見据えた。「決闘に勝つ。ムギを守る。家族だって、できたら取り戻す。そのために、俺たちは稽古をしているんだよ」
チロルは、何度も頷いた。「そうでした」と呟いて、しきりに目を擦った。
それでいい。チロルには、自分の足で進める力がある。強くなれる。ムギを守れる。それなのに、お父さんの言葉に惑わされているのは、もったいないことだ。
「稽古をしましょう」
チロルの目には光が戻っていた。その瞳が、彼の勇気を讃えているようにも見えた。
扉を開ける。いつしか雨が止んでいた。太陽がちらりと顔を見せた。
俺が外に出ようとしたとき、ふと閃いた。実戦を意識したトレーニングをしようと思ったんだ。そのためには、まず対戦相手のことを知る必要がある。
「なあ、チロル」それとなく尋ねてみる。「決闘の相手って、どんなやつなんだ? 確か、連戦連勝中なんだっけ」
「そう、そうなのです。ここ一週間で台頭している新人でして」
チロルは、頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「マロンという名の剣士なのですが」