テーブルの上のパスタ皿から、湯気と一緒に魚介とトマトのいい香りがする。
個室があるタイプの居酒屋――のランチ営業に足を運んでいた私は、おすすめのパスタのセットを頼んで、だけど食は進まずにただ自分の皿をじっと見つめているしかできなかった。
魚介系の香りの大半は、出汁として使われているワタリガニによるもの。
たしかグランキオとかいう名前のそのパスタには、半身に割かれたこぶし大のカニが、姿そのままで乗っていた。
「食べないの? 美味しいよ?」
向かいの席では、バイト先の社員である天野さんが、同じパスタの皿の中身を美味しそうに頬張っていた。
フォークとスプーンを使って器用に麺を巻き取る方法は、本場イタリアでは子供の食べ方だと笑われてしまうと誰かに聞いた。
でもお高いイタリアンレストランも、ましてや地中海沿岸への渡航の予定もない純日本人である私にとっては、むしろ美しい食べ方であるとさえ感じる。
「気持ちは食べたいんですけどね」
そう言って私は、付け合わせのサラダの方に口をつける。
まだこちらの方が、押し込めば喉を通っていく。
「狩谷さんの方から誘ってくれたのは嬉しかったけど、ご飯の前に本題に入っておいたほうが良かったかな?」
「すみません、わざわざ連れてきてもらったのに」
「いいよ、今日はシフトでお休みを貰ってたし」
彼女は、手にしていたカトラリーを手元に置くと、ナプキンで口の周りのソースをそっとぬぐう。
それから私に向き直って、ほんのりと笑みを浮かべた。
「それで、相談っていうのは?」
それが本題。
誰かに助けを求めたかった私は、そう多くない候補の中から唯一、彼女のことを選んだ。
単純に人生の先輩ということもあるけれど、学校のことを話すのであれば、匿名のSNSで呟くようなちょうどいい距離に感じられたからだ。
「あの……くれぐれも、アヤセには話さないでくださいね」
散々の前科があるので、それだけは口酸っぱく言っておく。
「お姉さん信用ないなあ……でも、分かった。約束するよ」
彼女は、ちょっぴり悲しそうに眉尻を下げてから、自分の両手の小指を絡ませて、指切りみたいに掲げてみせた。
「実はその、知人とうまくいってなくって。うまくいってないというか、基本的には私が悪いんですけど」
「友達ではなくって?」
「そこもなんというか複雑で」
天野さんの質問に、私は僅かに口ごもる。
本当は何も複雑なことなんてない。
私がただ、意地っ張りで認めていないだけ。
でもそこは問題の核心ではないような気がして、私は細かく説明することを省いた。
「仕事仲間くらいに思っておいてください。同級生ではあるんですけど」
「あっ、もしかしていつだか来た、独特なTシャツ着てた子?」
「ああ……やっぱり、そういう覚えられ方してるんですね」
ズバリそのものを当てられてドキリとする。
そう言えば、あの時にドリンクの対応してたの彼女だったな。
そもそも彼女の余計な気遣いで、毒島さんと一緒にお茶をするはめになったんだった。
あれ、もしかして原因のいくばくかは、天野さんにもあるんじゃないだろうか。
だとしたらこのことを彼女に相談するのは、いくらか筋が通っているのかもしれない。
「それで、その子とどうしたの? 喧嘩でもした?」
天野さんは、しれっとした様子で話の続きを促す。
私にとってはそこが一番曖昧な部分であって、首をかしげながらたどたどしく答えた。
「喧嘩らしい喧嘩でもなくって。むしろ愛想を尽かされたというか……私が悩んでいるところに、彼女が手を差し伸べてくれたんですけど、私、それを受け取ることができなくって。それで、そのまま別れたっきりで。彼女は気にしてないって言ってくれましたけど、そんなことあり得ないじゃないですか」
「うーん、あり得ないってことはないんじゃない。その子の本音は、その子にしかわからないわけだし」
「それはそうですけど……」
そんな楽観的な視点を私は持つことができない。
考えるなら最悪を。
そしてその対策を取ることが、うまく生きていくためのコツだと思っているから。
「とりあえず、狩谷さんはその子とどうしたいのかな?」
どうしたいか。
そう聞かれると返事に困る。
彼女は私にとって……やっぱり、仕事仲間という表現がいちばんしっくりくる。
頼りになる同僚。
信頼できる相棒。
副会長として、会長以上に生徒会をやりくりしてくれた彼女は、なくてはならない存在だ。
「これが喧嘩だというなら、仲直りはしたいです。愛想を尽かされたのだとしたら……信頼は取り戻したいですね」
「なかなか我が儘だねえ」
「……そうですか?」
素直な気持ちを言ったつもりだけど、我が儘と言われれは不安にはなる。
そんなに独りよがりな願いだろうか。
