今日は、朝の教室で今日のテストの準備を使用と思い、いつもより三〇分ほど早く登校した。
いつもなら部活の朝練の声が聞こえる時間帯なのだろうけど、流石に今日はどこも休み――かと思ったら、どこかからかすかに金管らしき楽器の音が聞こえる。
テスト期間であっても吹奏楽部はどうやら平常運転らしい。確か、来週末が県大会だったかな。
ここしばらく、放課後も合奏は聞いた覚えがないので、流石に個人練習扱いにはなっているのだろうけど。
吹奏楽部の練習の大半は、場所も自由な個人練習がメインだと聞いている。
合奏練習は、それがちゃんとできているのかの確認と、新たな課題の洗い出しが目的といったところが大きいそうだ。
特に吹奏楽みたいなオケ式の音楽は、だいたい指揮者である指導者の頭の中に曲の完成形のイメージがあって、演者たちはいかにそれを再現できるかというところが完成度の軸になる。
もちろん指導者も演者ひとりひとりの個性とかを加味して、そこから目の前の「チーム」としての完成形をイメージするのだろうけど、私みたいな個人競技しかやってこなかった人間からすれば、どうしても窮屈な環境のようにも思えてしまう。
もっとも街のオーケストラ楽団とかのそれとは違って、主力メンバーの大半が毎年必ず入れ替わる部活動としてのオケをまとめるのは、指導者側だって並の苦労ではないのだろう。
その実、ウチの学校の音楽教師は、数いる教師陣の中でもトップクラスの重鎮だ。
かれこれ二〇年近く、定年後も再雇用という形で学校に残り続けている猛者だという。
吹奏楽部が強豪の一角であり続けるのも彼女の存在が大きい。
私は、芸術科目の選択は書道を取ったので、ついぞお目にかかることななかったけれど。
クラスメイトの話では、期末テストの一環として作詞作曲をしたうえで、それをセルフで独唱させられるらしい。
選ばなくてよかったと心底思う。
そんな吹部の練習音を聞き流しながら、教室へ向かう前に中庭へと足を運ぶ。
自分自身の宿題を、忘れないうちに終わらせておこうと思ったからだ。
今日はあいにくの曇り空。
アヤセの言った通り、今夜から明日の朝にかけて雨が降るようだ。
目立たなくても屋根のある場所に設置してよかった。
笹の前までくると、既にちらほらと短冊がさがっているのが見える。
生徒会のみんながもう書いたのかなと思ったけど、どうやら一般生徒のもののようだ。
――いくぞ全国!
――全国金賞!
なるほど、それこそ吹奏楽部か。
願掛けをするには七夕はベストなタイミングだろうな。
かと思ったら、ちゃんと生徒会の面々の名前も目に入った。
――新人大会優勝 八乙女穂波
整った綺麗な字でごく端的に記されたお願いだった。
インターハイ予選では涙を流した彼女だったけど、もうすっかり切り替えて次の大会に焦点を絞っているようだ。
新人大会と言えば二年生がメインの大会だけれど、彼女ならきっといい線いけると思う。
このお願いはたぶん団体戦のことを言っているんだろうけど、個人戦だって十分優勝を狙えるんじゃないだろうか。
この間の予選で負けた相手も、あの世代の優勝候補――というか、実際にあの後優勝を飾った選手だった。
それにベストエイトで当たってしまった不運を悲しむより、善戦できたことを次に生かす方が有意義だと言える。
少なくとも彼女の剣は、今でも十分、全国レベルに通用するということだ。
本当にすごい。
――ちゃんと膨らむシフォンケーキが焼きたいです 歌尾
これは宍戸さんか。
もう登校してるのかな、とも思ったけど、たぶん昨日のうちにさげて帰ったんだろう。
だとしたら、穂波ちゃんのもそうかな。
実家から片道二時間かかるという宍戸さんがこの時間に登校するには、始発に乗っても間に合わないだろう。
シフォンケーキっていうと、元バイト先でもあったふわふわのあれだよね。
母親も趣味でたまに作ってくれるけど、なかなか綺麗に膨らまないといつも嘆いているのを耳にする。
ケーキとしては基本の〝き〟みたいな存在に思われがちだけど、その実、どのケーキ作りとも違う知識と技術が必要とされているのかもしれない。
じゃあ、本当に基本に適したケーキってなんだろう。
そのうちユリにでも聞いてみるか。
――青春真っ盛りな恋がしたい! アヤセ
何書いてんだあいつ。
てか、ちゃっかり自分も帰りにさげていったんだな。
そう言えば誕生日の時も恋人どうこう言っていたっけ。
他人からの愛に飢えてるのかな。
短冊に書くぐらい切実なら、普段からもうちょっと優しくしてあげてもいいのかもしれない。
いや……無理かな。気を遣うのはそれはそれで、なんだかキモチワルイような気がする。
――生徒会長になります ゆづる
――会長たちともっと仲良くなりたい 美羽
二年生たちもいつの間にか短冊をさげていた。
みんなそんなにその場ですぐ書いて、笹にさげていけるものなの?
