ユリの家に来るのは久しぶりのような気がする。
高校生にもなれば誰かの家で遊ぶ機会自体が少なくなるし、そもそもお邪魔したこと自体が数えるほどしかないのだけど。
ちなみに、仲間内でダントツトップの訪問数なのがアヤセの家――というかお店。
その次がおそらくウチだと思う。
別に優劣をつけるものではないけれど、ウチにはあの姉がいたから、一粒で二度おいしいみたいな、そういう感覚で優先順位が高かったような印象だった。
「ようこそわが家へ!」
玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにユリが出迎えてくれた。
ビッグサイズのTシャツに、たぶん下はスパッツがホットパンツ。
シャツの裾で隠れて定かではないけれど、自宅ということもあってか特別ラフな格好だった。
私はと言えば、シンプルなサマーワンピにキャスケットをかぶった一応のよそ行き仕様。
ご家族が留守なのは聞いているけど、よそ様の家にお邪魔するのにコンビニに行くような格好はできない。
「アヤセは遅れるの?」
「それがねー、今日はオープンキャンパスに行かなきゃいけないんだって」
「は?」
なにそれ、聞いてないんだけど。
つまりなんだ。
もしかして今日、私だけお泊りするの?
「そういうわけだから、今日はマンツーマンでおもてなしするね!」
「お手柔らかにお願いします。ほんとに」
予定外のふたりきりに若干気圧されてしまったけど、今さら狼狽えるようなことじゃない。
京都旅行だって行ってるし。
若干一名のことは記憶に透過フィルターをかけてるけど。
ただ、あの誕生会の直後だってことで気まずさが先行してしまうのだけは、致し方ないと思う。
なんでこんな日に限ってアヤセの奴はいないんだ。
そのうち、本人には全く謂れも心当たりもない八つ当たりをかましてやる。
「ごはんは何がいい? お金貰ってるから食べに行ってもいいし、出前もありだよ」
「エビカレー」
「いいの、それで?」
「エビカレーがいい」
「チミがそういうなら任せたまえ。確か冷凍の海老ちゃんがあったかな。とりあえず、扱ったでしょ? 先にお風呂どうぞ」
「そうさせてもらおうかな」
昨日までの雨が過ぎ去ったということもあってか、今日は一週間ぶりくらいのかんかん照り。
あまりの暑さに普段なら自転車で来るところをバスで来たっていうのに、それでも日焼け止め代わりのBBクリームが溶け出してしまうんじゃないかってくらいには汗だくだ。
汗くさいまま一緒にいたくもないし、ありがたくそうさせてもらおう。
シャンプーやら洗顔やらの使い方を聞いてから、ひとりになった私はシャワーに身体をくぐらせる。
湯船のお湯もためていてくれたようなので、しばらくはゆっくりしてもよさそうだ。
ひとりきりの時間を持てる間に、いったん気持ちの整理をつけておこう。
それにしても、ことお風呂っていうのはその家の生活性が出るなと思う。
ウチはシャンプーもボディソープも洗顔も、そのほかアメニティの一切が基本的に家族それぞれ別のもの。
共有が嫌というよりは、それぞれのこだわりが強いせいだ。
自分の肌や髪に合う合わないで、それぞれに試行錯誤を試みた結果、洗い場はカラフルな容器がずらりと並ぶ有様になっている。
ぱっと見で、ちょっと見てくれは悪い。
一方のユリの家は、たぶんすべて共有なんだろう。
整頓された棚に洗剤類はそれぞれ一本ずつ。たぶんユリのチョイスなんだろうけど、彼女のお父さんはあまりこだわりが強くない人なのかもしれない。
何度か顔を合わせたことはあるけれど、物静かで優しそうな人だった。
「星~、ちょっといい?」
「ひゃい!?」
ノックとともに突然声をかけられて、思わず変な声が出てしまった。
