願っても祈っても救助が来ないなかで、二人の心身は確実に衰弱の度合いを強めていた。冬の雪山ではないけれど眠ってしまうのは厳禁のような気がして、俺たちはどちらかがまどろんでいるのを確認すると、互いに注意を与え合って命をつないだ。
何もしないよりはマシだろうと、五秒以内に答えるという特別ルールを設けてしりとりを試みたりもしたが、「すき焼き」とか「シチュー」とか温かい食べ物ばかりが出てくるので悲しくなってやめた。
壁一面のエメラルドグリーンに囲まれたまま、時刻はとうとう午前3時半を過ぎた。外はうっすらではあるが明るくなり始めている。しかし雨が止まないことには、いくら明るくなっても外に出ることはできない。4時には洞窟を抜け出て、山からの脱出を目指す算段だっただけに、俺は雨が上がるのを祈るしかなかった。
見れば高瀬は体育座りのまま、寝息を漏らしてうとうとしている。俺は罪悪感を覚えながらも心を鬼にして「高瀬」と呼びかける。彼女ははっとして目を見開いた。
「ごめん、寝てた。間隔が短くなってきたね。耐えなきゃ」
高瀬は気丈に振る舞うものの、限界が近いのは明白だった。目の下にはくまができ、表情はやつれてしまっている。
「仕方ないよ」と俺は笑顔を作って言った。「いつもならとっくに熟睡中の時間だし、ましてや今日はこれ以上ないくらい体が疲れきっている。今日って言ってももう、日付は変わっているけどな」
「もう家にも連絡行ってたりするのかな」と高瀬は不安そうに漏らす。
「その可能性も大いにあるな」
「退学とかになっちゃったらどうしよう。私、ものすごく怒られる。ただでさえお父さんとはぎくしゃくしたままだし。でも、政略結婚もなくなっちゃうかな。これじゃあとんだ不良娘だもの。家だって追い出されるかもしれない」
結婚話がご破算になるのは大歓迎なわけだが、どうやら高瀬も長引く苦境のせいでマイナス思考に陥っているらしい。
「なにか明るい話をしよう」と俺は声のトーンを上げて提案した。「前向きになれる、希望が持てる話を」
「どんな?」
ひとしきり考えた後で、俺たちに共通する話題と言えばやはりこれしかないと思い、それを口にする。
「
「大学」高瀬は弱々しくも確かにうなずいた。「うん」
「高瀬も俺と同じで具体的に学部とかは決めてないって言ってたけど、受験することを決めて勉強を始めて、見えてきたりしたか? 方向性みたいなもの」
「ううん、全然」
「これはイヤミじゃないぞ」と前置きして俺は続けた。「俺とは違って『完璧に近い』高瀬だから、どんな分野でも輝けそうだな」
「そんなことないよ」と彼女は自嘲気味に笑って言った。「なんでもできるってことは、言い換えればなんにもできないってことでもあるんだから」
「どういう意味だ?」
「最近気付いたんだ」と彼女はその説明を始めた。「なんでもできるとは言ったけれど、その反面、私はなにか一つを極めたりはできないの。うん、たしかにどんな分野でも、ある程度のところまでは行ける。テクニックを見つけさえすればいいだけだから。勉強やコンクールはもちろんのこと、ピアノもそうだったし、演劇もそうだった。きっと写真だってフルートだって油絵だって、その気になってやり始めれば、一定の評価を得られるレベルには手が届くと思う。でも決して一流にはなれない。せいぜい地方都市の金賞レベル止まり。その道だけに執心して突き進む人を上回ることは、絶対にできない」
地方都市の金賞にすら達しない人間は俺も含め大勢いるわけだけど、才女には才女なりの苦悩があるのだろう。そして彼女がイメージしている「その道だけに執心して突き進む人」とはきっと黒川さんのような人なのだろう。
「前に神沢君の家にお邪魔して話をした時に、たしか神沢君は『俺にはなにもない、だから大学に行って学歴を武器にするしかない』って言ってたでしょう?」
俺はうなずく。少し恥ずかしい。
「私、
なんにも興味が持てず、うまくできない俺。
なんでもうまくこなすが、一つを極められない高瀬。
相反する特性を持った二人であるが、いざ大学を目指すという段階になって、共通の問題に直面しているようだ。
「ていうかね、きっと神沢君は『なんにもない人』なんかじゃないよ」高瀬はそんなことを言い出す。「私が一番脅威に感じるタイプの人だ。普段はあまり目立たないのに、なにかにのめり込んだ時のパワーはすごい。そうなると私なんかは歯が立たなくなる。神沢君はまだ出会えていないだけだよ。自分がこれなら勝負できるというものに」
「出会えていないだけ、か」俺はうれしくなってつい顔がほころぶ。「出会えるといいけど」
「出会えるよ」と高瀬は言った。そして記憶を辿るように天井を見上げてから、
体力も気力も限界のはずなのに、彼女の声は弾んでいる。俺は胸が熱くなってくる。
「神沢君がかけてくれたんだよね、この魔法。ありがとう」
「どういたしまして」
「大学、か。どんなところなんだろうね?」
「きっといいところさ。俺たちの想像以上に」
「学食はメニューがいっぱいあるらしいね」
「ああ。ボリュームの割には安くて、財布にも優しいそうだ」
「時間割は自分で決めるんだって。私、午後の時間を空けて、アルバイトしてみたいな」
「バイトか。そりゃいい」
