魔導士が「うわっ」と声を漏らしたのは、雨上がりの水溜まりで遊んでいたときだった。
「そうだ、このあと用事があったんだ」
足元がべちゃべちゃに濡れたローブ。こんな格好で、魔導士は用事を済ませる必要があるらしい。どうするのか尋ねたところ、「どうしようかなあ」と間抜けな回答が返ってくるだけだった。
「やっちゃったものは仕方がないからなあ」魔導士は頭を掻く。
「でも、用事は用事なんでしょう」
僕が不安に思っていると、魔導士は「あっ」と晴れやかな笑顔を浮かべて、明後日の方向へ走り出した。
「目的地まで走ろう。そうしたら乾くじゃないか」
魔導士は靴を鳴らして、市街地を駆け出す。まだ走れる体力があるのか、と僕は驚愕した。さすがは犬の子孫だ。慌てて僕も後を追う。
「すまないね」魔導士が、走りながら頭を下げる。「マロンさんの捜索は一旦中止だ。しばらく、凛空だけで探してくれるかい」
僕は少し考えて、首を横に振った。
「魔導士さんに同行してもいいでしょうか」
なんとなく、彼女についていきたくなったんだ。マロンを探すのは大事だけど、それなら魔導士と一緒の方が楽しい。それに、市街地で一人ぼっちになっても、僕はどこに行けばいいのか分からない。最悪、チロルの家に向かえばいいんだろうけど、僕はその家の場所を知らなかった。
魔導士は、走る速度を緩めて、僕のペースに合わせてくれた。同行してもいいよ、という意思表示だろう。ご厚意に甘えることにした。
魔導士が先を行き、僕は背中を追う。目的地まで走り出したはいいものの、魔導士は真っ直ぐ進むことしか考えていないようだ。水溜まりに足を踏み入れて、乾かすはずのローブを、むしろ濡らしていく。猪突猛進とはこのことだ。
ところで、魔導士はどこに向かっているんだろう。僕は辺りを見渡す。進んでも進んでも、レンガの家が建ち並ぶ。アムネルの市街地は、どうやら変わり映えのない場所らしい。ファミリアは目が悪いから、外観にはあまり気を遣っていないのかもしれない。
「近道があるけど、路地裏は怖いよね」魔導士が問いかけてくる。
「頑張ったら大丈夫です」
「頑張らなくていいよ。普通の道を使おう」
そういう気遣いができる魔導士のことが、僕は結構好きだった。一緒にいて安心するというか、信頼できるというか。純太みたいに、僕のことを守ってくれている気がして、どうにも嬉しくて、気恥ずかしかった。
やがて広い道路に出た。集合住宅は数を減らし、代わりに、縦にも横にもだだっ広い建物が現れる。
「あれを見て。あの、でっかい円型の建物」魔導士が横に並ぶ。
「はい、見ています」
「あれが目的地だよ」
そちらに視線を向けると、確かに巨大な建物があった。所々剥がれ落ちた茶色の壁に、三メートルはある巨大な扉。たとえるなら、野球場みたいな外観だ。
それとなく、チロルとの会話を思い返す。アムネルの市街地には、自警団の施設や闘技場があるらしい。自警団がどんな組織かは知らないけど、施設があるとしたら、もっと四角い建物だと思う。円型の建造物というのは、だいたい中心で何かを見るために、円形の構造をしている。
となると、あれは闘技場だろうか。魔導士に訊くと、「正解」と指で丸を作ってくれた。
「闘技場の職員から『試合を観てほしい』って直々に頼まれちゃってね。宣伝目的なんだろうさ」
「利用されている、ってことですか」
「そうだろうね」魔導士は満更でもなさそうだ。「職員なりに考えたのなら、応えてあげるのが魔導士様の仕事だよ」
数分程度走って、闘技場に到着する。ローブはまだ乾き切っていないものの、気にならない程度にはなったようだ。
闘技場の入口で待っていると、一匹のファミリアが近寄ってきた。ネームカードをぶら下げており、紫色のローブを着ている。フードで覆われているからか、顔がよく見えない。きっと職員だろう。
「魔導士様ですね」職員が言った。
「そうだよ、私が魔導士様だ」魔導士が帽子を取ってお辞儀をする。
「そちらの方は、サピエンスですか」
「私の親友だよ。連れてきたんだ」
職員が僕を見る。暗闇から覗いてきた、その冷たい視線に、ルプスと通ずるものを感じてしまう。でもルプスじゃない。ここは路地裏じゃないし、職員のローブは紫色だ。僕が緊張しているから、周りからの視線に怯えているだけなのかもしれない。
