7月31日 十中三人娘

 琴平さんたちに勧められた塾は、中心街から外れた住宅街の中にあった。

 町中に行けばビル一棟をまるまる有するような有名学習塾・予備校がいくつかあるけれど、比べてしまえばずいぶんと規模は劣る。

 たぶん、生徒数も圧倒的に少ない。

 正直、聞いたこともないグループだったけど、貰ったアドレスからホームページをみた限りでは、都心部ではそれなりの校数を持っているようだった。

 ウチの県で開校しているのはここだけ。

 講師は隣県にある大きな支店から出張で来るようだ。

 ある意味、お試しで開校しているようにも見える。


「お、来ましたね会長サン」


 講義室に入ると、さっそく琴平さんが手を振って絡んでくる。

 学校のクラス替えと違って、塾ともなれば周りは知らない人ばかり。

 こういう絡みはありがたい。


「とりあえず見学だけだけどね。雲類鷲さんも、あれから体調はどう?」

「あんなもん、一日休みゃ治るんだよ。てめーらと違って鍛えてるからな」


 雲類鷲さんはそう言って得意げに胸板を叩くけど、勢い余ったのかそのまま咽ていた。


「無茶はダメ」

「うわっ」


 真横からぬっと黒い影が現れて、思わず飛びのいてしまった。


「気管が痙攣したときは、ゆっくり、浅く呼吸」

「スワンちゃんもここ通ってたんだ……」


 私の存在など気にせず、須和さんは手のひらで優しく雲類鷲さんの背中を叩く。


「はい、ツー、トン、ツー、トン」

「モールス信号かよ。てかちょっとせき込んだだけだ」

「そう」


 須和さんは、ぱっと雲類鷲さんの傍から離れると、今さら存在に気づいたように私の事を見て、ゆっくりと首を傾げた。


「なんで?」

「いや、琴平さんたちに紹介されたから」

「そう」


 それだけで納得したのか、そもそも興味がないのか。

 須和さんはいつものポーカーフェイスで私を見上げる。


「よろしく」

「ああ、うん。でもまだ通うか分からないけど」

「どうして?」


 どうして、と聞かれると答えに詰まる。

 単純に塾そのものに通うかどうか迷っている、なんて説明したところで質問攻めが重なるだけだろうし。

 ここはあえて何も語らず、それとない愛想笑いだけで返しておいた。

 須和さんは不思議がっていたけど、その疑問を跳ねのけるように講義室の扉が開いた。


「講義を始めますよー。ああ、体験の生徒さんは好きなとこに座ってください。あとこれ、貸出テキストです」

「ありがとうございます。お世話になります」


 講師からテキストを受け取って、後ろの方の空いている席に座る。

 須和さんたち三人は、まとまって真ん中あたりの席に座っていた。


 そのまましばらく、流れに任せて英語の講義を受けた。

 学校の授業しか受けていない私にとっては、いくらか新鮮な時間だった。

 学校でも教師によって教え方の違いってのはあるけれど、彼らは根っことして実用英語を教えていると思う。

 それは学校教育という性質上、本質的にはそうあるべきだという共通理念があるんだろう。

 だけど塾とか予備校ってやつは目指すところが違う。

 第二言語としての英語を理解することではなく、受験に合格すること。

 そのための手段や方法論に則って教えている。


 英文ではなく問題文として文章題を捉えるとか、文法を数学の公式みたいに機械的に捉えたりとか、出題者の意図を逆算して読み解くとか、普段はしない穿った視点――あえて言うなら捻くれた視点に触れることになる。

 これがいわゆる受験英語。

 実用性を無視した、テストで点を取るための勉強法。


 講義が終わって、別室で今日の講師と軽い面談を行うことになった。

 どこかぼんやりとした印象の女性教師は、一見すればちょっと頼りない印象も受ける。

 彼女はパンフレットをもとに、塾の特色や受験に向けてのスケジュールを丁寧に説明してくれた。


「今日、講義を受けてみてどうでしたか?」


 営業を兼ねた面談の最後に、彼女がそんなことを訊ねる。

 私は今しがたの講義を思い返しながら、正直に答えた。


「とても新鮮でした。こういう考え方もあるんだっていうか……そういう解き方をしても良いんだっていう盲点を突かれたというか」

「そう思って貰えたなら講義をした甲斐がありました。高校の授業との違いを感じてもらえなければ、この教室がある意味がありませんからね」


 その口ぶりからすると、きっと今日は見学者がいたから、より特色のある講義を展開したってことなんだろう。

 体験会の場は、彼女たちにとっては営業の場でもある。

 そう考えてみたら、彼女は見た目ほどぼんやりした人ではないのかもしれない。

 これもまた視点の切り替えなのかな。


「私は、本校に通ってみませんかというお誘いはしません。ですが、少しでも役に立ちそうだと感じて貰えたら、夏季の短期講習だけでも参加してみてください。これ、申込用紙です。サイトからWEB申し込みもできますよ」

