自宅で勉強が集中できなくなったのはいつからだろう、と考えたら、実は集中できていたころなんてないんじゃないかって思えてくる。
高校受験のころは私も学習塾というものに通っていて、家以外の場所で集中して勉強していたし。
逆に家に帰ってくれば騒々しい姉の相手をさせられることが多かったので、心休まるようなときはない。
そのせいもあってか、私はどちらかと言えば騒がしい環境の方が自分の世界に入り込めるんじゃないだろうか、と思うようになってきた。
学校のほうが勉強も作業もはかどるし。
集団の中において、それでも個であることを感じられるとき、私は本領を発揮できるのかもしれない。
ぼっちの言い訳に聞こえてしまうのが、すごくアレだけど。
だからはじめから個であることを理解して、実際にひとりぼっちでいる家の中というものが、ここ最近とくに苦痛に感じられる。
騒々しいのは嫌いだけど楽しい。
この相反する感情を分かってくれるひとがどれだけいるかは分からないけれど。
私は今、机に向かってノートと参考書、そして姉が残した彼女の教科書――通称アネノートを開いて来週の校内模試に備えている。
ウチの学校では、全国模試は秋の1回を除いて基本的に希望者のみ。
代わりに三年になれば頻繁に校内模試があって、それで進路のねらい目をちょくちょく判断する。
今回のもそのひとつではあるけれど、来月の三者面談の材料にされるので、重要度としては年間でもかなり高い位置にあると思う。
良し悪しよりは、その結果を受けて、ここから年明けの共通テストまでどれだけ歯を食いしばって頑張れるか。
その目標と覚悟を決めるためのテストと言ってもいい。
自分の実力というやつを客観的に判断するならば、今回の模試はかなりいい線を行けるはずだ。
だけど私という人間はどうしようもなく、こと本番というものに弱いもので。
だからその「いい線いけるはず」の前には、「ミスさえしなければ」という前置きをつけなければいけない。
実際、それで泣きを見たのが年度明けの実力テストだ。
とりわけ今回は、毒島さんとの勝負の行く末もかかっている。
私が彼女と真正面から向き合うために、彼女自身を越えなきゃいけない。
なんていうと少年漫画の主人公みたいな熱い展開だけど、決してそんなカッコいいものじゃなくって。
これは、そもそもが最悪だったふたりの出会をやり直すための、儀式みたいなもんだと私は思っている。
もんもんといろいろ考えていると多少は目の前のことに集中できて、小一時間ほど経ったころに軽くひと息入れることにした。
コーヒーでも淹れようかと立ちかけたところで、ベッドの上に放り投げていたスマホが震える。
メッセージ通知じゃなくって通話のそれ。
手に取って、画面を見て、ため息をひとつつく。
一瞬、見なかったことにしようかと迷ったけれど、それはそれで後々めんどくさそうなので、一〇コール目くらいの時に通話ボタンを押した。
「なに」
『なにとはなんだ。愛しのお姉さまだぞ?』
鼓膜を直接突かれるようなうっとおしい声に、思わず顔をしかめる。
どうせ電話越しじゃ相手には見えないので、これでもかと思いっきり顔をゆがめてやった。
『久しぶりに妹の声を聞きたくなったお姉さまが電話しちゃいけない?』
「駄目でしょ」
『どこの法律がそんなことを決めたの!?』
姉の泣き言がキーンと頭に響く。
このままじゃ鼓膜がやられそうなので、私は通話をハンズフリーにして、スマホを再びベッドの上に放った。
「今、模試の前で忙しいから。用事無いならほんとに切るよ」
『うーん、まあ、用事はあると言えばあるし、ないと言えばないんだけど』
「じゃあ切ります」
『まって! せめてもうちょっとだけ話を聞いて! 用事もないわけじゃないんだって!』
なら、さっさとそれを言ってくれ。
こっちはようやく勉強に集中できて、いい感じだったんだから。
『えっとねー、とりあえずひとつめ。天気いい日にお姉ちゃんの防具を陰干ししといて』
「防具? なんで?」
『なんでって、後輩ちゃん――穂波ちゃんだっけ? 相手してあげて欲しいって言ったの、星のほうじゃん』
「ああ、なるほど」
そう言えば、そんな話をしていたっけ。
自分でした約束だったけど、姉に伝えたっきりですっかりやり遂げた気分になってしまっていた。
高校剣道界ではそれなりにブイブイ言わせていた姉だけど、大学ではいまのところすっぱり道を外れているらしく、防具も道着も竹刀すらも、全部この実家に置きっぱなしだ。
いわく、少なくとも三年になるまでは、そもそも暇がなさそうとのこと。
個人で全国ベスト四に残って、時代の四天王なんて呼ばれた成績を残していれば、それですっかりやり切ったと言われても十分納得できる。
ほんとに好きなことなら、やろうと思えばまたいつだってできる――というのは、姉自身の言葉だった。
いつ言ったのかは覚えてないけど、言葉だけがなんでか耳に残っている。
『それにしても、星が後輩ちゃんのために何かをしてあげるなんて……どうしてその優しさをお姉さまに向けられないの?』
「自分の胸に聞いてみな」
『うーん……大きくて柔らかくて揉みごたえがあるくらいしか分からない』
「切ります」
『まって! まだ話題のストックはあるから! とりあえずお姉ちゃん、八月の頭まで授業あるから、帰るのお盆くらいになるから!』
「そっからしばらくいるの? 大学の夏休みって二ヶ月くらいあるんでしょ」
『うーん、そうだね。こっちで何も用事かなかったら、九月中頃くらいまではゆっくりしたいなーっては思ってるけど。相方の予定も確認しつつかなあ』
「わかった。穂波ちゃんにもそう伝えとく」
それだけ時間があるなら、どこかで予定はあうだろう。
でもどこで稽古するつもりなんだろう。
普通に部活にOBとして顔出せばいいのかな。
まあ、その辺はご本人たちによしなにしてもらうとして。
『それで、そっちのほうは模試の意気込みはいかがですかにゃ?』
「いつも通り、やれるだけのことをやってるだけだけど」
『そう。ならいいんだけど。まだまだ、これからが受験勉強も本番なんだから、結果が悪くっても落ち込まないでガンバロウ!』
「テストやる前に、結果が悪い前提で話さないでくれる?」
電話越しじゃなかったらぶんなぐってやるのに。
行き場に困った握りこぶしを、布団の上に振り下ろす。
夏用の薄い羽毛布団が、ぽすんと頼りない音を立てて、拳を優しく包んでくれた。
『えー、でもほら、星って本番弱いから。お姉ちゃん心配で』
それを言われたらぐうの音も出ないんだけども。
「本番に弱いなら、これは本番じゃないから大丈夫」
だけど心配されてるという状況がこのうえなく癪なので、そう返しておく。
するとスピーカーの向こうで、姉がくすっと笑ったような気がした。
『言われてみれば確かにそうだね。じゃあ、お姉ちゃんも今のところは心配ない』
「分かってくれたら、いい加減に切ってもいい?」
『勉強してたとこにごめんねー。また寂しくなったら電話するから!』
「二度とかけてくんな」
最後まで自分勝手な言葉を残して、姉からの通話は途切れた。
スマホの画面がホームに戻るのと一緒に、大きなため息がこぼれる。
そうそう。
これこれ。
このイライラとむかむかした感じ。
久しく忘れていた感覚に、思わず笑顔のひとつもこぼれる。
これのおかげで今までやってこれたんだっけ。
本当に悔しいことだけど、姉のおかげで今日はとりわけ勉強がはかどりそうだ。