「ご案内します。こちらへ」
職員に続いて、僕たちは闘技場の中に入った。エントランスは、まるでホテルのフロントのようだ。入口のそばの壁には、案内板が貼り付けてある。どうやら、観客席は二階らしい。階段は左側を進めばあるんだとか。
職員は左側に進み、階段の横にある鉄の扉を指し示した。
「魔導士様の席は、こちらを真っ直ぐ進んだ先にあります」
二階じゃないみたいだ。なにやら、僕たちには特等席が用意されているらしい。
職員が開けてくれた扉に、まずは魔導士から入る。次に僕が、そっと足を踏み入れる。「お楽しみください」という声が聞こえたかと思ったら、扉の閉まる音がした。
通路は薄暗く、辛うじて二人並んで歩けるほどの広さだ。魔導士は「ワクワクするね」とどんどん先に進んでしまう。
一方の僕はというと、すっかり暗闇に怯えてしまって、息が苦しくなった。壁に手を当てながらじゃないと、歩くことすらままならない。
「魔導士さん」声を震わせる。「あの、お願いがあって」
魔導士が振り返って、僕の方に駆け寄る。「マテリカを使うお願いかい?」
「違います。マテリカは使いません。もう一回分くらいしか残っていないんでしょう」
「大丈夫だよ。最後のマテリカは凛空に使うって決めているから」
目を細めて微笑む魔導士。僕は、勇気を振り絞って、震える手を差し出した。
「手を繋いでください。暗闇が、怖いのです」
魔導士は、何も言わずに握り返してくれた。彼女には敵わないな、と思った。
思い返すと、純太と秘密基地の空洞に入ったときも、僕は暗闇に怯えていた。なんて情けないんだろうと自分自身を戒めながらも、しかし本能的な恐怖には抗えないんだと言い訳を並べる。
今のところは大丈夫。純太か魔導士がいれば、克服したような気になれるから。
真っ直ぐに歩いていると、空洞から抜け出したときのような光が、徐々に差し込んできた。眩しさに目を細める。一気に視界が狭まった。魔導士の手を頼りに、僕は進む。
「凛空、もう大丈夫だよ」
魔導士を信じて目を開いた。まず視界に入ってきたのは、天然芝が広がる円形のフィールド。屋根はなく、見上げると雲が見える。さっきまで雨が降っていたからか、フィールドの地面も所々湿っているようだった。
フィールドは、三メートルほどの壁で囲われている。壁の奥には青色の椅子がずらりと並んでいて、観客らしきファミリアがごった返している。その多くは灰色のローブを着ていた。つまりルプスってことだ。赤色や黄色のローブのファミリアもいるけど、肩身が狭そうに見えた。
「ルプスが多いね。決闘ってのは、彼らのホットな娯楽なんだろうさ」
「決闘」僕は復唱する。「よく規制されませんね」
「私の失態だよ。マテリカを持たないルプスたちにも、娯楽を与えるべきだって思っちゃったんだ。闘技場じゃなくて、もっと他の選択肢があったんだろうけどね。でも、いざ直々にお願いされると、ダメだと言い切れなくって」
僕たちの席は一階にあった。野球場のベンチみたいな場所だ。置かれていた二つの椅子は、観客席のものよりも豪華な装飾を施されている。文字通りの特等席。観客席から見えないようにするためか、絶妙な位置に屋根があった。魔導士が有名すぎるからだろうか。
僕たちは椅子に座った。座面は柔らかくて、クッションと勘違いするほどだった。あまりに深く腰掛けると、お尻が埋まって簡単には立ち上がれない。魔導士曰く、柔らかければ柔らかいほど高級とされているらしい。僕たちに用意された椅子は、その中でもとりわけ品質の良いものらしかった。
しばらくすると、フィールドに二匹のファミリアが現れた。観客席がどよめく。
一方は、赤色のローブのファミリア。スパーダを右手に持ち、自身の身軽さを見せつけるように、軽快なダンスを披露する。だけど体つきがいい。鍛えていることが分かる。
もう一方のファミリアは、青色のローブ。スパーダを両手で握り、じっと静止する。女性だからか、華奢な体をしている。
体も性別も、戦い方も対照的。なんだかワクワクしてしまう。ルプスが熱狂するのも分かる気がする。ルプスのことなんか分かりたくはないけど。
