結婚生活は始まった時点で破綻していた。能世には父親の才能がなかったし、不動はそんな能世を軽蔑した。生まれてきた子どもに対して能世が行ったことといえば名付けだけで、それも灘に「繭理ちゃんが産んだ時点で能世の子どもでもあるんだよ」と説得されてのことだった。不動は俳優を辞めた。そうして、本名の弓引鞠在名義で小さな会社を立ち上げ、おもに俳優・戯曲作家・演出家としての能世春木のマネジメントを行った。不動──弓引に能世に対する愛情はなかった。そんなものは学生時代にすべて使い切っていた。会社を立ち上げた理由はひとつ。能世を逃がさないためだ。不動繭理であれば、ひとりで娘を育て上げることも可能だろう。だが不動繭理はもういない。弓引鞠在という娘を抱えたひとりの母親として、能世春木に父親としての責任を取らせようとした。能世春木が娘の父親ではないことなどとうに分かっていた。だが弓引には娘の実の父親を探そうという強い気持ちがなかった。子どもが欲しかったのだ。欲しかったから、産んだ。弓引鞠在はひとりで完結していた。冷え切った家庭で石波小春──弓引春花は育った。父親はいつも家にいなかった。母親は春花になにかを期待していた。なにか。春花は俳優になる星の下に生まれた娘だった。鞠在は春花に何もかもを教え込んだ。ほんの子どもの頃から映像作品に出演し、小学校に上がる前には子役として劇団に所属した。学業を疎かにすることは許されなかった。学校、稽古、学校、公演、塾、稽古。息詰まる生活の中に、ある時ひとりの男が現れた。久しぶりに家に戻ってきた能世が連れてきたのだ。「今度の公演で稽古場代役をお願いするから」と能世は鞠在と春花にその男を紹介した。母親に期待され続けている現状とは別の意味で呼吸が止まりそうなほど──美しい男だった。春花は、母親の鞠在のことを世界でいちばん美しい生き物だと思っていた。ひと目で塗り替えられた。世界でいちばん美しいのは、
「初めまして、灘、と申します」
握手のために差し出された手。青白い肌、綺麗に切り揃えられた爪、手の甲に浮かぶ細い血管さえも美しい。
「お父さん……能世さんにはお世話になってます。よろしくね、春花ちゃん」
冷え切った家庭に熱が投下される。
だがその熱は、あまりに危険な代物で。
春花は父親、能世春木にはまるで似ていなかった。母親の鞠在には瓜二つとまで言われるような顔立ちをしていたが、能世の持つどこかファニーな魅力を春花は持っていなかった。
灘一喜は当たり前のように弓引家に落ち着いた。家の中にはいつも彼がいた。能世が帰宅しない夜も、灘はお土産のケーキを持って帰ってきた。
「お父さん」
春花が初めてそう呼んだ相手は能世ではない。灘だ。
灘は形の良い眉を跳ね上げることで驚きの感情を示し、
「そうだったらいいんだけどなぁ」
とどこか困り果てた様子で微笑んだ。
小学校を卒業する頃には、学内行事のほとんどに灘が参加するようになっていた。能世も鞠在も忙しいのだ。入学式、授業参観、三者面談、運動会、学園祭。灘一喜は必ず足を運んでくれた。春花にとって灘は自慢の男だった。学園祭、彼と腕を組んで校内を回るのが楽しくて仕方がなかった。灘が能世のもとで『稽古場代役』という仕事をしているということは知っていた。だが、だからなんだというのだ。灘は誰よりも──家に金を落とすだけの能世よりも、春花に過剰な期待を寄せる鞠在よりも、側にいてくれる。人前で灘を「お父さん」と呼ぶのが春花の楽しみとなった。ふたりきりの時は「一喜くん」と呼んだ。灘は静かに笑っていた。灘は春花を受け入れてくれた。それは恋だった。世界でいちばん美しい父親を、春花は愛した。
中学を卒業し、高校に進学。芸能活動に理解があることで有名な学校を受験し、あっさり合格した。学校にはほんの数日しか通っていない。今も。高校生。もう大人になった。春花はそう思っていた。鞠在は春花に幾つもの仕事を持ってきた。舞台の仕事が多かった。学校も、部活も、春花にとっては大して重要なものではなかった。仕事がしたかった。だってもう、大人だから。そうして灘に認めてもらうのだ。大人として──女性として。
二年前。二年も前。
春花は灘に愛を告げた。ずっと好きだった。お父さんだなんて思ったことはない。あなたを愛している。だからあなたも、私のことを愛してほしい。
あの瞬間の、灘の表情を。
春花は忘れていた。記憶から消していた。
傷付いた顔。裏切られた顔。
どうして、と震える声で灘は言った。
「俺は春花ちゃんの……そういうのじゃ、ないよ」
じゃあどういうのなの。
灘の手首を掴んだ。春花から灘に触れたのはそれが最初で──最後になった。
「もう大人なのに。父も母も私に早く大人になれって言うから、頑張って大人になったのに」
灘の目から大粒の涙が転がり落ちた。
空白の一晩。
寝室で目覚めた春花の傍らに灘はいなかった。代わりに、リビングで頭を抱える能世と鞠在がいた。
灘は風呂場で手首を切って死んでいた。