壁一面にヒカリゴケが群生する洞窟に身を寄せてから、しばらく時間が経過した。
もし柏木たちがキャンプ場に戻れているなら、教師たちがこの事態を知り、今頃赤ら顔を真っ青にしているだろう。
はじめのうちこそ現実離れした光景に魂を抜かれたみたいになった俺と高瀬ではあるが、美しいものを目にしたからといって、腹がふくれるわけでも不安が払拭されるわけでもない。
風は防げているがそれでも寒さは依然としてあり、俺たちは洞窟の壁に腰掛け、体を窮屈に縮めて小さくなっていた。
「強がらないで」と俺の隣で体育座りしている高瀬がコートに手をかけて言う。「元々これは神沢君のなんだから、神沢君も暖を取らなきゃだめだよ」
そのコートをすぐに羽織りたいのが本音だが、高瀬に寒い思いをさせて俺一人
「大丈夫だ。こう見えても俺は、寒さには――」
強いんだ、と言いかけたところで大きなくしゃみが出た。それでは説得力などあるわけもなく、高瀬に呆れ顔をさせてしまう。
「はい、リーチね。もう一回くしゃみしたら、これ、無理矢理にでも着せるから」
どこからどう見ても男物の黒いフード付きコートだが、それを着る高瀬もなかなか様になっている。美人は何を着ても似合うからかなわない。
「せめて夕食をきちんと食べられていたらな」と俺はくしゃみを堪えて言った。
「そうだね。あのカレーはちょっと無理だったよね」
「末永には悪いけど、あれは飢えた熊でも食わんだろうな」
「温かいもの、食べたいね」
そう言ったかと思えば、高瀬は気まずそうに体勢を変え、みぞおちの辺りを両手でさすった。
動物の威嚇する声でも、机を動かす音でもない。生理現象の音が狭い洞窟内に反響する。
恥ずかしそうに顔を赤らめる高瀬。
「今はそんなこと気にしなくていいのに」と俺は苦笑して言った。
「あのね」彼女は眉をひそめる。「どんな状況だって女の子は女の子なんです。もう、神沢君だってお腹は空いてるはずなのに、なんで鳴らないかな。私、ずっと我慢してたのに」
ふと足を組み直した時、
グッジョブ太陽、と俺は心で感謝を告げる。それにしてもまさか本当に遭難して、これに頼ることになるとは。
栄養食品をポケットから取り出し、高瀬に渡した。「食えよ」
「えっ、いいの?」
「ああ」
彼女は申し訳なさそうにそれを開封した。そして中身を半分くらいのところで折って俺に差し出した。
「さすがにね。全部というわけにはいきません。はい、半分こ」
別にこうなるのを意図していたわけではないが、拒めば高瀬なら「それじゃあ私も食べない」とか面倒なことを言い出しかねないので、俺はその片割れを素直に受け取ってかじりついた。
「おいしい」と高瀬は言った。「まったく食べないよりはこれでもだいぶ違うよね」
「そうだな。陽が昇るまでくらいはもってくれるかな」
緑の光が照らす中、俺は腕時計を見て時間を確認する。針が指し示す時刻は夜の11時過ぎだ。さいわい、夏至が近い季節だから、あと5時間もすれば明るくなるだろう。
残り5時間の耐久勝負。
久しぶりにわずかではあるが舌と胃を刺激したことで、生への渇望のようなものがみなぎってきた俺は、高瀬と視線をかわし、生きてこの山を出る決意を強めた。
♯ ♯ ♯
俺は捜索の手がこのあたりまで及んでいる可能性を考え、数十分おきに洞窟の入り口に戻って外の様子を観察するようになっていた。
人の気配を感じることがないままそうするのが五度目になった現在、外では怒り狂った神様が空から放水しているかのような大雨が降っていた。山の天気は変わりやすいと聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。
俺はこのヒカリゴケの洞窟を見つけられていなかったケースを想像して、ぞっとした。
洞窟の奥へ戻り高瀬にも突然の降雨を伝えると、やはり彼女も俺と同じことを考えたらしく、たちまちその表情は曇っていった。
「私、一人だったらどうなっていたんだろう? コートもなくて、歩くのも
それ以上は言葉にしなくたって、何を言いたいかわかる。いまだにどこか他人事のように自分の最悪の可能性に思いを巡らせている様子の高瀬を見て、俺は前に柏木が言っていたことを思い出した。
「優里の行き過ぎた良い子ちゃん精神、それがいつか
まったく、あの女の勘というべきか、第六感というべきか、先見の明には感服するしかない。まさしく高瀬はその自己犠牲精神で今夜、命取りとなる一歩手前まで自分を追いやってしまったのだ。
そもそも高瀬優里という女子高生が自らの未来に本来は望んではいない結婚を組み込んでしまったのだって、その性分に
寒がる末永に自らのコートを与えたのも、崖で柏木を助け自分は転落していったのも、俺たちの街のための政略結婚も、みな全て、元を辿れば、同じ精神性に基づくものである。
高瀬のその気質が果たして天性のものなのか、それとも後天的に身につけたものなのか、俺はそこが知りたいと思うようになっていた。幸か不幸か、時間だけは有り余っている。
俺は元居た場所に腰掛けて高瀬の名を呼び、それを問うてみた。
まず返ってきたのは「どうだろう」というつぶやきだ。声はくぐもっていた。そして高瀬は首を振ってこう続けた。「私、そんなに良い子じゃないよ?」
それは謙遜しているというよりは、本気で否定しているような言い方だった。
「柏木から聞いたよ。中学の修学旅行、自分が参加しないことで、他の生徒を救ったって。なぜそんなにも他の誰かのために自分を犠牲にしようとする? 単純に点数稼ぎってわけじゃないよな? 今日だって高瀬は自分をなげうってばかりだったし、三年後の結婚だってそうだろう? 柏木の言葉を借りれば、高瀬はちょっと良い子過ぎるような気がするんだ」
「良い子なんかじゃないって」と高瀬はきっぱり言った。「晴香も神沢君も葉山君もH組の生徒もみんな私の本当の顔を知らないだけ」
本当の顔、と俺は繰り返した。
「神沢君。知りたい? 私の――高瀬優里という人間の、本当の顔」
驚いた。そう言う高瀬の表情には、昼間に坐禅を組んだ後とはまるで別人の、黒さや
俺は高瀬のことが好きだ。だから当然の欲求として、彼女のことを一つでも多く知りたいという気持ちはある。
「聞かせてもらいたい」と俺は答えた。
高瀬は壁のヒカリゴケをじっと見つめた。しかしおそらく美しい光に心を奪われているわけではない。彼女がそこに見ているのは、きっと、いつかの時点の自分自身だ。
やがて彼女は抑揚のない冷たい声でこう言った。
「私はね、一人の人間を殺しているんだよ」