それを判別する思考回路が私にはない。
そんな答えも笑って許してくれた天野さんは、パスタをひと口食べながら、しばらく考え事をしていた。
「えっと……そもそもさ、狩谷さんが悩んでたことって何なのかな? 聞いちゃダメなこと?」
「それは、その」
まあ、こうなることは予想していた。
こっちはたぶん、今の問題と切っても切れないこと。
毒島さんが私に歩み寄るきっかけであり、原因となってしまったもの。
核心。
私の心臓。
「私、その……気になる人がいるんです」
誰とは言わない。
けど、悩みに悩んだ末に、私はすべてをぶちまけてみることにした。
その人が最近、想い人に振られたこと。
その後、自分なりにずっと支えてきたこと。
それで、失恋から立ち直ってくれていると思い込んでいたこと。
だけどつい最近――その人がまだ、想い人と連絡を取り合っているらしいことを知ったこと。
「それでなんか、私、ぐちゃぐちゃになっちゃって。たぶん態度にもでちゃってて。そこを、問題の彼女に気づかれちゃって――って、聞いてます?」
一世一代の大暴露のつもりだったんだけど、天野さんはいつの間にか、両手で顔を覆った恰好で俯いていた。
「大丈夫、ちゃんと聞いてるから。でもちょっと、リアルなJKのコイバナで、私のなけなしの乙女センサーが故障しちゃって……思ったよりどろどろのぐちょぐちょだよ……キラキラ青春なんて存在しないよ……」
天野さんは、恨み節みたいに唱えてから、気を取り直すようにコップの水をひと口含む。
「じゃあ狩谷さんは、彼女が手を差し伸べてくれたけど、コイバナできるような関係じゃないから受け取れなかったってことなのかな」
「それもありますけど、急に踏み込まれてびっくりしてしまったというか……私、自分のそういう相談って人にしたことなくって。だからどうしたらいいのか、わからなくなってしまって」
自分のことを人に話すのは苦手だ。
さらけ出すのが苦手だ。
私がユリとアヤセと一緒に居られるのは、彼女たちがそういうところに無理に踏み入ってくることはしないから。
「狩谷さんは、友達にかっこ悪いところ見せたくないんだね」
「え?」
「友達の前では、かっこ良くて頼れる狩谷さんでいたいんだね」
そんなこと、考えたこともなかった。
確かに見柄を張ることはあるけれど。
それは天邪鬼的なものであって……まわりにもそう言われるし。
「狩谷さんは、自分の弱いところを見せるのが苦手なんだと思う。弱いところを見せちゃったら、嫌われちゃうって思っちゃうからかな。でも、それ自体は悪いことじゃないと思うの。狩谷さん自身が、その子たちとずっと友達でいたいって願ってやってることだと思うから」
「それはそう、ですね」
友達でいたい。
それは彼女たちと――ううん、ユリの隣にずっといるために、私が選んだ関係だから。
「じゃあ、弱みを見せられなかったその子とも、狩谷さんはお友達でいたい――もしくは、ちゃんとお友達になりたいって思ってるんじゃないのかな?」
「私が……?」
そうなんだろうか。
いや、そうなのかもしれない。
結局、毒島さんとの距離感を宙ぶらりんにしているのは、私の中の天邪鬼の仕業だ。
でも彼女が一歩踏み込んで、手を差し伸べてくれたその時、確かに「私の弱み」を彼女にさらけ出すのを戸惑った。
それは私自身が、弱い部分をさらけ出すことで、幻滅されたくないと思ったからだ。
やる気はないけど、なんだかんだでやるときはやる。
私自身が創り上げた、狩谷星という生徒会長ブランドがそうだった。
それは毒島さんに私という人間を納得させるための、いいわけじみた偶像だ。
「その子ともう一度、いちからちゃんとお友達になってみたらどうかな?」
「なれますかね、私」
「狩谷さんにその気持ちがあるなら大丈夫だよ」
彼女の言葉が背中を優しく押してくれる。
私が求めていた答えというよりも、はじめからそうすれば良かったというスタート地点の話。
私は今、双六でいう「ふりだしに戻る」を自らの意志で踏むべきなのだ。
返事をする前に、テーブルの上に置いておいたスマホが震えた。
手に取って、メッセージの通知の名前を見た私は、わずかに息を飲んだ。
「もしかして、その子から?」
「いえ……」
――遅くなってごめんね! 明日は空いてるから、一緒に計画立てよ!
「私が少なからず想ってる人の方です」
天野さんはぎょっとして、それからバツが悪そうに苦笑した。
「そっちはごめん……お姉さん、許容外でした」
「それくらいは自分でなんとかします……すぐにではないかもしれないですけど」
そうして私は、ようやく目の前のパスタに口をつけた。
すっかり冷めきったトマトソースは、それでもカニの旨味たっぷりでおいしかった。