女子高生の行動力こわい。
それにしても、銀条さんって生徒会長目指してたんだ。
まったくそんな素振りはなかったけど。
そもそも役員にだって、誰でもいいから人手が欲しいと先生経由でお願いしてもらって、それで立てて貰ったふたりだったし。
そんな感じで生徒会にやってきて、その結果として会長になりたいって思ってくれてるなら、それはそれで嬉しいことだけど。
もしくは、私みたいなのでも会長が務まるって知ってハードルが下がったのかな。
彼女も上の大学を目指しているようだし、生徒会長という肩書は必ず助けになるだろう。
で、金谷さん。
これまでで一番願望っぽいけど、それって別に星にお願いしなくってもいいのでは。
それにこんなの見てしまったら、仲良くしないわけにはいかないじゃないか。
むしろ、それを見越してわざわざこうして短冊に書いたのかな。
だとしたら侮れないな。
七夕の短冊にはこういう使い方もあるんだなと、ひとつ勉強になった気がした。
あとは心炉だけど、まばらに吊るされた短冊の中にその名前は見つけられなかった。
どうやら彼女はまだお願い事を書いてないようだ。
私と同じで、宿題をちゃんと宿題として持ち帰ったんだろう。なんか少しだけ安心できた。
「あれー、星、なにやってるの?」
短冊を読むのに集中していた私は、突然の声にびくりと肩を揺らす。
振り返ると、中庭に出る廊下の大窓のところでユリが手を振っていた。
彼女はぱたぱたと一目散に駆けてくると、すぐに目の前の笹に気づく。
「あ、七夕! いつの間に始まってたんだ?」
「昨日の放課後に設置したの。だから今日からって言っていいくらいだと思う」
「そうなんだー。星はもうお願い事書いたの?」
「今さげるとこ」
そう言って、鞄の中から取り出した短冊を彼女に見せる。
初志貫徹で「大学合格」。
その四文字を見たユリの反応は、昨日のアヤセのそれと全く同じだった。
「ええー、つまんないね」
「つまるつまらないの問題じゃないでしょ。私にとっては切実なの」
「その気持ちはわかんないなあ」
「分かれ受験生」
私の苦言はさらりと聞き流されて、彼女は傍らの長テーブルに飛び寄る。
そのまま短冊とペンをひとつずつ手に取って、さらさらとお願い事を書いた。
――今が未来までずっと続きますように ユリ
「わけがわからない」
素直な感想が第一声で漏れた。
「ええー、どこからどう見ても素敵な願いじゃん!」
「いや、わけがわからない」
ぷりぷり抗議する彼女に、もう一回だけ言ってやる。
今がずっと続くなんて、そんなことあり得ないのに。
あり得ないからこそお願いにするのか。
でも、それってすっごく不毛な気がする。
どうなんだろ。
「みんな変わらず傍にいてくれたらいいなっていう。そう、言わばこれは世界平和だよ! あ、もっかい〝世界平和〟って書こうかな?」
「短冊も資源なんだから無駄にしないでくれる?」
「じゃあ、今のままで大丈夫。一緒にさげよ?」
言われるままに、一緒に短冊を笹に吊るした。
それぞれのお願い事が、並んでそよ風に揺れる。
満足げに眺めるユリの横顔に、思わず小さな笑みがこぼれる。
「あれ、七夕って神道? それとも仏教?」
「どっちでもないお祭りだけど、奉納するのは神社だから、これは神道でいいんじゃない」
「じゃあパンパンするー」
言うや否や、ゆりは二礼二拍一礼を経て短冊にもう一度願掛けを行っていた。
明後日の撤収日までに、どれだけのお願い事がここに集まって来るのか分からない。
でも、ひとつひとつにこうして真剣な願いが込められているのなら、ちゃんと大事に神社まで届けないとなって、そんな気分になるものだった。