「ありがとうございます。検討してみます」

「本音を言えば、狩谷さんは既に有名大に合格できそうな実力がありますので、ぜひ入校してほしいですけどね。合格者を排出することが、なによりの宣伝になりますのでー」


 悪びれる様子もなく、彼女はさも世間話のようにそう語る。

 天然なのか、心臓が強いだけなのか、それすらも営業のうちなのか。

 よくわかんないけど、癖のある人なのは間違いなさそうだ。


 面談を終えて教室を後にする。

 入口で靴を履き替えて外に出ると、須和さんたち三人衆が、自販機のところでたむろしていた。


「終わったか。思ったより早かったな」

「うん。簡単な説明を受けて、夏季講習の宣伝を受けて、それで終わりって感じだった」

「あの先生、営業は適当ですからねえ。ワタシも最初、通わせる気があるのかって疑問に思ったものですよ」

「でも、通うことにしたんだ」

「家から近いのと、白羽ちゃんが既に通ってましたから」

「スワンちゃんが?」


 話題に上がって、その姿を見る。

 缶のコーンポタージュに口をつけていた彼女は、それを飲み込んでから、遅れて小さく頷いた。


「中学から通ってる」

「それはすごい」

「部活、忙しいから」


 ええと……部活が忙しいから、塾で勉強をカバーしてるってことかな。

 校内でも指折りの練習時間を誇る吹奏楽部だけれど、そこに属する須和さんは学年トップクラスの成績の持ち主でもある。

 いったいどんな勉強をしてるんだと疑問に思ったこともあるけれど、その答えがこれってことなんだろう。

 もちろん塾に通ってるから成績が良いわけじゃなく、部活と勉強とメリハリをつけて取り組んでるってことなんだろうけど。


「で、どうするおつもりです?」

「夏期講習は出てみても良いかなって思っているところ。以降の事は、またその時にって感じで」

「では、しばらくは同窓の志ですね。よろしくお願いします」


 琴平さんは芝居がかった様子で握手を求めてくる。

 私はそれを受けつつ、雲類鷲さんに視線を送った。


「そう言えば、心炉が学園祭の出し物の進捗を心配してたよ。私もだけど」

「出し物って――ああ、クラス出店のことか。そういやすっかり忘れてたな」

「忘れてたんだ」


 どうやら、思った以上にほったらかしにされていたようだ。

 忙しいのは分かっているけど、早いうちにせっついてみて良かった。

 雲類鷲さんは、バツが悪そうに頭をかく。


「いや、まあグループチャットで相談自体はしてるんだけどな。微妙に決め手に欠けてな」

「なんなら、一度クラスのグループに投げて貰っても。捻る頭は多い方が良いと思うし」


 あと単純に進捗を知りたいし。

 何事も不明瞭な状態が一番心配だ。


「しかし、狩谷はまだしろ毒島にまで心配されちまったら、少しは本腰入れてかねーとな。あいつも案外楽しみにしてんのかな」

「楽しみって言うよりは、鬼気迫ってるというか」

「なんだそれ?」


 首をかしげる彼女に、私は昨日のことをありのままに伝えた。

 すると、雲類鷲さんの顔が、暗がりでもなお分かるくらいに青ざめた。


「え……先代くんの? まじで?」

「だから、その反応はなんなの」


 雲類鷲さんどころか、琴平さんも須和さんも――ああ、いや、須和さんは相変わらずのポーカーフェイスだった。

 というかそもそも彼女が呼んでくれって言ったんだから、冷静に考えて驚くわけがない。

 雲類鷲さんは、かろうじてまだ心中をお察しできる。

 実行委員長として、OGに恥じない学園祭にしなければならないというプレッシャーはあると思う。

 でも、この飄々とした琴平さんまでとは……いったい何が彼女たちをそうさせるのか、理解に苦しむ。


 ひとしきりショックを受け終えた雲類鷲さんは、気を取り直してしばらく思いつめたように思案する。

 それからちらりと私に目を向けた。


「狩谷、明日ヒマ?」

「まあ、勉強以外の用事はないけど……」

「じゃあ学校集合な。時間は後で連絡する」


 彼女はそう言って、覚悟を決めたように拳を握りしめる。


「そう言う事情なら最終兵器を出す……!」


 最終兵器――って何のことだろう。

 全く心当たりがないけれど、たぶん明日、見せてくれるってこと……なのかな。

 そんなものがあるなら最初から準備すれば――なんてことを考えると、むしろ勿体ぶった理由の方が気になってしまう。

 どうやら視点を変えることは必ずしも良いことばかりじゃなくって、不安を抱くことになる場合もあるらしい。