両者が互いに剣を向けて、今、試合が始まった。
最初に動き出したのは、赤ファミリア。自慢の敏捷力を遺憾なく発揮して、あっという間に相手に詰め寄った。剣を振り上げる。頭をめがけて、振り下ろす。物の激しくぶつかる音。青ファミリアが防いだんだ。
剣と剣のぶつかり合い、鍔迫り合い。刃先が震える。赤ファミリアが歯を食いしばる。
青ファミリアが優勢だ。あの細い腕に、屈強な筋力を隠し持っていたんだ。このまま押し通せば勝てる。僕は、なんとなく青ファミリアを応援したくなっていた。
次の瞬間、観客が歓声を上げた。赤ファミリアが押し返したんだ。あっという間に逆転。今度は青ファミリアが劣勢に。先が読めない展開だ。僕は固唾を呑む。
次の瞬間。青ファミリアが、なんとスパーダを手放した。
そして一気に身を翻す。赤ファミリアの一撃は、重力に囚われた。空を切り、地面を揺らす。
一瞬の隙。
青ファミリアは、機敏な回し蹴りを叩き込んだ。赤ファミリアが無様に転がる。どよめく観客たち。
青ファミリアは、地面に転がったスパーダを拾い上げて、両手でぎゅっと握る。倒れ込む相手に向き合い、そのまま動かない。茶色の髪が、地面に向かって垂れ下がっている。
「冷静だ」魔導士が呟く。「あの青いローブの子、かなり動きがいい。よほどの年寄りだと思える」
「年寄り、って。動きがいいなら、若者じゃないんですか」
「逆だよ。ファミリアは、歳を取るほど活発になる。マテリカの保有量が増えるからだと私は考えているけど、実際のところは分からないな」
体勢を立て直した赤ファミリア。スパーダを右手に、地面を蹴って突撃を試みる。振り上げられた剣。獣のような叫び声が、僕たちの元まで届く。肌が震える感覚。
青ファミリアは、上半身を逸らし、前方からの斬撃を難なくいなした。勢い余ってよろける赤ファミリア。青ファミリアは、素早く右足を振り上げる。そして前に突き出す。
ドスリと鈍い音。相手の背中を蹴飛ばした。
赤ファミリアが、顔から地面に衝突する。スパーダを手放してしまう。青ファミリアは、助走をつけて、そのスパーダを遠くまで蹴飛ばす。
武器もなく、隙だらけの獲物。
青ファミリアが、スパーダを振り被る。高く掲げられた剣は、空の光を一心に受ける。観客たちを釘付けにする。闘技場の沈黙を誘う。この一撃が勝敗を決めるんだと、僕は確信する。
スパーダが、そのとき、勢いよく振り下ろされた。僕は目を逸らす。何かが割れたような音が響く。束の間の静寂が、僕たちを包み込む。
すぐに喝采が起こった。拍手が場内を支配した。なんだか居心地が悪かった。確かに、体も性別も対照的な二匹の戦いは、僕をワクワクさせた。だけど、いざ暴力を見せつけられたら、興奮よりも恐怖が勝ってしまったんだ。
「皮肉なものだと思わないかい」
ちらと隣を見ると、魔導士が悲しげな笑顔を浮かべて、観客たちに目を向けていた。落胆とか、失望とか、そういった感情が含まれているように思えた。
「私は、間違ったのかもしれない」
「ええっと」僕は眉をひそめる。「どうして、そう思うのですか」
「マテリカを持つファミリアが、マテリカのないルプスの娯楽に使われている。そのことが、たまらなく悔しかったんだ」
魔導士が項垂れる。拳を震わせる。
「マテリカは、私利私欲には使えない。誰かを幸せにするための力。その力を有したファミリアが、刃を交えて、名誉と誇りを賭けて戦うだなんて、マテリカの、いやファミリアの存在意義に反するじゃないか」
感情を露わにする魔導士に、僕は、どういった気休めの言葉を投げかければいいか分からなかった。だからといって、黙ったままでいるのも僕の道徳心に反した。
どうにかして、魔導士のことを助けたいと思った。
「ねえ、凛空」
名前を呼ばれても、そっちに顔を向けられない。僕の視線は、足元に落ちている。
「私は、アムネルのためにマテリカを使えたのだろうか」
しゃくり上げるような呼吸が、隣から聞こえてきた。
「誰かを救えたのだろうか」
「魔導士さん」僕は呼びかける。下を向いたまま。
「立派な魔導士になれたのだろうか」
「魔導士さん」
「やめて」消え入りそうな声。「魔導士と呼ばないでくれ」