振り返ったすりガラスの扉ごしにユリのシルエットが見えて、私は一度シャワーを止める。
「スパイス切れてたから、ちょっとスーパーに行ってくるね。すぐ帰ってくるから」
「買ってこなきゃいけないくらいなら、別にカレーじゃなくてもいいよ」
「いやいや、リクエストにはお答えするのがシェフのプライドってやつですよ」
そう言い残して、彼女の陰は扉の前から離れていった。
ほんとびっくりした。服もなければ逃げ場もない状態での不意打ちは、勘弁してほしい。
思わず、一緒に入ってくるのかと思ってしまったじゃないか。
そうはならないんだけどさ。
だけどそういうことなら、少しくらい長風呂をしたって平気だろう。
茹だった頭を黙らせるには、さらに茹で上がるくらいに熱いお風呂に浸かるのが一番だ。
「うわあ、星、まっかっかだね。大丈夫?」
やがて買い物から帰ってきたユリは、すっかりのぼせた私の姿を見て目を丸くする。
私はぼんやりまなこで頷き返す。
「大丈夫。ふわふわして気持ちいいくらい」
「とりあえず、はい。湯上り一杯コーヒー牛乳」
「ありがと」
ユリが買い物袋から出したミルクコーヒーのペットボトルを受け取って、自分の首筋に当てがう。
多少はぬるくなっていたけれど、今の自分にはちょうどいいひんやり具合だった。
それからカレーができあがるのを、特に興味もない情報番組を観ながら待つ。
殻ごと焼いたエビを、さらに殻ごとすりつぶして混ぜるという豪快な作りのエビカレーは、調理工程のあらゆる段階で匂いの暴力がやばい。
暑さであまりお腹も空いていなかったのだけど、既にお腹がお代わりまで欲している。
「沢山作るからね〜。余ったら冷凍しとくだけだから、食べたい分だけ食べてね」
「カレーって冷凍していいものなの?」
「冷凍しちゃいけないものなんてないよ! 小分けして冷凍しとくと、ちょっとしたときに食べられて便利なのです」
「へえ」
役に立てる機会があるかわからない生活の知恵を小耳に挟みながら、夕食の時間は何事もなく過ぎていった。
それからユリの選局チョイスで大河ドラマを観て、副音声ばりの解説をその口から聞き。
私が「たまたまやってるのを見たときしか観てない」と言ったら、なぜか録画分からベストチョイス集がはじまり(この、リアルタイムで見てるのに録画もするという感覚が私にはついぞ理解できない)。
また熱い解説があり。ほどよく口が回りきったらしいところで、ユリはいい笑顔で寝る準備に入った。
何事もない。
平和だ。
楽しいことは楽しい。
でも怖い。
なんでだろう。
この楽しい時間がどうしょうもなく仮初めの、茶番じみたものに感じてしまうのは、私が単に薄情なだけ?
ユリの部屋で、ベッドの脇に布団を敷かせてもらいながら、彼女がお風呂からあがってくるのを待つ。本日二度目のひとりの時間。
この部屋に入ったのもお見舞いのとき以来?
あの時は私もから元気みたいなものだっけど、今よりは冷めた落ち着きがあったような気がする。たぶん、他人事の恋を見ていただけだから。
そのひとつの恋が終わって、そこからは他人事じゃなくなって。
だからきっとこんなにも、この部屋が息苦しい。
制服にボタンが無いからと言って、無理言って貰ったというコートの第二ボタンは、今はもう目につく場所にはなかった。
部屋のどこか、きっとユリにとって大切なものをしまう場所にしまってある。
そして私は、その場所を知ることはない。
だったらせめて、私の手紙も同じ場所に仕舞われていたらいいなって。
ユリにとって同じような価値でいてくれたらいいなって。
大勢のうちのひとりじゃない、特別なひとりで居てくれたらいいなって。だとしたら、今もまだ隣に居られる私のほうが、第二ボタンのあの人よりも勝ったって、胸を張って言えるような気がする。
そんな浅い対抗心が、今の私を自信づけている。