94. 一番大切

 超人的な強さを見せる勇者、それは確かに『人族最強』だった。だがそれでもレベル千を誇る俺の前には赤子同然なのだ。


 怒りを込めた俺のこぶしがズン! ズン! と勇者の身体にめり込み、勇者は顔を歪ませる。俺のこぶしが入るたびに観客席からは悲鳴が漏れた。


 圧倒的なワンサイドゲーム。俺は勇者を完膚なきまでにボコボコにし、勝利のコールを得た。


 が――――。


 その瞬間、闘技場全体が困惑に包まれてしまう。


 彼らのヒーロー、王国の英雄、勇者が、ただの街の商人にボコボコにされ、倒されたのだ。その事実は、彼らには衝撃的だった。


 ここに俺は、おごり高ぶった勇者とそれをチヤホヤする貴族社会に痛烈な一撃を加え、歴史に残る大番狂わせを打ち立てた訳ではあるが――――、俺の心は晴れなかった。胸に去来するのは達成感ではなく、どこか虚無きょむのような感覚だった。


 そして、出る杭は打たれる。俺は予想通りおたずね者とされてしまう。ただ、俺にとってはその宣告は想定内、新たな人生の始まりを告げる鐘のようだった。


 全てが終わった後、俺は闘技場を後にする。警備兵が追ってくるが、俺は空へと飛んで振り切った。全てを捨てたその飛翔に俺は、限りなく自由になった解放感を感じ、クルクルと曲芸飛行を舞った。


 ヒャッハー!


 青空のもと、気持ちよく大空を舞うと、次に孤児院めざし、全魔力を全身に込めた――――。


 ドン!


 あっという間に音速を超え、衝撃波がさわやかな空に放たれた。



       ◇



 孤児院につくと孤児がワラワラと集まってくる。可愛い奴らだが今日は『また今度ね』と、断りながら奥の院長室へと急ぐ。最後の別れの挨拶をせねばならない。


 ノックをしてドアを開けると、院長が待ちかねたように座っていて、ソファに目をやるとなんとドロシーがいた。一か月ぶりのドロシーはすっかり憔悴しょうすいしきってせこけており、悲しそうにうつむいていた。その姿に、俺の心臓がズキッと痛む。


「待ってたわ、まぁ座って」


「いや、ここにも追手が来ると思うので、長居はできませんよ」


「分かったわ、手短にするから座って」


 院長ににこやかに諭され、俺は大きく息をつくとドロシーの横に座る。その瞬間、ドロシーのふんわりと柔らかな匂いを感じ、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、そっと胸を抑えた。


「武闘会はどうだったの?」


 院長は、俺の向かいに座りながら聞く。その声には、好奇心の色がある。


「問題なく勇者をぶちのめしてきました」


「はっはっは、すごいわね。【人族最強】をあっさりとぶちのめすって、あなたどんだけ強いのよ」


「人間にはもう負けませんね。でもこの世は強いだけではどうしようもないことの方が多いです」


 俺の言葉には、人間の限界を悟った者の諦めが滲んでいた。


「うんうん、そうよね。で、これからどうするの?」


 院長は優しく微笑みながら身を乗り出す。


「お話した通り、しばらくは山奥に移住します」


 院長はうなずくと、優しく静かに言った。


「あのね……」


 その声音には、重大な言葉の前触れが感じられる。


「ドロシーがね……、ついていきたいんだって」


 ドロシーは静かに俺の手に手を重ねた。その温かくやわらかな手のひらには、言葉にできない想いを感じる。その感触が、ふたをしかけていた感情を呼び覚ます。


 しかし――――。


 危険な目に遭わせるわけにはいかない。その思いが、胸を締め付けた。


「連れていきたいのはやまやまですが……、とても危険です。俺には守り切る自信がありません」


 ドロシーがキュッと俺の手を強く握り、俺はいたたまれない気分に陥る。


 ヌチ・ギは不気味だし、王国軍だってバカじゃない。逃避行に女の子なんて連れていけない。その現実が、俺の心を苦しめる。


 重い沈黙の時間が流れた――――。


 ドロシーがか細い声で切り出す。


「ねぇ、ユータ……。あの時、私のことを『一番大切』って言ってくれたのは……本当……なの?」


「もちろん、本当だよ。でも、大切だからこそ危険にはわせられない」


 俺はドロシーの手を取り、両手で優しく包む。この愛しい温もりを危険にさらすことはとても耐えられないのだ。


「やだ……」


 そう言ってドロシーはポトリと涙を落した。その一滴に、彼女の全ての思いが込められているようだった。


「ドロシー……、分かってくれ。俺についてきたらいつかまたひどい目に遭う。殺されるかもしれないよ」


 俺の声には、懇願と恐れが混ざる。


「構わない……」


 ドロシーの返答は、覚悟と決意に満ちていた。


「か、構わない? そんなことあるかよ! 本当に、比ゆなんかじゃなく、殺されるんだぞ!」


 俺の声が高くなる。なんとしてでも、ドロシーには安全でいて欲しいのだ。十八歳の女の子として、平凡な幸せに包まれた暮らしで笑っていて欲しい――――。


 しかし、ドロシーは首を振る。


「殺されたっていいわ! このまま別れる方が私にとっては地獄だわ」


 ドロシーは涙いっぱいの目で俺を見る。その瞳には、揺るぎない愛情と決意が光っていた。


「ドロシー……」


 『殺されても構わない』と言われてしまうと、もう俺には返す言葉がなかった。その言葉の重さに、俺の心が揺れ動く。