それでも魔導士と呼ぼうとしたとき、そっと頬を撫でられた。温かい手だった。誰の仕業かなんて、とうに分かっていた。だけど目も顔も向けなかった。
弱った魔導士のことなんて、僕は見たくなかったんだ。
「ああ、凛空。私の凛空……」
耳だって、塞いでやりたかったのに。
「私のことを、名前で呼んでくれ」
ある一つの可能性が、僕の中で、ずっと渦巻いていた。それは大した根拠もなくて、吹けば飛ぶような空想に過ぎないだろう。さっきまでそう思っていた。
でも今は違う。魔導士の振る舞いを見る限り、僕の仮説は正しいんだとしか思えない。そして同時に、純太の考えを否定することになる。
結論を言ってしまおう。
それは、ファミリアは犬の子孫じゃなくて、犬そのものだってことだ。
ファミリアたちは、僕のことを「サピエンス」と呼ぶ。でも僕は人間だ。決して人間から進化した生物なんかじゃない。人間そのものなんだ。
塾でこんな話を聞いたことがある。あるものを説明するには、シニフィエとシニフィアンの二つの存在が不可欠らしい。
僕自身を例に挙げてみよう。シニフィエは、言語による説明対象、つまり「サピエンス」「人間」といった単語を指す。
シニフィアンは、物そのもの、つまり「僕」を指す。
ここで重要なのは、シニフィアンがただ一つの概念を指し示すということ。そして、シニフィエが一つとは限らないということ。
要するに、話し手が「サピエンス」を理解していても、「人間」を知らなければ、「人間」というくくりで「僕」を説明することができないんだ。
ファミリアにも同様のことが言える。ファミリアは「ファミリア」を理解していても、「犬」を知らない。だから「犬」と聞いたって、ファミリアの姿形を連想することができない。
じゃあ、どうして四足歩行じゃないのか。どうして人間に近い姿をしているのか。それは分からない。今の僕には説明がつかない。魔導士が、マテリカについて言語化できないように。
それでも、ファミリアと犬は同じだと考えた理由は、あまりに単純だった。
仮説が正しかったら、魔導士の名前を呼べる可能性があるからだ。
おそらく、僕と魔導士は初対面じゃない。なんらかの形で会っている。お互いを知っている。ログハウスで目線を合わせたときよりも、ずっと前から。
僕には犬を飼った記憶がない。でも、ファミリアが犬じゃないと、魔導士との関係を説明できない。僕には言えない事情があって、魔導士が僕の記憶を封じているのかもしれない。こんな突拍子もないことを考えるほどに、僕の頭はお花畑だった。それでもなお、魔導士との関係性を明らかにしたかった。
私のことを、名前で呼んでくれないだろうか。
他でもない、僕に見せた弱みだった。実のところ、僕は魔導士の名前なんか知らない。一度も聞いた覚えがない。でも、弱みに応えられずして何になる。誰かから頼られて、嬉しくないことなんかないだろう。
「魔導士さんの名前なんて、聞いた覚えがないです」
僕はあえて苦笑いを浮かべる。魔導士を感情的にさせるためだ。もっと弱みをさらけ出してほしかった。ムキにさせて、僕だけが知る魔導士を見せてほしかった。
僕たちだけの秘密を作りたかった。たとえば、僕と純太の間には様々な秘密があった。秘密基地の存在だって、その一つだ。正確には、僕と純太とマロンの秘密だけど。
でも秘密ってことに変わりはない。僕と魔導士の間にも、そういった秘密があっていいと思った。強いところも弱いところも、全部見せあいっこできる関係になりたかった。
でも、隣からの反応はなかった。怒らせてしまっただろうか。
「冗談です。名前ですよね。覚えてますよ」
取り繕うように喋っても、やはり何も聞こえない。喋り声も、しゃくり上げる呼吸も、何もかも聞こえない。
僕の頬に触れる魔導士だけが、魔導士の存在を知らしめてくれる。
「大丈夫ですか」
心配になって、とうとう隣に視線を向けた。魔導士はそこにいた。悲しそうに微笑みながら、僕の瞳を見つめている。頬には雫が伝っている。
「ごめん」
魔導士が呟いた。その途端、僕は目を見開いた。
声が漏れてしまった。
「ごめん、凛空」
魔導士の脇腹に、刃物が突き刺さっていたんだ。