7月26日 レイクサイドはミステリー

 事件は早朝に起きた。

 合宿の朝は、毎日六時半に集合してラジオ体操をするところから始まる。

 優れた学業のためには程よい運動も必要だということで、朝の点呼も兼ての催しだ。

 睡眠時間はスケジュールとして指定されているけれど、ラジオ体操の時間までは一応の自由時間という扱いになっている。

 だから朝に強い面々は、もっと早く起きて野山を散歩したり、部によっては朝練に励んでいたり、朝風呂を決め込んだり。

 私はどんなに頑張っても六時起きが限界なのでギリギリまで眠らせて貰うつもりだったのだけど、時計のアラームよりも先に、何やら騒がしい気配で目が覚めてしまった。


「……何、外うるさくない?」


 目ヤニをこすり取りながら、血の巡りきってないだるい身体を起こす。

 すると、同様に今起きたところらしい部屋の面々と目が合った。

 流石、文化部面子。

 朝活に励むような人間はひとりもいないらしい――と思ったけど、綺麗に畳まれた布団が一組だけ視界に入る。

 雲類鷲さんのだ。

 元水泳部な彼女は、この部屋で唯一アグレッシブな世界の住人のようだった。


「雲類鷲さんは?」

「朝風呂キメるって言って出てったのは見ましたよ。ワタシも誘われましたが、まだまだ活動限界時間だったので遠慮しておきました」


 琴平さんはそう言って、大きなあくびをひとつする。

 何かよく分からないけど、寝てていいならもう少しだけ寝ていたい。

 たぶん、ここに居る誰もがそう思っていた。

 でもそういうささやかな幸せってのは、基本的には叶わないもので。

 やや乱暴な扉のノック音が、かすかな希望を撃ち砕いた。


 私はもぞもぞと布団から這い出して扉の内鍵を開ける。


「狩谷、起きてたか。朝からすまんがちょっと」


 扉の向こうから学年主任の女教諭が、何やら深刻そうな表情で手招きした。

 それから部屋の中に目をやって、思い出したようにひとつ付け加える。


「雲類鷲の荷物も、持てるだけで良いからついでに持ってきてくれると」

「流翔ちゃんがどうかしたんですか?」


 部屋の中から口を挟んだのは、友人であるところの琴平さんだ。

 彼女の問いに、学年主任はちょっと迷ったように素振りを見せてから、観念したように息をつく。


「一応、同じ部屋の面子には伝えておこう。心配して変な噂がたっても悪いしな」

「噂?」


 勿体ぶってるわけではないのだろうけど、妙にじれったくなって続きをせっついてしまう。

 その後すぐに学年主任の口から聞かされたのは、予想もしないひと言だった。


「雲類鷲が倒れた」


 知らせを耳にして、手早く荷物をまとめた私たちは、救護室代わりにしたらしい客室を訪れる。

 そこでは、ひと組だけ敷かれた布団の上に、雲類鷲さんが寝かせられていた。


「流翔ちゃん、まさか死――」

「――んでねえわ!」

「ですよねえ」


 その姿を見るなり大げさに驚いてみせた琴平さんだったけど、かぶせるように響いた雲類鷲さんの怒声に、すぐに笑みを浮かべる。


「何があったんですか?」


 状況も確認したところで、私は学年主任に事情を訊ねる。

 なんでも誰もいない朝の一番風呂をキメていた雲類鷲さんだったが、しばらくして入浴しに来た後続の生徒が、湯船でのぼせている彼女を発見。

 すぐに先生たちを呼んで、今の状況――ということらしい。


 話を聞くなり、心炉が呆れたようにため息をつく。


「動けなくなるほどのぼせるなんて、体調管理がずさんすぎますよ」

「ばっ……いや、それはその通りなんだけどさ」

「けどって何だよ。けどって」


 微妙に歯切れが悪い雲類鷲さんを、アヤセがせっつく。

 すると雲類鷲さんは、バツが悪そうに……というよりは気を苦を掘り起こすように、眉をひそめて視線を逸らす。


「なんつーか、襲われた……ような気がするんだよな。人間か、動物か、よく分かんなかったけど……二足歩行のでっかい影に」


 襲われたって、また大層な。

 しかも二足歩行なんて言ったら、こんな場所じゃ答えは限られる。


「まさか熊……?」


 心炉が青ざめながら言う。

 いやいや、流石にそんな……山の中ではあるけど、比較的人里に近くて騒がしいエリアだよ。


「まさか暴漢……?」


 アヤセが引き気味に言う。

 ううん……可能性的にはなくはなさそうだけど、あまり現実味はない。

 仮に女子校がここで合宿をしてるって情報がどっかから漏れてたら、そういうこともあり得る……のかな?