「制服がないから、毎日私服で登校するんだよね」
「洋服代がかさむな」
大学生活をイメージした語らいは、なおも続く。
「夏休みがものすごく長いんだよ」と高瀬は言った。「二ヶ月くらいあるみたい。それだけあるなら、海外旅行とかもできちゃうよね。インドとか行こうかな」
「うわぁ」俺は苦笑する。「それ女子大生っぽいなぁ。すごく女子大生っぽい」
「旅の目的は自分探しとか言っちゃう」
「完全に女子大生だよ、それ」
高瀬も苦笑した。そして続けた。
「サークルの勧誘とかも、お祭りみたいですごいらしいね」
「怪しいサークルもあるらしいから、気をつけないとな」
「学園祭も派手だよね。東京から本物の歌手とか芸人さん、呼ぶみたいだよ」
「なんだかさ、そういう時だけ来そうだな、太陽と柏木」
「あり得る」
俺は言った。「学園祭といえば高瀬は、ミスキャンパスとかになっちゃいそうだな」
「え!? 大学なんてきれいな人いっぱいいるし、私なんか無理無理!」
謙遜しつつもまんざらでもない様子の高瀬に笑いを誘われる。
彼女は言った。「卒業式は
「なんかそれ、和洋ごちゃまぜじゃないか?」
「あれ、そうだっけ?」
高瀬は大きく息を吐き出すと、遠い目をした。
「こうして想像するだけで、楽しそうな四年間だってわかるよね。うん、絶対楽しいよ。こんな話してたら、大学に本当に行きたくなっちゃった」
その台詞は俺を現実に引き戻した。
「あのさ。本当に無理なのかな、高瀬の大学進学。本当に避けられないのかな、高瀬の結婚」
「うん。結婚が避けられない以上、大学には合格できたとしても、入学して通い続けることはできないよね」
その口ぶりには、今にも消えそうなろうそくの炎のような侘びしさが感じられた。
「なんとかならないのか……?」
「なんとも……ならない、かな」
そう声を震わせて言う高瀬の瞳は潤んでいた。彼女を悲しませてしまったと反省しながらも俺は、このままではいけないだろうという強い思いを抱く。
おまえは彼女が好きなんだろう? と皮膚の下から声がした。彼女こそがおまえの“未来の君”なんだ。彼女と出会ってからこれまで、いくつのポイントでそう思えた? 彼女はおまえの未来を明るく彩る存在だ。そうであれば彼女の未来を明るく彩るのもまた、他の誰でもなくおまえということじゃないか。
高瀬のなめらかな頬を涙の雫が伝って落ちていく。俺の耳には太陽の言葉がよみがえった。
「結局オレが何を言いたいかというとだな。悠介よ。絶対にめげるなってことだ。高瀬さんは政略結婚の待つ未来は変えられないと口では言っているが、心ではまだ希望を捨てていないはずだ。変えられると信じているはずだ。式の最中に現れて、手を取ってかっさらってくれる――そんな存在を待ち望んでいるはずだ。悠介。おまえさんがなっちまえよ。その白馬の王子に」
向こう三年間は魔法がかかっているおかげで、高瀬はある程度充実した日々を送ることができるだろう。だがその先はどうなる?
しょせん、魔法は魔法、まやかしでしかないのだ。魔法はいずれ解けてしまうから、卒業後のその先も、高瀬優里が高瀬優里として生きられるように、俺は彼女に
「高瀬」と俺は優しく声をかけた。「トカイの次期社長と結婚せずに全てが丸く収まるなら、それが一番いいんだよな?」
「もちろんだよ」と彼女は涙を拭って言った。
「結婚話を受け入れたこと、本当は後悔してるんだろ? 太陽から聞いたよ。結婚相手となるトカイの次期社長って20も年の離れた陰湿で醜いおっさんだって。そんな男と結婚したくないんだろ?」
高瀬は何も言わない。しかし首を横にも振らない。涙だけが溢れ出てくる。
たまらなくなった。俺は立ち上がって、高瀬の正面にまわった。そして彼女の手をとり、涙で揺れる瞳をしっかり見つめながら、口を開いた。
「高瀬。俺は君と約束する。俺は高瀬を大学に行かせる。トカイとのくだらない政略結婚なんか絶対にさせない。だからと言って、君の愛するあの街の人々の未来も失わせやしない。大丈夫だ。俺が必ずどうにかする。全てうまくいく。高瀬の未来に立ちはだかる壁は俺が崩壊させてやる。もう君一人に重い荷物は背負わせない!」
彼女の瞳に「何を言っているんだろう」という嘲りや
「高瀬は前にこう言ったよな。高校卒業までの三年間を変えたいって。でも本当に変えたいのはその先なんだろう? 三年先までなんてちっちゃいこと言わず、そこから先の未来も変えちまおう!」
俺はそこでいっそう手に力を込め、心に残っていた最後の思いを言葉として口に出した。
「高瀬。これからは本気になって、俺と一緒に大学を目指そう。ふたりで大学生になろう」
「神沢君……」
高瀬は消え入りそうな声でそうささやくと、穴の空いた気球みたいに急速に力を失い、俺に身体を預けるようなかたちでもたれかかってきた。しかしそれは彼女自身の意思によるものではなく、物理的にそうなっただけだった。
――彼女の身体と精神は限界をとうに越えていたのだ。
高瀬が気を失ってしまうと、張り詰めていたものがなくなったからだろう、途端に俺の意識も朦朧としてきた。
高瀬の体からもたらされる心地よい温もりに身を委ねるように、俺も緑色の世界から暗黒の世界へと呑まれていく。
記憶があるのは、そこまでだ。