「まさにレイクサイドミステリーだね! ホッケーマスクの怪人かな?」


 ユリがキメ顔で言う。


「あんたいつの間に居たのさ」

「騒ぎあるところにあたしあり、だよ」

「最低最悪じゃん」


 思わず素でツッコんでしまったけど、文字通りいつの間にか会話の輪に紛れていたユリはどっかりと腰を下ろして部屋に居座った。

 変に引っ掻き回さなきゃ、べつに居てもいいんだけどさ。


 すると、それまで静かに話を聞いていた琴平さんが、何か納得したように頷く。


「つまり、影が何かを確認する間もなく、驚いた流翔ちゃんは気を失って、そのまま温泉でのぼせたってわけですね。流石ヘタレヤンキー」

「ヘタレでもないしヤンキーでもねーわ!」


 雲類鷲さんの再びの怒声が飛ぶけど、頭に血が上ったせいか、すぐにうめきながらぐったりと布団に身体を預ける。

 不躾かもしれないけど、私はそんな彼女の姿をもう一度見渡した。


「襲われたのが本当かどうかも分からないけど、少なくとも気絶してる間に乱暴されたりはしてないわけだよね」

「ああ……まあ、それは大丈夫みたいだ」


 雲類鷲さんは、いくらか恥ずかしそうにしながら着せられた浴衣の合わせを寄せる。

 私は、脳裏に浮かんだ素朴な疑問に首をかしげる。


「熊でも暴漢でも、傷ひとつないってのはおかしくない?」


 何もなかったのはもちろん良いことだけどさ。

 私の疑念に、他のみんなも「確かに」と頭をひねる。


「気絶したから、死んだふり効果があったとか?」

「雲類鷲さんが怖くて手が出せなかったのでは?」

「いいや、きっと相手は心優しきモンスターだったんだね」

「そもそも流翔ちゃんに食料としても女としても魅力がなかったとか」

「動けないからって好き勝手言うんじゃねーよ」


 テキトーな推理合戦も、当事者の一喝で強引に締められてしまった。

 私としては、推理合戦までするつもりはなかったのだけど……ここは場を納めて貰う意味でも、学年主任を仰ぎ見る。


「仮に熊や暴漢だったとして、合宿どうするんですか?」

「本当にそれらに襲われたんだとしたら、生徒の安全を守らなければならない手前、中止してすぐに帰宅としなければならないわけだが……いかんせん、雲類鷲の記憶が曖昧だからな」

「すんません。正直、のぼせるのが先で、夢でも見たんじゃないかっても思うっす」

「怖かったんですねえ。よしよし」

「ぜってー馬鹿にしてんだろ」


 口ではそう言うけど、動けない雲類鷲さんは大人しく琴平さんのよしよしを受けていた。


「ひとまず、しかるべきところに相談だけして合宿は継続とする。自由時間はひとりにならないよう、最低限部屋単位では動くようにと朝礼で通達しよう。心配がある者は、早期の帰宅バスも手配する」


 不安はあるが、妥当なところか。

 帰宅バスの手配もありがたいけど、少なくともこれくらいで帰る生徒はウチにはいないような気がする。


「先生!」


 部屋の入口の方から、溌剌とした声が響いた。

 みんなで一斉に視線を向けると、そこに腕組みをして仁王立ちするレスリング部の部長さんの姿があった。

 よく見れば、その後ろに他の格闘技部の面々も同様に仁王立ちしていた。


「暴漢程度であれば我々が返り討ちにするので問題ありません。入浴時間の警備は任せてください」

「学則要項その三〇。自らの危険は自ら遠ざけること。仮に熊であっても、我々は不退転の覚悟です!」

「押忍!」


 部長さんたちの言葉に、格闘技連合のみなさんが声をそろえて応える。

 学年主任も流石に気圧された様子で、思わず首を縦に振らされていた。


「あ、ああ……まあ、無茶はするな。その学生要項もそもそも『危険に近づくな』って意味だからな」

「押忍!」


 またお腹の底からビリビリと響く返事。

 たかだか女子高生の運動部の集まりのはずなのに、この頼れる安心感は何だろう。

 熊はまだしも、暴漢くらいなら文字通り返り討ちでボコボコにしてしまうんじゃないだろうか。

 とりあえずこういう時は、彼女たちをこう称するべきだろう。

 カッコいい――と。


「その間、あたしは謎の解明――だね」


 ユリが良い笑顔で同意を求めてくる。私は小さく鼻で笑ってから、首を横に振った。


「だね、じゃない。合宿続行なんだから、普通に勉強しろ」

「ええー! レイクサイドだよ!? ミステリーだよ!?」

「あんたがIQ一八〇の高校生探偵なら好きにすればいいけど」

「期末テストなら一八〇番をマークしたよ!」

「勉強しろ」


 それは無慈悲ではなく、愛情からのひと言だ。

 そう言って話を聞くヤツなら苦労はしないんだけど……とりあえず、大事にだけはしないで欲しいな。

 勉強の時間を削がれることだけは、断固として阻止したい。